26_呪い
「それで、私はこれから何に気を付ければいいんでしょうか? そろそろ敵について教えてもらえませんか」
エリスが訊くと
「実際に会ったのだろう?」
と、皇子に言われる。
「夢かもしれませんが……」
「まあ、言ってみろ」
「黒いフードを被っていて、年は四十歳くらいの男性で……」
皇子はじっとエリスを見つめている。平然を装っているが、エリスの言葉を一つも聞き漏らさないという意思を感じた。『四十歳くらいの男』に心当たりがあるのだろうか。
エリスの言葉が止まると、「続けろ」と皇子が促す。
「いえ、もう全部言ったくらいなのですが……私も、ほとんど意識がなくて、一方的に短く話しかけられていただけなので……」
「その男は何を喋っていた?」
エリスは慎重に、何を話すべきか悩んだ。
あの男は妙なことを言っていた。
(あんなこと、口にしても良いのかしら)
今、この馬車の中は二人きりで、他にこの話を聞く者もいない。――密談のために、皇子がそうしたのだろう。
だから、悩んだ末に、言うことにした。
「……誰かのことを――多分、魔法救皇のことを、『愛しい姫が生んだ子』と言っていました。それに……屍になったら親子として暮らせる、と」
皇子の赤い瞳が見開かれ――真っ黒な怒気が溢れ出た。
「……殺してやる」
腹の底から絞り出すような声だった。
思わずエリスは身構える。もはや皇子は感情を隠しきれていなかった。
「あ、あの……」
「続けろ。他には何を言っていた?」
「ええと……歌を、歌っていました」
「待て。それは歌うな」
皇子が急に警戒したような顔になる。
「いえ、歌えるほどは覚えていませんが……メロディなら多少は」
「だから、歌うな。……誰にも歌ってないだろうな?」
「歌ってません」
強く「絶対に、誰にも歌うな」と念を押された。それから思案げな顔になり、「あとでお前も洗浄が必要だ」と皇子が言う。
「洗浄?」
「忘却魔法を掛ける。それは呪歌の可能性がある。忘れなければならない」
重苦しく、ひとことずつ区切るように言われた。
どういうことだろうか、とエリスが戸惑っていると、皇子は溜息を吐いて、何かを思い出すような顔をした。
「魔法救皇の生い立ちについて話そう。……まあ、つまり俺の話だが」
「え? あ、はい。……結局そこは譲らないんですね」
俺が魔法救皇だ、という主張は変えないらしい。
皇子はそのまま話を続けた。
「それはおそらく魔法救皇の父親で――魔導士だ。それも、弱体化の進む現代では類を見ない、逸脱した才能を持ち、単独で転移魔法を行えるような、魔法救皇に次ぐほどの才能だ。……そうでなければ城に住む皇女に近づくことすらできなかったはずだからな」
「……皇女?」
エリスが訊き返すと、「……現皇帝の妹君だ。十五年前に亡くなっている」と呟いた。
(アシュレイのお母さんってこと……?)
確か、未婚で、二十歳ほどで亡くなったはずだ。子どもがいるなどと聞いたこともない。
エリスの困惑した視線を受けて、「当然、国家機密だ。隣国に嫁ぐはずの皇女が、密かに懐妊などと」とさらりと皇子は言う。
「妊娠が発覚してからは徹底して結界を張ったから、その魔導士は子の誕生にすら立ち会っていないだろうが――お前の方は無防備だ。伯爵家に忍び込んでお前と接触したのも、転移魔法を使ってのことだろう」
(……じゃあ、あれはやっぱり夢じゃなかったんだ)
皇子がここまではっきり言うほど心当たりがあるのなら、やはり、あの恐ろしい人は実在し、毒を盛り、エリスのあの寝室に来ていたのだろう。
「……私が、運命の乙女だってわかってて近づいてきてるってことですか?」
「そうだ。お前を使って、魔法救皇を殺そうとしている」
はっきりと言われると、その恐ろしさに胸が苦しくなる。
(なんで、アシュレイが殺されなきゃいけないのよ……)
そして、憤慨がじわじわと湧いて出てくる。それをじっと見ながら、皇子は静かに言った。
「俺たちは今まで魔法救皇が誰なのか隠してきたからな、相手は魔法救皇の素顔すら知らん。だから『運命の乙女』の方に接触しようと動き始めたのだろう」
(そうだとすれば――)
エリスがアシュレイと仲良くするのはまずいのではないだろか。
運命の乙女であるエリスが特定の相手と一緒にいたら、「この人が魔法救皇です」と敵に知らせるようなものだ。舞踏会でエリスが目立ち、噂が広まったから、その男は伯爵家に来たのだろう。
