57_二人きりの古城
気がつくと、アシュレイと手を繋いだまま、古城らしき場所の入口にいた。
王城とはまた違う、辺境領主の城、という印象の建物だ。
「エリス」
彼にぎゅっと抱きしめられる。
存在を確かめるように何度もエリスを抱く腕に力を込めた後、すぐに我に返ったようで、「ごめん」と力を緩めてエリスの顔を覗き込んだ。
目が合った彼は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「アシュレイ……?」
そっと問うと、彼はまっすぐにエリスを見つめる。
「良かったの? 僕と来て」
「アシュレイこそ……」
ためらいながら、エリスは彼を見つめ返した。
「ごめんなさい、私、あなたと離れるべきなのに、あなたと離れたくなくて」
「エリス……!」
感激、と言わんばかりに彼がもう一度エリスを抱きしめた。
「僕も同じ気持ちだよ。……大丈夫だから、離れないで。ずっと一緒にいよう」
エリスも彼を抱きしめ返し、しばらくして、どちらからともなく体を離してから――なんだか離れがたかったので、そっと彼の指先を握ってみた。彼はぱっと嬉しそうな顔をして、優しく手を握り直してくれる。
「それじゃあ、僕のお城の中を見て回ろうか。あ、何も聞かずにここに転移しちゃったけど別の場所が良かったかな?」
「ううん、アシュレイのお城、見てみたかったの」
彼はふわふわと喜びの感情を浮かべていた。
――エリスは先ほど「あなたを殺してしまう」と言ったのに、それについては訊いてこない。
嬉しそうに城の案内をしてくれた。
◇◇◇
「そういえば、エリスはペットを飼うなら何がいい? やっぱり猫?」
廊下を歩きながら、アシュレイが訊ねてくる。
城の中は古いながらも頑丈そうな石造りで、人の気配はしないものの、きちんと手入れされているようだった。アシュレイが魔法で保っているのだろうか。
「ペット?」
「ここで一緒に暮らすなら、色々飼えるよ。庭も広いし、何匹でも大丈夫だよ」
「なるほど……いいわね」
黒猫を思い出して、エリスは頬を緩めた。
「あ、先にエリスの部屋のことを決めた方がよかったかな。壁紙は何色がいい? 模様替えもしていこうね」
「……そうねぇ……」
壁紙なんて何でもいいけれど、将来の話をするのは良いことだ。彼の思考を過去に向けさせてはいけない。
彼は先ほどから嬉しそうにエリスを見つめている。エリスが隣を歩いているだけで、幸せな感情がふわふわと彼から溢れ続けている。
(そっか、こうやって話せばよかったんだ)
今さらながら思った。
アシュレイと、ずっとこうしていたかったのだ。森の小屋で、ただ穏やかに話していた時のように。
(二人きりだと、いつ私が操られるか、やっぱり怖いけれど……)
もしここで敵に命令されたら、エリスはアシュレイに呪歌を思い出させてしまうかもしれない。敵の元まで彼を歩かせてしまうかもしれない。そうなった時に二人きりだと、誰もエリスたちの異変に気づいてくれる人がいない。
ずっと穏やかに過ごしたいだけなのに叶わない。それがもやもやと心を苦しめる。
彼は「どうしたの?」とエリスの返答を待っている。
彼の心情は落ち着いている。先ほど街にいた時の、世界ごと雷で引き裂きそうだった禍々しい暗雲が嘘のようだ。
(アシュレイが幸せそうにしていれば……いくらなんでも死なせないわよね……?)
