48「さっさと来いよ。このクズ野郎」
「言っておくが」
奴はがっしりと拳を構えながら、
「強いよ、僕は」
ステップを踏んだ。
羽のように軽やかなフットワーク。ファイティングポーズも、攻防一体で隙のない構えだ。おそらく相当な場数を踏んでいる。真っ向から立ち向かって、勝てる相手とは思えなかった。
ならば、こちらも心を読むまでだ。
(こいつは、ボクシングどころか喧嘩もド素人だろう。パンチ一発でぶちのめすことも出来るが、それじゃ芸がない。左ジャブ二発で間合いを詰めながら、右ストレートで顔面を打ち抜くか)
なるほど、左ジャブ二発に右ストレート一発ね。
確かに僕は喧嘩の素人だ。ジャブで牽制された後に高速のストレートなんかが来たら、よけられるはずがない。そう、来ると分かっていなければ。
「行くぞ」
青木ヶ原は足を前方に出した。奴との距離は四メートルほどあったはずだが、一瞬にして間合いを詰められてしまった。そして青木ヶ原は心の中で目論んだとおり、左ジャブを僕の鼻めがけて打ってきた。
確かに早いが、来ると分かっていれば、回避することは可能だ。僕は奴の繰り出す左ジャブを二発、体をのけぞらせてかわした。すると青木ヶ原は、かかとの浮いた右足を外側に捻り、一緒に腰を回転させた。
来る。本命の右ストレートが。これを避けて――
「ッ!?」
打ち抜かれた。
青木ヶ原のパンチが、僕の顔面に。ボクシングの試合ならこれだけでKOを狙えるんじゃないかと思えるくらい、容赦のない攻撃だった。
「ぐはッ!」
僕は地面に倒れた。鼻が熱くなったと思っていたらつつーっと鼻血が出ていた。そのまま地面を転がり続けた後、僕は立ち上がった。ギリギリ十カウント内だった……と思う。
「……神奈月さん!」
「……大丈夫。危ないから離れてて」
心配して駆け寄ろうとするアリサさんに、僕は片手を広げて制止のジェスチャーを送った。
しかし、なぜ奴の心が読めているのに攻撃をよけられなかったか。
答えは単純。
奴のストレートが、僕の反射神経を遥かに超える早さだったからだ。
「ほう。なかなかタフだな。今ので決まると思ってたのに」
青木ヶ原は言った。
しかしそれは、対戦相手に贈る賞賛の言葉ではない。
獲物をいたぶる捕食者の愉悦の声だ。
「いや、君は誇っていいよ。大体の奴は今みたいなコンビネーションで倒せるんだが、君は最初のジャブにさえ動じなかった。今からジムにでも通えば、そこそこのボクサーになれそうだね」
「……そっちこそ、かなり本格的なストレートを打ちますね」
「ああ、僕は元世界ランカーからコーチを受けているんだ。商売上、敵が多くてね。護身用の技術が必要なわけさ。卑怯とは言わないでくれよ。その代わり、僕は正々堂々拳しか使わない。君はキックでもタックルでも反則技でも使いたまえ」
元プロボクサーから直々に手ほどきを受けていたのか。しかも世界ランカー。ならば、こいつの拳は凶器と同じくらい危険ということになる。対して、こっちはただの高校生。正々堂々とはよく言えたもんだ。
(こいつは、今の一撃で右ストレートを警戒するはずだ。ならばわざと反応できる遅さで右フックを放ってやろう。ガードはされるが、反対側からの攻撃には死角が出来る。油断しているところを下から左アッパーで華麗にフィニッシュだ)
なるほどね。
青木ヶ原は再度フットワークを踏み出した。
この男、どうやら本気で僕を潰す気らしい。普通は鍛えない顎を真下から打ち上げられれば、脳震盪どころか骨折もまぬがれない。
しかしこの男にも隙はある。それは、完璧なまでに完璧すぎるところだ。つまり、綺麗な勝ち方にこだわりすぎて、戦法がワンパターンなんだ。だから、そこを上手く突ければ勝てる。
「どうする? まだ続けるかい?」
青木ヶ原は言った。
その表情は先ほどの屋敷で見た温和な表情で、僕を心から心配しているように見えた。しかし、心の奥底で見せるその貌は、獰猛な野獣となんら変わりなかった。
「今なら間に合うよ。君も、酷い怪我なんて負いたくはないだろう? 負けを認めてアリサを大人しく差し出すなら、これ以上手荒な真似はしないよ」
(さっさと降参して泣きながら土下座しろ、この糞ガキが)
カチンと来た。いくら何でも何様だこいつは? 滅多に怒らない僕だが、ここまで言われては、青木ヶ原をぶん殴ってやらないと気が済まなくなった。
「さっさと来いよ。このクズ野郎」
「ほう……よほど死にたいようだな!」
僕の挑発に乗って、奴は足を踏み出してきた。
心の中で宣言したとおり、青木ヶ原は重心を右足にかけて、腰を回転させて右フックを撃ってきた。これはこれで早いが、予測できていれば対応できない速度ではない。僕は奴の右フックを左手でガードした。
ここまでは奴も想定の範囲内だろう。続けて奴は、ひざを曲げて、左足に重心を置き、腰を回転させた。次の瞬間には足のバネを効かせて、一気に左拳を突き上げてきた。
ここだ!
僕は思い切り顔を後ろにそらせ、青木ヶ原の左アッパーをかわした。アッパーはストレートと比べて予備動作が大きい。来ると分かってさえいればよけられるのだ。思ったとおり、これで青木ヶ原のガードはがら空きだ。僕は渾身の力を込めて、足を大地に踏みしめ、青木ヶ原の顔面めがけて右のロングフックを放った。
「くらえ!」
「――っ!?」
僕の拳は。
青木ヶ原の顔にめりこみ、奴をダウンさせたのだった。




