40_罠にかける①
翌朝、食事を終えて少し経った頃、アシュレイが部屋を訪ねてきた。
「おはよう、昨日はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまで」
本当はあまり寝られなかったし、今日も城で一人でいると心細いので、彼の顔が見られてほっとした。
「その……昨日はごめんね。エリスさん――エリスがそんなに猫が好きだって知らなくて、お願いを叶えてあげられなくて……」
「……い、いえ、いいのよ」
昨日はちょっと意地悪をしすぎたかな、と今は反省している。気まずくてそっと顔を逸らしていると、意外にも彼の方から提案をしてきた。
「今から中庭に行ってみない? ……もしかしたら黒猫がいるかもしれないよ」
「!」
それはもしかして、アシュレイがこっそり黒猫になってくれるのだろうか。
(私にバレないように、一人二役をしてくれるつもりかしら……!?)
さすがに人間のアシュレイと黒猫のアシュレイは同時に存在できないはずだから、きっと中庭についたらアシュレイが「ちょっと用事が」と言っていなくなり、黒猫がどこからかやってくるに違いない。
そしてエリスが黒猫を撫でまくって満足したら、茂みに隠れて、そしてまた人型のアシュレイが戻ってくる――という感じの一芝居を打ってくれるのだろう。それとも万能な魔法救皇なら分裂くらいできるのだろうか。
(分裂はちょっと心配になるからやらないでほしいけれど……!)
万能だが、途中の過程や代償を考慮しないといけない、と昨日第一皇子も言っていた。きっとアシュレイも、怖そうな分裂なんて無茶はしないだろう。素早い一人二役をやってくれるに違いない。
わくわくと期待しながらアシュレイと二人で廊下を歩いていくと、エリスのその表情を見て、アシュレイも、ふわっ、ふわっと幸せそうな感情を浮かべていた。
しかも、彼はなにやら鼻歌まで歌っている。珍しいこともあるものだ。それほどに上機嫌なのだろう。そう思って嬉しくなりながらその鼻歌を聞いていると――
妙な、引っかかるような、不安になるような旋律だった。
(これ、音程は合っているのかしら……?)
音楽の心得がないエリスでも、『正しくない』のではないかと思うような、不安定に揺れる旋律だ。あちこちに痕を残していくためだけの歌のような――
エリスが怪訝そうにしているのに気がつくと、アシュレイが急に慌て出した。
「あ、僕が音痴なんじゃないよ! いや、たぶん音痴でもあるけれど、この歌はこれで合ってるんだよ。……ご、ごめんね、もうやめるね」
「いえ、やめなくていいけれど……珍しいなって思ったの」
その言葉を「こういう歌は珍しい」ではなく、「アシュレイが鼻歌を歌っているのが珍しい」と捉えたのだろう、彼が照れくさそうにする。
「うん、普段はあんまり歌わないんだ。でもこの歌は特別で――僕は楽譜を書けないから、覚えておきたかったら何回も歌わなきゃなって思って……今朝からずっと繰り返しているんだ」
「……」
嫌な予感がした。
本当は怖くて訊きたくなかったけれど、絶対に今、確かめなければならない質問をした。
「……その歌は、だれが歌っていたの?」
エリスの言葉に、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「母様だよ」
その純粋な笑顔に――エリスは胸が軋むようだった。
彼は、母親のことを知らないはずなのだ。
彼は三歳で死別している。五歳のときに、わずかに覚えていたはずの母親の記憶は封じられた。呪歌ごと封じ込むために。
「お母様のことを、覚えているの……?」
消え入りそうな声でエリスが訊くと、「ううん」と彼が否定した。
「覚えているわけじゃないんだ。……あのね、昨日エリスが亡くなった人と話せる魔道具が欲しいって言っていたでしょう? それでエリスも両親を亡くしてるんだったなって思って……僕の両親もいないなって考えて――それで、僕もちいさい時、両親の幽霊に会えないかって試したことを思い出したんだ。……あ、もちろん、無理だったよ」
彼が昨日『死者を呼び出すことはできない』と断言したのは、自分が実際に試したからなのだろうか。
「それでね、本人は無理でも、この世に残ってる残滓ならまだあるかもしれないって思ったんだ。母様は日記を残していたし、僕は一応、万能だって言われてる魔法救皇だから、ほんのちょっとでも母様の願いの欠片みたいなものが――生きていたころの魔力のひとかけらでもあれば、何かを読み取れるかもしれないって試してみたんだ。そうしたら――できたんだ。ちょっとだけだけど、両親の夢を見れたんだ。その歌なんだよ。今朝飛び起きて、それからずっと、忘れないように歌ってる」
彼は照れくさそうに、幸せそうに――大切な宝物を見せてくれるかのように、微笑んだ。
それは父親からの呪歌だと、エリスは言うことができない。
(……どうしよう)
エリスが死者に会いたいと昨日言ってしまったから。死んだ両親を思い出すようなきっかけを、彼に与えてしまった。
(どうしよう……!)
目の前が眩むようだった。
あまりの後悔に、立っていることさえできなくなりそうだ。
だが、今すぐ行動しなければならない。一刻も早く、呪歌をアシュレイから取り除かなければならない。もしあの敵が今アシュレイの前に現れて、呪歌の効果を発動してしまったら、アシュレイは死んで操り人形になってしまう。
焦りながらも、エリスにできることは一つだけだ、とすぐに決断した。
「あの、アシュレイ、お願いがあるの」
エリスの言葉に、アシュレイの顔は、ぱあっと喜色に満ちる。
「なあに? なんでも言って」
頼られるのが嬉しいのだろう。幸せそうにエリスの次の言葉を待っている。これを裏切るのは心苦しかったが、エリスは言った。
「第一皇子様に今すぐ会いたいの。私ではいきなり会えないだろうから、取り次いでくれないかしら」
「え」
途端に、ショックを受けたような顔になった。どこかで雷が鳴っていた。