敵の思考は「孤独に苦しむのは可哀想だから殺そう」だ。……いや、しかしあの父親であれば「幸せなうちに殺そう」と今にも実行してくる可能性すらある。
「なにか心配? ……あ、二人きりだからって襲ったりしないから安心してね!? 寝室は別だよ!?」
「そういう心配はしてないわ……」
そもそも運命の乙女であるエリスが望まないことは、アシュレイは絶対にできないのだ。
(無理に何かを焦っている様子もないし)
まるで新婚気分で、ふわふわと喜びやら照れやら、良い感情ばかり浮かべている。
二人でいる分には、彼はとても落ち着いている。
「じっと見てるけど僕の顔に何かついてる?」
「いえ……なんとなく、前みたいな関係に戻れて、良かったな、って」
エリスが何も考えずにこぼしてしまった言葉に、アシュレイは目を丸くした。
言ったあとで、なんとなくエリスは気まずくなったが、しかしまさにこれが自分の本心だと思った。
複雑な気持ちで彼を見つめていれば、
「うん……僕も同じ気持ちだよ」
と、彼はちいさく微笑んだ。
「エリスも、兄さんといる時よりも、なんだかほっとしているね」
「……そうかしら」
「うん、良かった。なんだかずっと苦しそうだったから」
(気づかれていたのね……)
エリスが何かに悩んでいることは、彼も察していたようだ。
そして今ほっとしているのは、第一皇子がいない方が素直にアシュレイとの時間を過ごせて、敵のことを考えなくていいからだが――アシュレイの安全を疎かにしている証なので、罪悪感があった。
第一皇子こそ、アシュレイの安全を一番に考えて動いている。
そしてエリスが第一皇子と協力しているからアシュレイの嫉妬を煽ってしまった。
(私のせいで、アシュレイは兵士たちに怖がられてしまったわ)
魔神を倒せるほど強いアシュレイが第一皇子を敵視したら、兵が警戒するのは当然だ。本来ならエリスがそのことに事前に気が付き、アシュレイが兵から恐れられたり、そのことで彼が傷ついたりしなくていいようにするべきだったのに。
周りの目を気にしなければならない。敵をどうにかしなければいけない。アシュレイは何も悪くないのに、アシュレイの不幸に繋がることばかりだ。
「……世界で二人きりだったらいいのにね」
エリスがぽつりとこぼすと、アシュレイは目を丸くした。慌てて「ごめんなさい、なんでもないわ」と訂正しようとすれば――
「そうする?」
何故か、さらりと訊いてきた。
「いえ……ねえ、どうしてさらっと、できる前提で言うのよ。怖いわよ」
「あはは、本当にはしないよ」
笑っているが、できないとは言わないあたり、やはり彼は万能の力がある人だった。
「でも、僕も二人きりなら幸せだよ」
「……」
きっと、本心からの言葉だろう。
けれど、エリスさえ隣にいればいいのだろうか。
他の人はいらないのだろうか。
先程、魔法救皇として畏怖を向けられ、彼は傷ついていた。第一皇子と違って、助けに来る兵士たちがいないこと――人数の多さがそのまま人望を示すわけではないが、最強である彼の、心からの味方の有無。それも彼の孤独ではないだろか。
(私にできることは何だろう)
彼が得るべきもの。
孤独の絶望とは逆のもの。
城の案内を受けながら、その後もエリスは考えていた。
◇◇◇
夕食は、普段から自分で手作りしているという彼と並んで料理をした。
アシュレイは料理中も、一緒に皿を選ぶ時も、そして食卓の正面にいるエリスを何度も眺められる食事中も、「毎日こうだったらいいなぁ」と幸せそうだった。
そして眠る時間になり、エリス用の寝室の前まで送ってもらう。
「それじゃあ、おやすみ、エリス」
「うん、おやすみなさい」
「あ、城全体に防犯魔法はかけてあるけど、一応、鍵はかけてね」
「……」
エリスはふと気になった。
「この城、侵入者なんて入ってこられないわよね?」
「うん、僕の魔法で守ってるから絶対に大丈夫。僕より強い魔導士なんてこの世にいないから」
「……そうよね」
アシュレイによって魔法がかかっているので、この城も王城も侵入者は入ってこられない。
だからこそあの敵はアシュレイに今まで接触できずにいるし、エリスを操ることでエリスだけを城の外まで呼び出したりした。
基本的にはアシュレイは無敵である。
万能なアシュレイが唯一勝てない例外は、運命の乙女のエリスだけだ。
だから彼に命令ができるエリスを操ろうと敵は考える。
(私さえいなければ、アシュレイは安全なのに……)
いっそエリスを牢にでも入れてほしいと思った。
アシュレイに何も命じることのない状態でいればいい。いざとなれば死ぬことも考えてはいるが――
(あ、そうだ。声を失えばいいんだわ)
声さえ出なければ、アシュレイに命令をしてしまうこともない。
――喉を潰してしまえばいい。
(どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのかしら……!)
