50_やり直す
頭の中で、声が響く。
“――さあ、落とせ。あの子に『落ちろ』と命じろ。”
(ふざけるんじゃないわよ……)
地上に立つ男を睨んでいると、物陰へと歩いていって見えなくなった。エリスの視線を辿ってアシュレイにバレたくないからだろう。案の定、すぐにアシュレイが「エリスさん、顔色が悪いけどどうしたの!?」と訊いてきた。彼はあの男の姿を見なかったようだ。
姿は隠れても、男の声は続く。
“呪歌をお前も一度聞いているだろう。封じられたか? 思い出せ、そしてその子に歌うのだ。”
「……っ」
強制される衝動に抗おうとすれば、頭が割れるように痛かった。両手で頭を押さえると、アシュレイが途端に慌て出す。
「どうしたの!? 頭が痛いの!?」
「いえ……」
はっきりと否定しようにも、口を開こうとすれば、なにか彼に命じてしまうのではないかと思うと怖くなる。歯を食いしばって黙り込むしかできない。
(アシュレイから遠ざからなきゃ……)
こんな時にアシュレイと二人で空に浮かんでいる場合ではない。どこかに降ろしてもらおうかと地上に視線を向けていると、彼もちょうど地上で誰かを捜しているようだった。
「具合悪いならどこかで休んだほうが良いよ。一緒に来てた人を呼ぼう……あれ? どこに行ったのかな……」
「……一緒に来てた人って……」
「エリスさんの護衛じゃないの? 魔力の高い男の人。国家魔導士かなって」
「……」
城からエリスと一緒に来たので、国家魔導士だと思っていたようだ。
それがまさかアシュレイの父親で、彼の命を狙っている人だとは思いもしないだろう。
(事情を話して、アシュレイがあの人を倒せば――)
一瞬で倒してしまえばいい。呪歌の効果が発動する前に、アシュレイが相手を封じればいい。先ほどもここへ来る前に考えた案だ。相手が何を言おうが、アシュレイが動揺しないよう、エリスが「倒して」と命じればいい――彼に許可を取らずに命じる罪悪感はあるが、それで解決するのなら、いっそ――
「あのね、アシュレイ」
意を決してアシュレイに話しかけたとき、見透かしたように、頭の中に声が響いた。
“――もし、その子に何かを命じれば、すぐさまその子を呪い殺す。それが叶わなくとも、ここにいる民衆に一瞬で甚大な被害を与えることなど、造作もないぞ”
「……っ」
まだ王都に魔物を溢れさせることができるということだろう。アシュレイがいても、とっさに犠牲者を一人も出さないことは無理だろう。
(殺させはしないわよ……!)
心の中で語り掛ければ、相手側にもこの思考は届くのだろうか。相手がエリスの魂の欠片を持つから、伝わったのだろうか、エリスの宣言に応えるように、頭の中でまた声がする。
“その子は今すぐ殺してやるべきだ。哀れに迷い、顔を晒し、この子はまともな道を歩めない。”
(信じてあげなさいよ、父親なら!)
男の意見は変わらないようで、淡々とした声を返される。
“失敗しない人間などいない。努力が実らないことも多い。”
(……本当に後ろ向きの思考なのね。厭世家っていうやつ?)
舌打ちしてやりたかった。
だが目の前ではアシュレイがエリスを案じておろおろと不安な感情を生み出し続けているので、これ以上心配させておくわけにもいかない。
だから平静を装い、静かに頭の中で男に語り掛ける。
(もう少し黙って見ていなさいよ。予知がどうだか知らないけれど、まだアシュレイは絶望してないわよ。皇子様になるとか言って新しい道を開拓しようとしてるんだから、まだ試行錯誤する気満々でしょう。そんなこともわからないの?)
男の返答がわずかに遅れた。
“……本当に心底絶望してから殺せと? それを防ぐために早めに殺すべきだというのに。死を願うほどの絶望を味わってからでは可哀想だろう。ひどい娘だ。”
(どっちがひどいのよ!)