(もう、すでにまずいかもしれない)
舞踏会でエリスを庇った強い魔導士がいることが知られてしまえば、アシュレイがエリスと親しいことがバレてしまう。せっかく皇子たちが今までアシュレイを隠してきたのに、彼を危険に晒してしまう。
「……今までずっと、魔法救皇が仮面をつけてきたのは……その魔導士が狙っているからなんですね?」
「そうだ」
そこで、エリスは疑問に思う。
「念のため、確認なんですが……父親が、顔も知らない我が子の命を、ずっと狙っているっていうことですか? しかも魔法救皇を? ……万能の魔法救皇なのに、そこまでその人を警戒しなきゃいけないんですか?」
実際に真っ黒な感情を見たから、あのフードの男が魔法救皇を狙っていることは疑っていないが、そもそも命を狙いたい理由がわからないし、万能で最強の魔法救皇なら、もっと早くに倒せているのではないだろうか。
そう思って訊ねると、皇子が目を伏せて、重い息を吐いた。
「……アシュレイは」
ぽつりと、とうとう皇子がその名前を言った。
エリスは驚いて皇子を見たが、皇子は少し俯いていて、目は合わなかった。
「アシュレイは、胎児の頃から呪歌を歌われている。……子どもの頃に歌われた呪歌を、大人になるまで覚えていてはいけない」
「呪歌……?」
先ほども、聞いた単語だ。
皇子から、暗い、怒りの感情が、ゆらゆらと燃えるように湧き出ていた。
「おぞましい、大昔に葬られたはずの禁忌の魔法だ。――子どもの頃から覚えさせ、月日が経ったのちに術者が殺意を持って歌えば、『歌を覚えていた者』は死んでしまう。……呪歌での呪殺に成功すれば、その死体を術者は操ることができる。魔法救皇を不死の人形にしたいのだろう。この世で最も万能な、物言わぬ兵士に」
残酷な説明に、エリスは絶句した。
信じられずに、訊き返す。
「つまり、強い死体が欲しい、ってことですか……?」
どうか、違うと言ってほしい。けれど皇子は「そうだろうな」と重苦しい声で言うだけだった。
(親子なのに……?)
それに、あのフードの男は「あの子が綺麗な屍になった時、初めて親子として暮らすことができる」と言っていた。その男は、我が子を恋しがっているのではないだろうか。――もちろん、愛だとしても、呪歌を歌うなど、許されることではないが。
皇子は苦々しげに、溜息を吐く。
「……その歌を、皇女は呪歌と知らずに、恋人から教わった子守歌として、アシュレイが生まれる前も、生まれてからも、ずっと歌って聴かせていたようだ」
(恋人……)
皇女とその男は、密かに愛し合っていたということだろうか。
「皇女が風邪をこじらせて亡くなるまで――アシュレイは三歳まで呪歌を歌われていた。そして五歳の時、魔法の才能を伸ばすべく指南役で呼ばれた王宮魔導士が、アシュレイが一人の時に歌を歌っているのを聴き、その旋律の奇妙さから呪歌だと気づいた」
そして皇子は、自分のこめかみに、指をあててみせた。
「呪歌による呪殺の予防策は『忘却』のみだ。ただちに当時最上位の大魔導士によって忘却魔法の処置を施した。歌そのものを忘れれば、呪殺の条件は満たさない」
「じゃあ、今はもう大丈夫なんですか?」
「……いや」
皇子は、押し殺すような声で否定した。
「大抵は、子どもの頃に呪歌を仕込み、大人になってから――人形として最も体力と魔力が望ましい青年期にその命を刈り取る。歌を聴かせられ始めた時期が早いほど、そして歌を頭の中で反芻し続けた期間が長いほど、呪いの強力さが増す。だから、アシュレイが子どものうちに記憶を封じた。だが――」
皇子が悔いるような顔をする。
「アシュレイがどれほど日常的にその歌を自分でも歌っていたかわからないから、残す記憶を選ぶことはできなかったそうだ。五歳までの記憶すべてを封じることになった。ゆえに、アシュレイの精神は、少しばかり不安定だ。母親と過ごした日々すら封じられたからな」
「……」
それは、ひどく孤独なことだろうと思った。
計算上、皇女はアシュレイが三歳の時に亡くなっている。五歳の彼が、母が歌ってくれていた歌を覚えていたのなら、五歳のアシュレイは、ちゃんと母親のことを覚えていたのに。
