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第84話 ~とある総督の愚痴~

誓約歴1260年8月初頭


 美しい港湾を有する共和国の首都ヴィネタでは残暑に負けない活気が溢れており、明日に控えた催し物にかかる準備が進められている。


 普段は街中に張り巡らされた交通網である運河の水路を小舟が走り抜け、各々(おのおの)の順位を争う競艇の歴史は浅いのだが、都市で暮らす人々の多大な歓心を集めていた。


 密やかに賭け事を行う胴元の商人や、稼ぎ時とばかりに無許可の屋台などもうける迷惑なやからも後を絶たず、取り締まる官吏かんりの苦悩がしのばれてしまう。


 それも含めて複雑な表情をした御仁ごじんが執務室の窓際に立ち、賑やかな眼下の遠景を眺めて、ぼそりと言い聞かせるように言葉をつむいだ。


「我々の判断は間違っていない、たとえ東端の行政区を失っても」

「伝染病の拡大を看過していれば、今の眺望ちょうぼうもなかったですからね」


 そばに控えた補佐官を務める若い娘、イリアは封じ込め政策を肯定しつつも、総督のナザリオから視線をらして、豪奢な机に投げ出された報告書を一瞥いちべつする。


 都市イルファにける隣国の浸食度合いを端的に示す “麻紙” に記された内容は、お世辞にもかんばしいものとは言えない。


「交易路を断たれて追い込まれ、旧都市国家ポリス時代の古い規約を引っ張り出して、独立に踏み切った窮状きゅうじょうも理解はできますけど……」


「たかが数か月で、こうも向こうの経済圏に取り込まれるとはな」


 すべての行政区画を統括する立場から、総督府がった都市封鎖という対応策に誤りはなくとも、それを逆手に取られた感はいなめない。


 くだんの都市が支援の一環として持ち掛けられた中継貿易により、現地に蓄えられていた金銀貨幣の大半がグラシア王国の某領地に流れ、代りに得体の知れないウェルゼリア紙幣なるものが幅を利かせていた。


 遥か東方の華国に由来する技術を活用した “額面付き手形” が流通しているのは、菫青きんせい海沿岸だとの国だけであり、必然的にイルファの者達は第三国との直接的な取引が難しくなってしまう。


「中々に斬新ではありますね、これ」

「うぐッ、確かに… うちでも導入するか?」


 ひらひらと報告書に添えられていた紙幣を振り、小首をかしげた補佐官の娘にナザリオが問い掛けるも、“それはひとまず置いておき” と話の方向性を修正される。


「合意事項にもとづいて王国領への編入を問う住民投票、どう対処しますか?」

「あからさまな妨害は得策と言えない、先走った連中の襲撃と同じくな」


「あれ、下手をすると共和国じゃない可能性もありますよ」

「…… 偽旗とか言い出せば、互いに批判するだけの泥沼になるぞ」


 仮に有効な手段であろうが、決定的な証拠もなく一方的にそしり、何も知らない民衆をプロパガンダで扇動するなど、まっとうな国家のやることではない。


 又、伝染病にあえぐ都市を救ったのが相手方である以上、生半可なことでは街に暮らす人々の同調を得られないはずだ。


 手段としてはありだが、今回の支援にはグラシア国教会や地母神派の他、教皇庁に属する王国内の普公派もからんでおり、迂闊うかつな行為で反感を買う訳にもいかない。


「ほぼんでますね、見事に」

「次の選定会議で総督の座を追われそうだな」


 肩の荷が降りて嬉しいなどと軽口を叩きながらも、共和国の指導者は引きった笑みを浮かべ、うなずくしかできないイリアは深い溜息を吐いた。

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