“だが、そうだな。今殺してしまっては従兄との確執もそのままだ……あの子は負けたまま終わってしまう。私にもあの皇族には恨みがある。なるべくあいつらを困らせてほしい。”
(思いっきり私怨なのね)
“お綺麗な皇族たちを台無しにしたその後でもいいか……だがあの子の苦しみが長引くようなら……あの子が耐え難くなりそうであれば、やはり殺してやるのが親の務めだ。ああ、私が死ぬ前に必ずあの子を殺してやらねば……予知で見た絶望の姿は若かった。そう遠くない日に、絶望しきる前に、明日だろうと必ず殺す。その時はお前の協力が必要となる。……見ているからな。”
すっと声が聞こえなくなり、頭の中の重苦しさが消えた。去ったのだろうか。
「エリス? エリスさん? どうしたの?」
「……なんでもないわ」
今日のところは引き下がってくれたようだ。しかし、このままエリスが彼のそばにいるのが危険なことには変わりない。油断した時にもし命じられて逆らえなければ、アシュレイが呪歌を思い出すきっかけを作ってしまうかもしれないのだ。
「アシュレイ、あの……そろそろ地上に降りましょう?」
エリスの提案に、そうだね、とアシュレイが頷きかけた時――
「エリス、こちらに来い」
第一皇子がまっすぐにこちらを見上げて、手を差し出した。
「え」
名前を呼び捨てではっきりと呼ばれたので驚いた。民の前だから、何かのパフォーマンスだろうか。何か意図があるのだろう。
「……はい、参ります」
エリスがすぐに返事をすると、「行かないで」とアシュレイに腕を取られた。
「アシュレイも一緒に行きましょう?」
「嫌だ」
「……」
(それはちょっと困ったわ……)
エリスとアシュレイが止まっていると、第一皇子は自分から来ることにしたらしい。
魔法でぶわりと舞い上がり、エリスたちと同じ高さまで来ると、「こちらに来い」と呼び掛けて、それからすぐ近くの屋根に、とん、と降り立った。
(すごい……!)
現代の弱い魔導士が何にも頼らずに、空に浮かぶなんて、普通はできないことなのだ。
彼は本当に魔法の才能があるのだろう。
民も歓声を上げている。これで、ますます『どちらが魔法救皇でもおかしくない』と思ったことだろう。
(……実際は、相当無理をしたみたいだけど……)
第一皇子から疲弊の感情を見ることができるエリスには、民の前だから隠してはいるが、かなりの魔力を消耗したことが感じられた。アシュレイのように浮かび続けることなどもできないので、すぐに屋根に降り立ったのだろう。やはり現代の人間では魔法救皇には遠く及ばない。
民の視線を一身に浴びながらまっすぐに立ち、こちらを見据える第一皇子を、アシュレイはちいさな声で評価した。
「民の前で堂々としていて、本当はつらいのに、健気で努力家で……うらやましいな……結局兄さんが正義の人で……僕はやっぱり悪者みたい」
(また落ち込んでいる……!)
慌ててエリスはアシュレイに言った。
「でも、今日の魔物を実際に倒してくれたのは、あなたよ」
はっきりと言えば、アシュレイは、「え?」と思いもしなかったように目を見開く。
「どうして驚くのよ。魔法救皇がどっちだとか空が飛べるとかは置いておいて、今日ここへ駆けつけて魔物を倒し続けて民衆を守ったのはあなたでしょう。あなたが悪者だった時なんて無いわ」
エリスの言葉に、彼は戸惑っているようだった。……人を救うのが当たり前すぎて、わざわざ言われることに慣れていないらしい。
だからエリスは、彼の目を見ながら、しっかり伝わるようにと願って言った。
「ありがとう、アシュレイ。あなたが今日も人を助けたのよ」
「……うん」
「あなたのすることを、私はしっかりと見ているわ。第一皇子様が何をしようと、あなたへの見方が変わることは無いわ。事情を知らない民とは違うもの。……私、何か間違っているかしら?」
「……ううん」
彼は素直に首を横に振る。
アシュレイが落ち着くと「エリス嬢、話がある」と第一皇子が声をかけてきた。
「は、はい」
どきりと緊張しながらも返事をすれば、もやっとアシュレイから嫉妬の暗雲がまた出ていた。
「……行かないで」
「少し話すだけよ」
エリスとしても、今の状況を相談したかった。
「……第一皇子様のもとに運んでくれる?」
そっと訊ねると、アシュレイは物憂げではあったが頷いた。彼の魔法によって、エリスだけふわりと動いて、とん、と屋根に降り立った。振り返って「ありがとう」と彼に礼を言う。
