29_勘違いの始まり①
次の日も、黒猫は来ていた。
膝に乗せて読書でもしたい誘惑が湧くが――
(これはアシュレイ……これはアシュレイ……)
と、自分に強く言い聞かせる。
中身が彼だとわかっている以上、もう軽率に撫でたりしてはいけないのだ。
エリスが自制の葛藤のために止まっていると、どうしたのかと不安になったのだろうか、
「にゃ……にゃ……」
と足元をうろつき、心配そうにちらちらと見上げてくる。
(だめ……可愛すぎる……)
ついつい触りたくなってしまう。
手を伸ばしそうになるのを我慢しながら、しゃがみこんで話しかけた。
「今日も来てくれたのね、ありがとう」
「にゃあ」
猫は自分から撫でられに行くように、エリスの膝に頭を近づけてきた。エリスが当然撫でると思っているのだ。
(か、可愛い……)
昨日あんなに撫でまくったので、エリスが今日も撫でたいだろうと思って、彼の方から気遣ってくれたのだ。
エリスが正体に気づいているとは、アシュレイはまだ知らない。彼に「え、いつから気づいてたの!?」と恥ずかしい思いをさせないためにも、猫として自然に扱うべきだろう――と、心の中で言い訳をして、その黒い毛並みを存分に撫でる。やはり柔らかくて温かかった。
「幸せだわ……」
「にゃ……」
猫も、照れの感情を抱きつつ、幸せそうである。
(良かった、アシュレイが元気そうで)
人間の姿では会えていないが、こうして無事を確認できているので安心だ。
アシュレイを狙う者がいるならば、しばらくは『運命の乙女』であるエリスは人間の姿の彼と会わない方がいいだろう――そう考えて、ふと第一皇子から言われたことを思いだす。
「あ、そういえば私、明日は出かけるの。だから明日は会えないわ」
猫がきょとんと、一回まばたきをする。
「明日はね、第一皇子とデートなの」
「!?」
驚いたように、黒猫は全身で飛び上がった。
「にゃ!? ……にゃ!?」
「ああ、皇子様となんて驚いたでしょう? 実は私、運命の乙女だから、ええと、魔法救皇候補と親交を深めるために?」
言いながら アシュレイはエリスが運命の乙女だと知っているのだから、別に説明とか要らなかったな、と後から気づいた。そもそも猫相手のひとりごとなのだから、あまり詳しく説明するのもおかしい気がする。
「にゃ! にゃ!!」
黒猫は何かを主張しているようだ。だが、猫の言葉なのでわからない。
見える感情からして、慌てているのはわかる。
「なにか心配? まあ私も最初は怖かったけど……ちゃんと話したら、そんなに悪い人でもないし、むしろ味方なら頼もしいかもって思い始めたの」
「にゃ…………」
黒猫がかなり困惑し始めてしまった。
皇子とは『アシュレイを守る』という点で協力関係になった。性格は合わない相手ではあるが、アシュレイを守る姿勢については信頼できる。
(アシュレイには……言っちゃいけないのよね)
実の父親から呪歌を歌われて、ずっと命を狙われていることを、彼は自覚してはいけないのだ。呪歌を思い出してしまうと、呪殺の条件が揃ってしまうから。
当面、エリスが気を付けるのは、「呪歌を思い出させない」と「アシュレイが魔法救皇だと誰にもバラさない」の二つだけだ。
だから今後はアシュレイに会うところを誰かに見られてはいけない。運命の乙女の最有力候補として有名になったエリスが親しくする相手がいれば、その相手こそ魔法救皇だろうとみんなが推測できてしまう。そうするとアシュレイがあの敵に狙われてしまう。
(今こうやって会えているだけで、幸せだと思わないと……)
エリスを操ろうとする敵がこの場を見ていなければ問題ないし、大抵の人間は、猫を見てもアシュレイとは思わないだろう。いい密会方法だな、と思ったが――
(……いえ、でも、本当にそうかしら?)
ちらりと思わず振り返って、屋敷の誰も見ていないことを確認する。
エリスは、自分があまり頭の回転がいい方だとは思っていない。自分が気づけるくらいのことならば、敵はきっと見破ってくるに違いない。なにせ魔法救皇が万能なことは誰もが知っている。だから、「運命の乙女が最近可愛がっている黒猫は魔法救皇かもしれない」と辿り着くくらいはできるだろう。あまり黒猫とも親しげにしない方がいいかもしれない。
(この屋敷には、敵のスパイは入り込んではいないとは思うけど……)
けれど、もしかしたら自覚なしにスパイをしている者もいるかもしれない。罪悪感や焦りは、本人に自覚がなければエリスにも見えない。「お嬢様が迷い込んだ黒猫を大切にしているんですよ」くらいの軽い伝達が、あとでエリスたちの首を絞めるかもしれない。いや、すでにこの二日で「どこかから黒猫が迷い込んでいた」とか「お嬢様が寝込んでいる間にやたらカラスが寝室の窓を覗きに来ていた」くらいの噂は、もう使用人たちの間に広まっているかもしれない。
「ごめんね、私たち、もう会わないほうがいいと思うわ」
「にゃ!?」
エリスの言葉に、黒猫が目を丸くする。
一気に悲しみの感情が溢れ出た。
「あなたに悪さをする人が出るかもしれないし……ほら、野良猫が入り込むのをよく思わない人もいるでしょう? かといって、あなたを飼ってはあげられないし、しばらくは私も忙しくなるから……だから、ごめんなさい」
「にゃ……」
黒猫は悲しげに耳を垂れる。そして、縋るようにエリスを見た。「僕のこと、きらいなの?」と言っているようだ。
「……あなたは悪くないの。ごめんね、あなたのことは大好きよ」
そっと抱き上げて、頬を触れ合わせる。
「会いに来てくれてありがとう。元気でね。……またしばらくあとで会えるように、頑張るから」
「にゃ……」
名残惜しいが、別れなければならない。
そう思っていると、ちょうど侍女たちが来て、「第一皇子様から明日のご衣装が届きました」と嬉しそうに報告してくれる。エリスに中身を確認してほしいらしい。
「今、行くわ」
「にゃああ……!」
黒猫はまた悲痛に叫び始めた。
「ど、どうしたの?」
訊ねても、焦った感情を浮かべ続けるだけだ。
(あれ、もしかして、これって浮気になるの?)
先ほども、黒猫はエリスが第一皇子とデートをすると言ってから、困惑と焦りの感情を出していた。
(そっか、アシュレイがいるのに他の人とデートしちゃだめよね……あ、でも、まだ付き合っているわけじゃないし、私がそんなふうに『アシュレイが嫌がっている』なんて想像するのは傲慢かしら?)
アシュレイとは交際していないし、好きとも言われていない。
とはいえ、そのまま放っておくのも申し訳ないので、「これはお仕事よ」と黒猫に念を押した。
「本物のデートじゃないわ。あくまで公務。恋愛感情じゃないの。……じゃあ、そろそろ行くわね。明日はしっかり公務を――運命の乙女としての、自分の使命を果たしてくるわ。もう危ないから、ここへは来ちゃだめよ、猫さん」
「にゃああ……!」
黒猫はまだ何かを主張したそうに鳴いていたが、エリスは振り返らずにその場から去った。
そして次の日。
迎えの馬車が来て、仮面の金髪の青年が降りてきた時に、エリスは自分の勘違いに気づいた。
髪色が違っても、わかった。
――あ、この人アシュレイだ、と。
(え、今日デートをする相手って、アシュレイなの!?)
ついつい目を輝かせて、恥じらってしまうと――
相手は、なぜかどんよりとした感情を纏っていた。




