56_キスの要求②
彼の感情に呼応するように、真っ黒な空は禍々しく、恐ろしい様相へと変わっていく。
ずっと冷たい風が吹いており、エリスは緊張も相まって、震えてしまいそうだった。
「……」
ふと、アシュレイの視線がエリスたちの後方の地面に向けられた。
振り返れば、大勢の兵士たちが来ていた。第一皇子が急に転移魔法でいなくなったので、追ってきたのだろう。
アシュレイは暗い顔で彼らを見つめていた。
「……魔神の時は来るなって僕がずっと前から命じておいても、兄さんのためなら来ちゃうんだよね」
ぽつりとこぼしたその声色には寂寥を感じさせた。
兵士たちは、魔法救皇の視線を受けて、畏怖の感情を抱いているのがエリスには見えた。
アシュレイは今や魔神を従え、雷はどんどんと勢いを増し、まさに神の怒りを買ったかのような激しさだ。
一般人からすれば、世界が終わるような気にさえなるだろう。
ふっとアシュレイは視線をエリスに戻した。
「心は決まった? ねえ、どうして黙っているの? ……僕のことがもう嫌いなら――僕を拒んでよ、エリス」
恐ろしい空とは対照的に、彼の声はとても穏やかだった。動揺して何も言えないエリスに、彼は続けて問いかける。
「できないんでしょう?」
エリスが迷っていると、その事実を噛みしめるように、彼は幸せそうにちいさく微笑んでみせた。
「うれしいな。やっぱり僕のことも少しは好きなのかな、それともエリスが優しいからかな」
アシュレイは首をすくめてみせた。
「じゃあもう一回訊くね。……僕より兄さんのことが好き?」
どうすればいいのか、エリスにはわからない。
彼は答えを欲しがっている。けれど、エリスには正解がわからない。
見抜いたように、彼が言った。
「もしかしてエリス自身も、自分の気持ちがわからないのかな。……僕はね、うまく思い出せないけれど、きっと僕たちの間には淡い恋心がそれなりにあったんだと思う。でも、もう僕のこと、いらなくなったのかな。うまく実らなかったね。それでもいいよ。エリスが幸せになれるのなら」
「アシュレイ……?」
彼は悲しそうに微笑んだ。
「兄さんと幸せになりたいならちゃんと送り出すよ。でも、最後にもう一度だけ確かめさせて。僕のこと、好きじゃないって言うなら、僕に抱きしめさせて。そうしたら、本当のことがわかるから」
エリスはただ、後ずさることしかできない。
本気で心の底から彼を嫌いだと思っていなければ、『運命の乙女』の力で拒むことなどできない。
拒まなければ彼が死んでしまうと必死に思えば、拒めるだろうか。
(いえ、無理だわ)
抱きしめさせるべきだろうか。
そうして呪歌まで思い出してしまったらどうすればいいのだろう。
思考を過去に向けさせないためには、未来へ彼の思考を誘わなければならない。
「……アシュレイ」
エリスは悩んだ末に、彼に手を伸ばした。
「来て」
まっすぐに見つめると、どきりと彼に緊張の感情が湧くのが見えた。不安も見える。彼も結果を知るのが怖いのだ。
だが、彼は素直に、ふわりとエリスの前に降り立った。
彼の頬に手を伸ばし、今にもキスができそうな間近な距離で、エリスは彼を見つめている。今、アシュレイも、エリスだけをその瞳に映していた。
――きっと、今の彼の思考の中は、エリスの次の行動への期待でいっぱいだろう。
過去との整合について悩ませるのではなく、『現在』のエリスに夢中にさせればいいのなら――
「アシュレイ」
「なあに?」
「アシュレイのお城、見てみたいわ」
「!」
ぱっと目が輝いた。キス寸前なのにそんなことを言って、話の逸らし方としてはあきらかに不自然だっただろうが、彼は嬉しさの方が勝ったようだった。
「今から見に行く? 気に入ってくれたら嬉しいな。趣味に合ったら一緒に住んでくれる? いくらでも改築するよ。あ、ペットは魔神だけが嫌なら、猫も飼おうね」
「いえ、それは色々と飛躍しすぎているけれど」
まるで新婚夫婦が新居を決めに行くような会話だった。
しかしこれでアシュレイの気は完全に上書きされたらしい。
――だが。
「待て」
焦ったように第一皇子がエリスたちを止めようとした。
「? どうしたんですか?」
エリスは訊ねようとしたが、視界を遮るようにアシュレイがエリスを囲ってしまう。
「行こう、エリス」
アシュレイからは喜びの感情だけが溢れていた。
「兄さんは兵士たちと帰って。……魔神はしばらく動かないから安心して」
「待て。古城は駄目だ」
なぜ第一皇子が緊迫した顔で止めようとするのか、エリスにはわからず首を傾げる。
アシュレイは暗い顔になった。
「僕がエリスを監禁すると思ってるの?」
「え?」
驚いてエリスは二人の顔を見比べた。
アシュレイはエリスに説明をしてくれる。