第一皇子ならとっくに思いついていただろうに、どうして提案してくれなかったんだろう、と本気で疑問に思った。
「ねぇ、アシュレイ。この城って毒薬はない? 皮膚が爛れそうなやつがいいわ」
弾むような声で訊ねてみれば、見事にぎょっとした顔をされた。
「誰を殺すつもりなのエリスさん!? あ、僕!? 僕を殺すんだね!?」
エリスの「あなたを殺してしまうかもしれない」発言をようやく思い出したようで、アシュレイが明らかに動揺している。
むしろもっと早く警戒してほしかったなと思いつつ、エリスは首を横に振った。
「アシュレイに飲ませたりしないわ。自分用よ」
「自分用……? え、護身用ってことだよね……? いざという時に敵に飲ませるって意味だよね……?」
自分で飲むなんて知ったら渡してもらえなさそうだったので、「まぁ、そんな感じかしら」と嘘を言っておいた。
「エリスのことは僕が守るから、心配しないで」
「でも一応あるなら把握しておきたいの。毒草の生えてる場所とかでもいいし、毒じゃなくて薬でもいいわ」
喉を潰す以外の薬も、いざという時にアシュレイの手を借りずに死ぬためには必要だろう。
(いえ、まどろっこしいから短剣とかを持っていた方がいいわね)
薬よりも早く確実に自決できそうだ。あとでこっそり短剣を探そう、とエリスは思った。
「エリス……? エリスさん……? 何か物騒なことを考えていませんか……?」
控えめな声でアシュレイが心配そうに訊いてくる。
「大丈夫よ、悪いことには使わないわ。それで、このお城は薬をどこにしまっているの?」
「うーん」
アシュレイが困ったような顔をする。
「ごめんね、僕が子どもの時は使用人たちがいたから薬箱とかもあったんだけど、もう古すぎるやつが少し残っているかどうかで……エリスを招くなら、ちゃんと薬を用意しておくべきだったね。ごめんね、人間と暮らすんだから当然だよね。……気が利かなくてごめん」
人間、と言われると、アシュレイ自身はまるで人間ではないかのような言い方に聞こえてしまって妙な気分になる。
「いえ、別に怪我をして今すぐ必要とかでもないから、謝らないで」
「あ、血止め薬ならすぐ作れるよ。趣味で簡単な薬草なら育ててるんだ。寝付きやすいハーブティーとかもあるよ」
「ああ、そういえば、おじいちゃんたちにスープを作ってくれたわね」
エリスが言うと、「懐かしいね」と彼が目を輝かせた。お互いに微笑み合い、なんだか胸が温かくなった。
(――こういう時間だけを過ごせたらいいのに)
それができたらどんなに幸せだろうか。
「アシュレイ、そのハーブティー、飲んでみたいわ」
エリスが言うと、「眠れなさそう?」と彼が案じるような顔をする。
「いえ、ただ味が気になるだけなの。……でも、そうね、今日は興奮して眠りづらいかもしれないわ」
「あ、いつもと違う場所で寝るのは緊張するよね。僕もそうだからわかるよ」
二人で調理場に戻り、彼がハーブティーを淹れてくれた。エリスは調理場の隅にあった椅子に腰掛け、それをゆっくりと口に含む。
「うん、おいしいわ」
「お口にあって良かった」
彼は嬉しそうに、エリスがそれを飲むのを見守っている。
温かくて、ほのかに柑橘系の香りと、甘みも感じる。
おかげで眠くなってきた。
(私、こういうのに弱いのかしら?)
あまりにも気が緩み、眠気が全身を重くする。
予想以上の効果だった。寝室に戻るまで意識を保っていられるだろうか、と思っていると、
「寝ても大丈夫だよ。僕が運ぶから」
と、アシュレイがうとうととしているエリスの手からそっとティーカップをどかし、導くようにエリスの肩を抱いて、自分に身体を預けさせた。
もうまぶたが重かったので、素直に従い、エリスは彼にもたれて眠った。




