47_素顔
エリスは敵の男と共に、魔物の出没している場所に向かった。
そこで見たのは――仮面をしていない、素顔のアシュレイだった。
(え……?)
どうして素顔を晒してしまっているのだろう。そしてどうしてこんなにも不安になるほど、空は暗く、雷が落ち続けているのだろう。民衆は誰もが畏怖を抱いて、空に浮かぶ魔法救皇を見上げている。
――その姿はあまりにも神々しく、そして恐ろしかった。
仮面をつけていない顔は、二人の皇子のどちらとも違う。それでも彼が皇族だと誰もが感じることだろう。纏う高貴さ、ひれ伏しそうになるほどの、逸脱した存在感。
彼が魔法救皇かどうか、疑う者はいないだろう。
呆然としているエリスの横で、男が「ああ、やはりあの子だ」と呟いた。
「予知で見た顔と同じだ……顔は姫に似た……そう、あの子が孤独に苦しむ姿を、私は見た」
(孤独に苦しむ姿……)
立ち止まっていると、ふいにエリスの体が浮いた。
「!?」
アシュレイがこちらに手をかざしているのだ。
ふわり、とエリスだけアシュレイのもとに飛んでいき、そして、空高く舞い上がったまま、彼のすぐ隣でぴたりと止まった。
「!」
彼の魔法で浮いているのだと思っても、その高さに身体が強張る。
「ああ、そっか、あんまり高いの怖いんだっけ、ごめんね」
「いえ……」
あの男から引き離してもらえたのは助かった。
(今、事情を話したら、あの男を気絶させてもらえる? ……ううん、それよりも)
アシュレイの、いつもと違う様子が気になった。
彼の感情は静かに凪いでいる。なのに空は暗雲に包まれて不安定で、底知れない闇を感じさせた。
「あの、アシュレイ、どうしたの? どうして仮面を取っているの?」
そっと訊ねてみると、
「ああ、これかぁ」
と、彼は自分の頬に手を添える。
「皇子様になろうかなって」
「!?」
思わぬ言葉に、エリスは目を見開く。
アシュレイはその顔を見て、悪戯が成功した子どものような顔で「ふふ」と微笑んだ。
「最初から間違ってたんだって気づいたんだ。もう全部いいや。母様の名誉を傷つけるかもしれないことだけは、申し訳なく思うけど、でも、もうどちらの皇子でもない、別の『三人目』がいるってバレてしまった方が楽だなって思ったんだ。誰が僕をどう見ようとも、もういいや。だって僕が欲しいのはエリスさんとの人生だけだから。だから他のことは、もういいんだ」
「アシュレイ……」
それはどこか投げやりで、でも彼の心からの望みだと思えた。
彼がちらりと地上に視線を向けると、目が合ったであろう民衆たちはびくりと震えて、大声を上げる。
「魔法救皇様、万歳!」
そう腹の底から叫んで両手を挙げている。
――畏怖だ。
雷は落ち続け、黒い暗雲に覆われている。出現し続ける魔物を、時折彼が無情に処理している。それを誰も安堵するどころか、恐怖の感情を抱いて、固唾を呑んで見守っている。エリスには民衆の感情がはっきりと見える。
誰もが、彼に怯えを抱いている。
それをアシュレイもわかっているのだろう。民衆に言葉だけの喝采を叫ばれても嬉しそうではない。
彼は自嘲するように笑った。
「怖いだろうね。仮面を取ったらどちらの皇子でもない、知らない顔の人間が、膨大な魔力を扱っているんだもの。誰だこいつ、って思うよね。第一皇子様がよかったよね。……僕、まだ何も怖いことしてないのにな」
(――ああ、これが)
アシュレイの、魔法救皇としての孤独と苦しみだ。
あの敵の男が言っていたことのひとつだろう。何をしていなくとも恐れられる、彼が背負わねばならない孤独。
「でもみんな、今までのアシュレイの活動に、感謝しているはずよ」
十年以上前から、仮面をつけた魔法救皇は、各地で人々を助けてきたはずだ。魔物を討伐し、土砂崩れから人を救い、干ばつに苦しむ村に雨を降らせ、雪山で行方不明になった遭難者を捜し出した。
彼は、大勢の人を助けてきた。
「……仮面をしてた時はいつもお礼を言われていたよ」
「でしょう?」
「でも、今こうして素顔を晒しても、誰も寄ってこないでしょう? みんな仮面の下の僕になんて興味がないから。むしろ怖がってる」
「それは――ただあなたを知らないからよ。知らない存在は怖いものよ」
そう告げるエリスに、彼は「そうだよね」と目を細める。
「でも、知ってもらったからって受け入れてもらえるとは限らないよ。よくも幻想を壊したなって、皇子じゃないなんて、って怒る人すらいそうだもの。誰も僕を知ろうとしてくれない。近寄らずに怯えてる。仕方ないよね。みんな自分と家族が一番大切で、その身を守りたいはずだから」
(アシュレイ……)
それはかつてエリスが叔母の村で思っていたことと同じだった。
何故、誰もエリスを助けてくれないのか。
