すべての歴史はYoutubeが教えてくれた
いま歴史Youtube界隈で起きていることは、昔から世界のあちこちにあることの焼き直しです。
例えば日本には文部科学省令である「大学設置基準」があり、これに基づいて認可を受けないと大学が名乗れません。水産大学校や防衛大学校は文部科学省所管じゃないから大学と名乗らないわけですね。認可後も「認証評価」という制度があり、大学基準協会などの認証評価団体から「不適合」の判定結果を突き付けられ、指摘された不足を数年かかって解消して評価を上げた例があります。
もちろん個々の教員や個々の施設に対する批判が絶えないように、そもそも国が決めた基準など大学が満たすべき条件の全部と言うわけではないし、人によって「ここは譲れない」「これは許せない」ことは違います。
国によっては、大学の設置は勝手にできます。そういう国では、一流大学が集まって認証評価団体をつくり、互いに大学としての値打ちを認め合っています。そしてちょっと怪しい大学は、怪しい認証評価団体を作っているわけです。もちろん学位もどんどん出します。クイズに答えたら博士号をくれたという話を取得者から聞いたこともあります。
日本で専門学校が大学を勝手に名乗ったら絶対に文部科学省が黙ってはいませんが、大学と見間違える心配のないものは放置されています。マクドナルドが社内に(日本にもアメリカにも)持っている社内教育機関「ハンバーガー大学」などはそのひとつです。「ラーメン大学」などの飲食店もそうですね。
中田敦彦氏がYoutube番組で大学を名乗ったことが、狭い意味での大学や学術研究に関係する人々を刺激した面はあると思いますが、それはまあ現状、よくあることです。
もう少し深刻な「よくあること」として、学問的な正確さが(どんな分野にもいくらかそれを外れた研究者はいるにせよ)確立した事柄について、不正確な情報発信が放置されている事例はたくさんあります。健康情報などはその典型であり、皆さんもそれについて苦い経験・不愉快な印象をお持ちでしょう。2017年12月、Googleが医療に関する情報の検索について、SEO対策ばっちりの素人サイトではなく専門的な機関や製薬企業のサイトが上位に来るようアルゴリズムを変更したことは、当時ニュースになりました。
Google検索、信頼性高い医療情報を上位に アルゴリズム変更(ITMediaビジネス Online)
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1712/06/news125.html
しかし「不正確な情報を発信する権利」自体を否定しようとすると、最後には言論の自由云々の問題になります。反政府組織のWikipedia項目が、暗殺事件やテロに関わる否定的な評価を入れる・入れないで編集合戦になることがあります。「明らかに誤っていれば口を封じてもよい」という立場を支持し、それに群がって大きな声を上げることが、後日まったく別の問題についての「先例」として、自分の大事なものを引き裂く武器に使われるかもしれません。
とすれば、「歴史関係の正しくて面白くてわかりやすいサイト」へ誘導することが必要になりますが、ここで「タダで情報を受け取ろうとは厚かましい」といった研究者などからの反発がみられます。
これも、全体として、よくあることです。『お還りなさいませ おたくさま お帰り下さいませ「お客様」』という掲示は2012年夏のコミケ会場に出ていたようですが、「お客様」意識をもって学問や技芸に接する人は常にいますし、お金(など)を払っているのであれば間違いだとも言えません。政府が自分たちの成果尺度を振り回して科学予算を配分する様子は、お客様意識そのものです。それを不愉快に思う人も、「自分たちの税金は何に使われてもいいんだ」とは言わないでしょう。
「授業料を払ってやったのに、俺の役に立つ、すぐ使える知識をくれなかったので大学教育はゴミカスだ」といった立場はしばしば表明されます。「あの大学の卒業生を雇ったら英語ができなかった。専門知識教える前に英語教えとけ。英語ができない奴を卒業させるな」という声も聞いたことがあります。学問であれ技芸であれスポンサーは必要ですし、自分がスポンサーだと思っている人はよくこういうことを言って、不出来を「金を払ってやった」相手のせいにします。自分の都合を押し付けます。皆さんだって、人を雇ったら同じようなことを、言わないとしても思うでしょう。この食材がまずいのは自分の料理の腕が到らないせいだと反省したりしないでしょう。新刊を落とした秋雲先生は許しても、新刊の納品をミスった印刷業者や宅急便業者がいたら、同じようには許さないでしょう。
