55_キスの要求①
一方エリスは、城の廊下に残され、考えていた。
とっさのことで彼を見送ってしまったが――
「私も現場に行きたいです」
そう兵士に言えば、「危険ですから、近づくことはできません」と断られる。
(でも、アシュレイを見ていたいし……)
あの状態で行ってしまったアシュレイが気がかりだ。
魔法で戦えるわけでもないエリスが行ったところで戦力にはならないし、『運命の乙女』としてやるべきことも無い。
(だけど……)
兵士に止められながらも、城の出口に向かって歩いていると、第一皇子が合流した。
「アシュレイが応答しない」
「え?」
第一皇子に言われて、エリスは目を瞬かせる。
彼は自分の耳飾りを指差した。皇子たちが緊急時に連絡を取るのに使っている魔道具だ。
「それは……アシュレイに何かあったってことですか?」
「いや、そうではないと思うが……嫌われたようだ」
「……」
エリスが第一皇子の方が好きだと思っているので、そういう態度になったのだろう。
「申し訳ありません、私のせいで……」
「いや、俺のせいだが――少し、喋りかけてもらえるか?」
そう言って、第一皇子は連絡用の耳飾りを外して、エリスに手渡してきた。
エリスはそっとそれに話しかける。
「アシュレイ、聞こえる? 私よ、エリスよ」
一拍の後に、「また兄さんと一緒にいる……」という嘆きが聞こえた。
(ああ、私の耳飾りから話しかければよかったわね……)
緊急時に助けを求めてほしいと言われて渡されたものの、いまだ使っていないエリス用がある。やきもちを悪化させるのであれば、そちらを使うべきだっただろう。
「あの、アシュレイ、大丈夫? 返事をしなかったみたいだけど」
「……」
「魔神の戦いが大変なの?」
「いや、今は戦ってもいないよ」
「……え?」
どういうことだろう、とエリスが顔を上げると、目の前の第一皇子が頷いて説明してくれる。
「どうやら、先ほど強い魔力量を観測したものの――アシュレイが一撃を放ったのだとは思うが――そのあとは妙な歪みがあり、以降は変わらず魔神がまだ封印されていない数値を観測し続けている」
「……ええと、封印せずに、アシュレイが止まってるってことですか?」
小声で皇子に聞き返すと、神妙な顔で頷かれた。
「アシュレイ、そっちに行ってもいい? ……魔法で移動させてくれる? 第一皇子様も一緒に」
「……」
しばらくの沈黙の後に、「わかった」と返答があった。
そしてエリスと第一皇子の周囲に風が吹いて、気が付いた時には、見知らぬ真っ暗な街にいた。
「…………」
エリスと第一皇子は、三階建ての家屋の屋根にいるようだった。
アシュレイはその少し先の空に浮いてこちらを見ており――隣にはおどろおどろしい巨大な何かがあった。地面から生えるように首を伸ばし、アシュレイに寄り添っている。
「それは……?」
巨大な一棟の建物よりもさらに大きく、真っ黒な水が渦巻きながら、首の長い生き物らしき姿を維持している。それは、あきらかに異様な存在だった。
「アシュレイ……? それは何?」
「魔神だよ」
再度の問いかけに、アシュレイはすんなりと答えた。
「飼おうと思って」
「……」
エリスと第一皇子は閉口する。
(飼うって……? 飼えるの……?)
空は真っ黒な暗雲に覆われたままで、遥か向こうには魔神らしき『巨大な山』も見える。第一皇子が「動いていないのか」と呟いたことで、あちらの山のような存在は、本来動いているはずなのだとわかった。
「うん、魂の根幹は今はこっちの小さいほうに入っているから、あっちは動かないよ……でもやっぱり最小限に切り離しても大きいね。三十人は住める建物と同じくらいだもの……これ以上無理に小さくするのは危ないから、こいつを僕の城に連れていくんじゃなくて、僕がしばらくここに住んで様子見した方がいいかな……いっそあの『山』の麓に僕の新しい城を建てる方がいいかな?」
「…………」
平然とアシュレイが何やら計画を話すので、理解ができずに戸惑った。
第一皇子もアシュレイに疑問を問いかける。
「なぜ飼おうとするんだ? 従来通り、封印するのでは駄目なのか」
その言葉には、アシュレイは悲しそうな顔をした。
「だって、傲慢だよ。暴れられたら困るくせに、雨や水脈の恩恵があるからって勝手に埋めて、利用し続けて――そうやって世界が終わるまで、この魔神は何度も起きたり眠らされたりを繰り返すんだよ。あまりにも可哀想だよ。……そんなことのために生まれたんじゃないのに」
「……アシュレイ……」
彼は魔神にも優しさを向けているようだった。
だが、第一皇子は言う。
「それでお前が飼ったとして、お前の寿命が尽きたあとはどうするつもりだ?」