どうして見て見ぬふりをして、誰も手を差し伸べてくれないのか。
その理由は明確だ。
みんな、我が身が可愛いから。
面倒ごとに巻き込まれて、自分と家族が被害を受けるのが怖いからだ。
……エリスが、誰にとっても一番じゃないから、誰も近寄ってこないのだ。
「でも私は、アシュレイを一番に選ぶわ」
まっすぐに彼を見つめる。澄んだ紫色の瞳に、エリスの緊迫した顔が映っていた。
アシュレイは記憶を失う前、エリスが気持ちを伝えても、「兄さんよりも?」と気にしていた。
だから、きちんと伝えようと思った。
「みんな、確かにあなたを怖がっているかもしれない。まだあなたのことを知らないし、避けてしまうのも仕方がないわ。でも私は、あなたを一番大切に想っているの。……今は、私だけでは駄目?」
彼にどうか伝わりますよにと、祈りを込めて、彼に告げた。
「……それは、運命の乙女だから?」
「関係ないわ」
即答するエリスに、アシュレイは「でも」と自嘲する。
「兄さんの方が好きなんでしょう?」
「……いえ、本当にそれは違うのよ……」
だが証明できない、と彼は思うのだろう。記憶を失う直前もそのようなことを言っていた。
実際、今も彼はそう思っているようで、もやもやとまた焦げ付きそうな感情の暗雲を出していた。
「私の心を疑っているなら――そうね、魔法で見てくれる? ほら、感情とか心の中が見えるような魔法もあるんじゃない?」
エリスに見えるのだから、万能な彼なら余裕で出来るだろう。そう思ったのだが――彼は怯えたような顔になる。
「そんな怖いことできないよ。エリスさんに魔法を掛けて、何かあったら困るもの」
「え、大丈夫なのに」
エリスは普段から見ているのに、アシュレイからすれば、他人を魔法でいじくるような感覚で怖いのだろうか。
臆病で不器用で、他人を案じられるアシュレイらしいが、今はそんな配慮は要らなかった。
「あ、それなら、嘘を言ってないって証明する魔道具があったんじゃない? 水晶みたいなやつで、嘘をつくと赤く濁るの」
第一皇子とエリスが馬車で話した時、アシュレイの敵ではないと証明するのに使った品があったはずだ。
「ああ、最近使ったら老朽化で耐えかねて壊れたって」
「え!」
エリスたちが使ったせいで壊れたらしい。あれで寿命が来たのだろうか。
(やっぱり二回目の質問、無駄遣いだったじゃないの!)
エリスが敵かどうか、を確かめるまでは良かったが、何が欲しくて城に来たか、まで追加で訊いたせいで壊れたかもしれない。
「それにね、エリスが嘘を言ってないって証明したって意味がないんだ」
「え?」
「だって、僕のことが好きで、兄さんのことは好きじゃないって思っていたとしても、実際は自覚していないだけで、本当は違う場合もあるでしょう? これは矛盾しないんだ。無自覚の問題だから、嘘をついていることにはならないんだ」
「そ、それは、そうだけど」
感情が見えるエリスでも、本人に自覚がなければ悪事をしていても罪悪感を抱かない、という問題は身に染みてよくわかっている。自覚がなければ、嘘をついていてもそれは目に見ることができない。
「エリスは、兄さんといて幸せそうな顔をするよ」
「……絶対に気のせいよ」
エリスはかなり低い声で言っておいた。
「とにかく……ええと、落ち着きましょう? 顔を見せてしまったのは仕方ないけれど……」
なんとか事態を戻さねば、と思っていると、彼は蠱惑的に微笑んでみせた。
「僕は、もう、今までどおりに生きる気はないよ」
「え?」
聞き返したエリスに、「もう、やめたんだ」と彼は言う。
「僕は孤独だって気づきたくなかった。だから素性を隠して、人に関わらずに生きてきた。だけどそうやって生きてみても、結局僕は一人になる。だったらもう、隠さないほうがいいよね」
そして儚げに微笑んだ。
「僕は魔法救皇だよ。兄さんのような人望もなく、敵からも狙われて、誰も僕の名前を知らない。みんなが僕を怖がって、僕は結局一人ぼっちだ。でも、もうそれでいいよ。我慢してたって欲しいものは手に入らないってわかったから」
「アシュレイ……」
思わず彼の名前を呼んだ。彼は眩しそうに目を細める。
「うん、名前を呼んでくれるのは、エリスさんだけ……エリスだけだよ」
「違うわ。皇子様たちだって、アシュレイのことを大切に思っているもの。……孤独じゃないわ」
まだ付き合いの短いエリスでも、あの皇子たちがアシュレイのことを案じているのはよくわかった。
「兄さんたちか……そうだね。僕は周りの人に恵まれているのかもしれない。……でも……うん……僕の子どもの時の話を、一つだけしようか。僕が兄さんを、大好きで、大嫌いになった理由。僕が初めて、絶望した時の話」
強い言葉に、エリスは目を見開いた。
内緒だよ、と微笑んで、彼は話し始めた。