スポンサーが積むお金が足りないと、その技芸なり学問なりは空白になります。個々の従事者は「そんな金でそんな達成ができるかよ(または、金積めよ)」と言います。「社会的意義」を基準として政府が研究を切って行けば、「社会的意義のない学問の断片」がぽっかりとあちこちに穴を作り、「根拠を確かめながら全体として語ること」が難しくなります。主語が大きくなればなるほど、バランスを保ちつつ「概ね」正しいことをいうのは困難になります。「完全に」正しいことを言うのは、単に不可能になります。スポンサーが足りなければ、そこに人手の不足と予算の不足が加わります。手分けをする余裕もなくなれば、学問はコンクリート抜きの鉄筋のようになってしまいます。
簡単に正確に書いた本は、まさに簡潔に書いてあるために、読みにくい本になります。くどくど説明すると、読者の体力と気力、そして恐れながら、一定の理解力を試すことになります。さらに学問の足腰が弱り、コンクリート抜きの鉄筋のように、選ばれた細い数本の文脈でだけ研究が進む状態になると、入門書は難しくなります。「押さえておくべき理解の要点」ばかり増えて、「ところで……」といった脇道が最初から刈り込まれてしまっているからです。
そうです。「わかったつもりにさせてくれる本」はこの問題を解決します。説明しにくいことは説明しなければいいのです。史実であっても面白くなければ書かなければいいのですし、分かりやすく誇張し、曲げればいいのです。無料配信動画だから起きる問題と言うわけでもないのです。「わかったつもりにさせてくれる記事」は雑誌記事などで量産され、パクリと再利用で世の中をぐるぐる巡っています。巡っているうちに権利を守りにくくなり、最後には(合法違法を問わなければ)タダになります。
だから「適切に書かれた廉価な教科書」は問題の解決……ではありません。勉強する意欲、勉強する習慣とスキルのない人は、そんなものをタダで配られても読みません。健康ガセ情報と歴史Youtubeの問題はここが違います。前者は、切実に情報を必要とする、情報のために相当な我慢をする用意のある人たちに、偏った(何か売りつけるものを持っている人たちに有利な)情報が届いてしまう問題です。後者は、手っ取り早く気持ち良くなりたい人たちが、何かを簡単に決めつけて気持ち良くなった後、誤った知識や理解が副作用として頭に残ってしまう問題です。柳生十兵衛が将軍家光を惨殺する映画を見てスカッとすること自体ではなく、そのあと「三代将軍家光は柳生十兵衛に斬られた」と誤解したまま人に言ったりすることで、はじめて自分や周囲に実害が出てくるわけです。
歴史に関心を寄せ、歴史と言うものにヒマとカネをつぎ込んだ人は、本当に教科書など望んでいるのでしょうか。「適切に書かれた廉価な教科書」ではなく「適切に書かれた廉価な教科書をむしゃむしゃと無心に読んでくれる、できたら若い読者」を切望しているのではないでしょうか。同類を望むにせよ、自ら信奉するディシプリンを受け入れる同志を望むにせよ。そしてたまたまバズった事件に、日ごろから心にある願いを重ね合わせて「勉強しろ」と言ってしまっているのではないでしょうか。無料の寄席に集まった人に、「勉強しろ」と。
バズった批判に乗っかって、愚かな他人や行きずりの他人を殴ることにはある種の喜びがありますが、それよりも自分には何が書けるか、何が書きたいかを問うべきです。自分がいくらかの鬼神を倒したとしても、世の中はそれほど変わりませんが、血の味を知った自分は変わってしまうかもしれません。自分が見つけられるスポンサーと、自分が(少なくとも、自分自身に)与えられるリソースの範囲を考えて、それで動かせる程度に世の中を動かすにとどめるべきです。教科書は解決ではないとしても、それをきっかけに自分の解決を見つける人はいくらかいるでしょう。わずかな読者しか見つからないとしたら、わずかな収入でできることを自分で考えればよいでしょう。どうせ他人に任せても、その程度の収入にしかならないのでしょうから。自分が動きたくない程度の収入しか見込めないとしたら、せめて、人を焚きつけたり人に投げたりするのは失礼だからやめませんか。