そして第一皇子のすぐそばまで近寄った。小声ならばアシュレイには聞かれずに話し合える距離だ。
「……アシュレイはなぜ顔を晒している?」
早速第一皇子から質問をされた。
「……皇子様になるんだそうです」
「…………なぜ」
「たぶん、私と殿下の仲を疑っているので、自分も皇子になればいいんだと思ったのかと……ああ、あと、殿下が魔法救皇じゃないってバラせば私と殿下が結婚をしなくて済むようになるって喜んでました」
「ああ、なるほど」
第一皇子はげんなりと疲れが見える顔で頷いた。
「それから、実は、敵が――」
警戒しながら言おうとしてみれば、先ほどのように頭の中で牽制の声がすることはなかった。アシュレイに協力を仰ぐのとは違って第一皇子になら告げても構わないのだろうか。もう近くにいるような気配もない。
「先ほどまで近くに例の男が……あの物陰にいました。もういないとは思います。それに、私の魂の一部が残った品を持っていました。これから先、男の命令に抗えないこともあるかもしれません。今はぎりぎり耐えられていますが」
「……わかった。兵に捜索させる」
相手は転移魔法も使えるから、すでに遠くに逃げているだろうとは思うが、とりあえず第一皇子に伝えるべき情報はすべて言えた。
「あの……これからどうしましょう」
「敵を捕らえるまで時間稼ぎがしたい。……アシュレイに過去を思い出させないために、未来に目を向けさせろ」
「未来へ?」
聞き返すと、皇子は神妙な顔で頷いた。
「……少なくとも俺への対抗策を考えているうちは、両親については考えないだろう。俺はこのままアシュレイが『魔法救皇』であることを否定し、対立した状態で進める」
予想外の方針を示されて、「……続けるんですか?」とエリスは訊ねた。『俺が魔法救皇だ』を撤回しないということだ。
「ああ、アシュレイが純粋な気持ちであなたの役に立とうとすれば、また同じ思考に行きつく可能性がある。あなたの望み――宝物庫の品や、あなたの亡き両親について思考が辿り着かないようにさせてくれ。とにかく俺に思考を向けるよう徹底する」
「なるほど……」
彼がエリスの望みについて考えれば、エリスが両親を亡くしていることから、アシュレイ自身の両親へ思考が及んでしまうだろう。
だから第一皇子は、自分が邪魔者として立ち塞がることで、アシュレイの思考を自分に向けさせ続けるという作戦に変更したのだ。
そうなると、アシュレイがこのまま第三の皇子とやらになってもいいということだろうか。その間に敵をどうにかできれば、後のことは気にしないのだろうか。
「――話は終わった?」
エリスたちが黙り込んだので、アシュレイが声をかけてきた。
「二人とも距離が近いから離れてよ。……それじゃあエリス、僕と最初からやり直そう?」
アシュレイが手を差し伸べながら、そう言った。
「……最初からやり直すって……どういうこと?」
エリスが訊ねれば、彼は甘く、そして泣きそうな顔で微笑んだ。
「城に、僕に会いに来てくれる? ……僕と踊ってくれますか?」
思わぬ言葉に、エリスは目を見開いた。
彼の言う『最初』というのは、エリスが第一皇子と最初に会った舞踏会の時からなのか、と。
(アシュレイ……)
エリスが自ら皇子に会いに来たことを、本当はずっと羨んでいたのだろうか。
それほどまでに彼は、エリスと第一皇子の関係を塗り替えたかったのだろうか。
エリスがつい彼を見つめていると、アシュレイは第一皇子の方を向いた。
「僕は、今度こそ、舞踏会で皇族として振る舞う権利があるよね?」
「……魔法救皇は俺だ。魔法救皇でもないお前が皇族だという証明はどこにもない」
「ふうん」
アシュレイはすっと目を細めた。
「僕は反省したんだよ、兄さん。誰かの陰で守ってもらっているだけでは、欲しいものは手に入らないって。……兄さんたちがくれるものは『安全』で、それが兄さんたちの本気の願いだってこともわかってる。でも僕が一番欲しいものは違うんだ。だから好きにさせてもらうね。今まで守ってくれてありがとう。でも、兄さんがくれるものは、もういらないんだ」
彼は静かに第一皇子を見つめていた。
「自分で頑張るよ。ちゃんと、自分で起こすことの責任は取るよ。……その結果、僕がどうなろうとも」
彼の背後の暗闇を、引き裂くように雷がまばゆく落ちていった。