「……次代の魔法救皇に任せるしかないね。それか、この先何百年も安全に飼えるようにって魔法で措置を施しておいて――ああ、でも封印と形が変わるだけで、結局魔神は自由にはならないね。だって自由にさせたら世界を壊滅させられるもの」
彼は苦笑して、「じゃあ僕が死ぬまででいいよ」と首をすくめた。
「アシュレイ……」
彼は寂しいのではないかと思った。だから、あえてそばに置くものが欲しくなったのではないだろうか。
「どうしたの、エリス、そんな顔で僕を見つめて」
「……どんな顔をしているかしら」
「迷子を見ているような顔」
そう言って、アシュレイはエリスに甘えるような視線を向ける。
「ねえ、寂しいって言ったら抱きしめてくれる?」
「……いいわよ」
「そんな安請け合いをしていいの?」
彼は苦笑した。
「でもね、多分違うんだ。……恋人として、抱き合ったことはなかったっけ? 僕はあれがほしいな。……夢の中にあるんだ。頭の中にはあるんだよ。エリスの方から僕に触れてくれた。僕を抱きしめてくれたはずなのに……あれは夢? どうしても目に焼き付いたように離れないんだ。でも多分現実じゃない。僕の妄想? 僕はもう壊れてしまったのかな。ずっと苦しくて仕方がないんだ」
(それは――)
もしかして封じてしまった記憶のことを言っているのだろうか。
宝物庫の直前の抱擁のことだろう。
第一皇子との形式だけの結婚にエリスが承諾して、アシュレイが動揺した。エリスはうまく恋心を言えずに、それでもアシュレイが好きなのだと伝えたくて彼を抱きしめた。アシュレイも嬉しそうに受け止めてくれた。――あれがアシュレイの中でわずかに残って、彼を苦しめているのだろう。
(どうしよう……)
思い出させてしまえば、そこから全部の記憶がよみがえりかねない。
エリスが黙ってしまうと、アシュレイは悲しそうな顔をする。
「ねえ、僕から抱きしめてもいい? ……僕はエリスが嫌がることはできないんだ。拒めるはずだよ。話したでしょう? 運命の乙女が望まないことは絶対にできないから安心して、って」
そう言って、アシュレイは両腕を広げてみせた。
「エリス、一回でいいから」
(――だめよ)
エリスは応じてはならない。抱きしめた感触から、実際に抱擁をしたことがあると思い出してしまうかもしれない。
思い出したらまたそこから宝物庫直前まで記憶を封じることになり、この会話もまた消える。
アシュレイの混乱は今以上になるだろう。魔神についての記憶の整合性も取れなくなる。魔神に対処できるのはアシュレイだけなのに、魔神の侵攻が止まっているのでは、説明に綻びが生じる。
ただでさえ苦しんでいるのに、これ以上無茶な記憶操作をすれば、アシュレイの心が壊れてしまうだろう。
だから、現状を維持しなければならない。
必死に思案するエリスに、アシュレイが悲しそうに訊く。
「どうして何も言ってくれないの? 抱きしめられるのは嫌?」
「……違うわ」
「僕のこと、もう嫌いだっていうなら、証明してみせて」
「嫌いだなんて――」
エリスの否定を最後まで聞かず、いやむしろ聞きたくなさそうに、アシュレイは自嘲の笑みを浮かべた。
「拒んでみせて、運命の乙女の力で。ちゃんと弾かれたら、もう諦める。エリスの言うことを信じてもいいよ。でも、いいよって言っているのに弾かれたら――あるいは、嫌だって言っているのに抱きしめることができたら、エリスは嘘をついているってことになるね」
「……」
エリスは思わず後ずさる。
バレてはいけない。
抱擁は記憶を思い出させかねないし、かといって、本気で拒めるわけがない。心の底から拒絶していないと、おそらく彼を弾くような『運命の乙女』としての力は発揮されないだろう。
「べつに、何も嘘なんかついていないし、抱擁くらい、本気で拒絶したりしないわよ。誰とだってできるもの」
「ねえ、何を隠しているの?」
動揺しているエリスに、彼は静かな目を向ける。
「ずっと僕に何か隠し事をしているよね? ……エリスの本当の望みって何だったの? 国宝が欲しいって言ってたよね、皇子様から贈り物が欲しいんだったよね? あれはもう解決したの? 生計を立てられるようなものならそれでいいんだっけ? 兄さんとの結婚は――どうなったんだっけ? でも、それがきっと一番のエリスの幸せなんだろうね。……だってあんなに幸せそうな顔をしてた」
はっとした顔で、第一皇子が「アシュレイ」と止めた。
記憶の封印がいよいよ解けかかっている。これ以上はまずい。
「――もう嘘でも何でもいいわ」
エリスはアシュレイの思考を妨害するように声を張り上げた。
「そうね、私は隠し事をいっぱいしているわ。アシュレイにとっては納得できないかもしれない、第一皇子様を大切にしているように見えているかもしれない。……でも、アシュレイのことも大切なのよ。今、すごく心配しているの。それは本当よ」
「……」