「……僕の古城はかなり深い断崖絶壁の上にあってね、橋は魔導式の装置を毎回操作しないと架からないんだ。使用人たちがいた時は、僕だけじゃなくて魔導士の素質がある執事が魔法で城側から操作できたんだけど、今はいないし、エリスにはそれほどの魔力はないから操作できない。防犯上、外から来る崖の向こう側からは橋は操作できない」
「……私は徒歩で帰れないし、兵士も迎えに来れないってこと?」
「うん」
つまり、アシュレイの手助けがなければ、エリス単独では絶対に「帰りたい時に帰れない」、隔離された城ということだろうか。
(いくらなんでも、アシュレイが私を閉じ込めるとは思えないけれど)
そもそも断崖に架けられた橋の有無以前に、アシュレイがエリスを閉じ込めたければ魔法でどうにでもできるし、いざとなればエリスが運命の乙女としての強制力でアシュレイに命じて橋を架けさせることだってできる。
(何も問題なんて起こらないけれど……)
しかし、アシュレイと二人きりになった時に、もし敵にエリスが操られてしまった場合、間に割って入る人間がいないとアシュレイが危なくなる。第一皇子の目が届かないところに行ってはいけないということだろうか。
第一皇子の方を見ると、「駄目だ」と念を押された。
深刻そうな顔をしているので、アシュレイから離れて第一皇子の元に寄っていくと、アシュレイには聞こえないように小声で囁かれる。
「兵が自力で辿り着けないこともそうだが、アシュレイに両親のことを思い出させないためには、古城に帰らせない方がいい。母親の遺品が多すぎる」
「!」
言われてみれば、確かにそうだ。古城はアシュレイと母親の思い出がある場所なのだから。そこにエリスが行くと、結局エリスや両親など、過去に思考が及んでしまう。
(迂闊だったわ……)
魔神を古城で飼うなどと言っていたので、そっちに話を逸らすつもりだったが、彼の心の深いところを刺激してしまうところだった。
エリスは正面に立つアシュレイを見つめて謝る。
「ごめんなさい、やっぱり行けないわ」
「……」
アシュレイはただエリスを見つめていた。
「――やっぱり兄さんを選ぶんだね」
真っ黒な空は、いよいよ世界が引き裂かれそうなほどの雷の閃光に満ちていた。
兵士たちは慄き、第一皇子を案じて「どうかお下がりを!」とアシュレイから守ろうと一斉に近寄ってくる。アシュレイが冷たく彼らを一瞥すると、膨大な恐怖の感情が辺りを埋め尽くすのがエリスには見えた。
(駄目……!)
一触即発の雰囲気。これではまるで、アシュレイが悪者だ。
アシュレイからは孤独の苦しみが見えている。誰も敵対を望んでなんかいないのに、アシュレイがあまりにも強いから、兵士たちは警戒してしまう。
――ふいに思った。これこそが、彼の絶望なんじゃないか、と。
生まれ持って抱えてきた、他人との違いそのものの孤独ではない。
彼は今まさに、この場で一人ぼっちだ。
この光景を、このままにしてはいけないと思った。
これこそが、彼の父親が見た、アシュレイの孤独なんじゃないだろうか。
(私、ずっと、アシュレイを苦しめている)
彼が仮面を取ったのも、こうして孤独に苦しんでいるのも、すべてエリスのせいだ。
エリスが現れたから、彼らの十年の安定を壊してしまった。
第一皇子と協力して、彼を死なせないためにと。あとで説明するから今は仕方がないと。アシュレイを遠ざけて、除け者にし続けている。
命は何よりも大切で、一度失えばもう元には戻らない。
けれど、もうこれ以上、アシュレイを苦しませたくないと思った。
今の彼の苦しみの先に、彼の父親が見た未来があるんじゃないだろうか。
「――私、本当はあなたのそばにいたいの」
もう、考えるより先に、言葉が出ていた。
彼の澄んだ紫色の瞳が見開かれる。
また雷が落ちて、一瞬だけ明るく輝いたのが綺麗だった。
「だけど、あなたのそばにいたら、私はあなたを殺してしまうかもしれない。二人きりになったら、すぐにでも殺してしまうかもしれない。それでも――」
今、この瞬間にも、「よくもバラしたな」と敵がエリスを操ろうとするかもしれない。だが今ならば第一皇子か、あるいは「殺す」という言葉に警戒したアシュレイが、エリスをどうにかしてくれるだろう。
今はただ、もうこれ以上アシュレイを孤独にしたくなかった。
「ごめんなさい、私はあなたを危険に晒してしまうの……それでも、あなたのそばを離れたくないの」
アシュレイが呆然としながら、エリスに手を伸ばした。
そして、言った。
「――死んでもいい。エリスがそばにいてくれるなら」
彼の瞳は揺らいでいた。信じたい、という気持ちと、何が起こっているかわからない、という動揺だろう。だが、まっすぐにエリスを見つめていてくれる。
エリスも、その手を掴もうと一心に手を伸ばした。
「駄目だ、やめろ――!」
第一皇子がエリスの腕を掴もうとする。
だがそれよりも早く、エリスたちの手が触れ合い――
一瞬で転移した。