彼はエリスをじっと見ていた。それから困ったような顔をする。
「お願いがあるんだ、エリス」
「なあに?」
また抱きしめてと言われるのだろうか。そう思っていると――意外なことを言われた。
「僕にキスをして」
「!?」
急に拡大された要求に、思わずエリスは目を丸くした。隣の第一皇子も動揺しているのが視界の端に見えた。
「キスしてみせて。そうしたら――あれ? こういうやりとり、前にもあった気がするな……キスしてって僕は何かと引き換えに……交換条件で……ああ、口移しだっけ?」
(……まずい)
忘却魔法を受けさせるためにアシュレイに薬を盛ろうとしたとき、彼に警戒されて、口移しならいい、と言われたのだ。呪歌にかなり近い記憶まで戻り始めている。
「そ、そんな記憶ないわよ!」
エリスはとっさに否定した。
彼は不思議そうに、記憶を辿ろうと首を傾げている。
「たしか、中庭でキスをして――エリスが『この時間を失いたくないな』って言ってたんだ。それで僕も同じ気持ちを抱いた気がする……」
(しまった)
エリスが無意識にでも「アシュレイからこの記憶がなくなるなんて」と惜しんだせいで、わずかに彼の忘却魔法を邪魔したとでもいうのだろか。
「ねえ、僕たち、キスしたことがある……? それとも、これは僕の夢……?」
「絶対に夢よ!」
エリスの断言に、アシュレイは物言いたげに眉を顰め――そしてまた深く思案する顔になる。
必死でそれを邪魔しようと、エリスは声を掛け続けた。
「無いったら、絶対にそんな事実、無いんだから! 夢に決まってるでしょう!?」
「……そうかなぁ」
焦っているエリスをじっと見て、やがて彼が言う。
「……キスして」
「……」
「一回でいいから――そうしたら何かわかる気がする。それが嫌なら、僕のこと、しっかり拒んでみせて。証明してみせて」
本気で願っているらしい。まっすぐにエリスを見つめてくる。
「証明したあとなら、僕のこと、殺していいから」
「こ、殺すって……」
「嫌な相手とのキスを要求するんだから、それくらい当然だよ。でも、もしキスできたら――僕と恋人のようなことをするのも嫌じゃないってことだよね? 僕はその隙間につけ込むよ。二番目でもいい。兄さんの次でいいから、僕のことを、好きになって」
「!?」
また予想外のことを言われてエリスは戸惑う。アシュレイの言葉をうまく呑み込めなかった。
とうとう二番目でもいいと言い出した――いや、これは前にも言っていたかもしれない。その時は「どうしたら第一皇子のことなんか何とも思ってなくて、あなただけが好きなのだと伝わるのだろう」と思っていたが――今は逆だ。
「……キスくらい、誰とだってできるわよ。何の証明にもならないわ」
だが、アシュレイは信じていないようだった。
「……やっぱり僕たち、キスしたことがあるよね? なんだか記憶が……」
「無い、絶対に無いわ! あなたとキスしたことなんて無いわよ! ただの夢かなにかで見たんでしょう」
「そうかな……夢かな……でも結婚式で誓いのキスだって……あれ? 結婚式は夢だっけ? 二回くらい白いドレスと水色のドレスで……教会と古城で……二回も僕と愛を誓ってくれたのは……あれも夢なんだっけ?」
(え!? それは確実に夢でしょう!?)
絶対に現実ではない何かまで混ざり始めている。彼が普段どんな夢を見ているのかわかってしまって、エリスは気恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が赤くなりそうだった。
「夢! それは絶対に夢!」
「うん、そうだよね。結婚式はおかしいよね。僕と結婚してたら、こんなことで悩まなくていいはずだもの……ああ、夢か……全部妄想か……僕は一体どうしちゃったんだろう。頭の中が曖昧で、もうよくわからないよ……」
その声には疲弊があった。
「アシュレイ……」
彼は悪くない。記憶が封じられているせいで齟齬が出ているのだ。
その苦しそうな顔に心を痛めていると、
「そんな顔をしないで」
と、彼は優しい顔をする。
「エリスにつらい顔をさせたいわけじゃなかったのに……ごめんね。キスだって、大事な初めてなのに、僕が軽率に欲しがったらだめだよね」
「……」
別に初めてではないな、と思ってしまった。その心境が伝わったのか、彼は急に真顔になって問い詰めてくる。
「え? エリス、どうしてそんな顔をするの……? もうキスをしたことがあるってこと? 誰と? ねえ、誰としたの? やっぱり兄さんと……?」
ばちばちと黒い雷雲が急激に彼の周りを取り巻き始め、遥か高い空まで大きく渦を巻き始めた。
今にも雷が世界を裂きそうである。
まさしく、火に油を注ぐような真似をしてしまった。
(アシュレイのことなのに!? どうしてこうなるのよ!!)
エリスにはもうお手上げだった。