「ただし、万能の魔法救皇が本気で思い出そうとしてしまったら、おそらく最上位の忘却魔法にすら抗って、すべてを思い出してしまうだろう。だから、決して『何かを忘れている』と気づかせてはならない。あいつがかつて呪歌を歌われていたことを、そして今も狙われていることを、決してあいつに気づかせてはならない。――身体と魔力が成長しきった今こそ、死体にするならば、最も適した時期だからな」
念を押すように、「絶対に思い出させるなよ」と瞳を覗き込まれた。エリスは静かに頷く。もちろん思い出せるような真似をする気はない。
だが、エリスは別のことが気になった。
「あの、魔法救皇は万能なんですよね? ……だとしたら成長した今なら、呪歌なんてものに負けないんじゃないでしょうか?」
皇子は静かに、「可能性としては、否定しない」と言った。
「だが、無理に真正面から戦うべきではない。……胎児の頃から両親に歌われ、五歳まで自分でも歌っていたほどだ。鮮明に魂に刻まれ、呪いの強さは最上級と言っていい。万能と言っても、一瞬で自動ですべてを無に還せるものではない。……あいつは、家族への憧れがある。実の父親が現れれば、その歌を黙って聴いてしまうかもしれない。その歌をきっかけに、忘却魔法を無効化し、幼少時にも聴き続けたことを思い出してしまうかもしれない。そうすれば呪殺の条件が揃う。その一瞬で死が確定してしまえば、死を覆すことは、魔法救皇にも不可能だ」
皇子は深く息を吐き――まっすぐにエリスを見据えた。
「俺は、家族の命で賭けをする気はない。確実な方法しか選ばない。敵は殺す。忘却魔法は一生解かない。邪魔をするなら、お前も処分せねばならない」
エリスはその赤い瞳を見つめ返した。
「邪魔なんてしません」
強い声で否定し、「むしろ」と懇願した。
「今日はお願いしたくて参りました。私にできることなら何でもします。だからアシュレイを助けてください。――もし私が何かに利用されて、アシュレイを傷つけそうになったら、どうか止めてもらえませんか」
皇子は真意を探るように、エリスの瞳をじっと覗く。
「随分と殊勝になったものだ。舞踏会での勇ましさはどうした」
「だって、アシュレイを絶対に守りたいから」
「……ようやく利害が一致したな」
口の端を上げて、皇子は笑った。
「これからは、協力を得られると思っていいのか?」
「……お互いに、望んでいることは同じようですから」
「そうだな」
この人は、アシュレイを守りたいだけらしい。だからエリスを警戒していたのだ。お互いに敵ではないとわかった今、もう争うことはないだろう。
ほっと安堵の息を吐いて、エリスは馬車の座席に深くもたれる。
城まで行く必要はないな、と、ようやく窓の景色を見る余裕が出てきた。
「ああ、そうだ、手始めに『運命の乙女』としての最初の仕事を一つ振る」
「はい?」
「デートをするぞ」
「は!?」
予想外の言葉に、エリスは上体を跳ね起こした。
「デート!? 誰と誰が!?」
「それはもちろん魔法救皇と運命の乙女――つまり俺とお前だ」
「んん!?」
ややこしい。結局「俺が魔法救皇」は揺るがないようだ。まあアシュレイを『父親』から守るためには引き続き魔法救皇がアシュレイだと一致させない方がいいのはわかるが。
「何のために……?」
「互いをよく知るためだ」
「いえ、ここでもこうして、たっぷりお話しできてますけども」
「……皇族にもたまには息抜きと褒美が必要だ」
「あ、そういう……私を理由にしてお仕事をお休みなさりたいと?」
そういうことなら、付き合わないというわけでもない。
もはや運命共同体。アシュレイを守るためなら、この人と組んで、多少は合わせるくらいはしよう。
「明後日、王都では祭がある。民衆には俺達のことは知らせない。あくまで『お忍び』のデートだ。服装はこちらで用意する。商家の娘程度の服装にしておく」
(お忍びデート……)
第一皇子とお忍びデート。
あまりにも身に余る大役だ。やらねばならないのだろうか。
(ちょっとカフェでお茶するくらいならまだしも……)
エリスが苦い顔をしていると、皇子が面白がるような顔をする。
「わかっているのか? 魔法救皇とのデートだぞ?」
「はあ……」
光栄に思え、ということだろうか。露骨に嫌そうな顔をしているエリスに、「意外と鈍いな。当日を楽しみにしていろ」と皇子が言う。
「公務だからな、逃げるなよ。たとえまだ民衆の前に『運命の乙女』として立つことはなくとも、お前は間違いなく運命の乙女なのだからな。今のうちに慣れておけ」
「こ、公務……」
ひそかに第一皇子と民衆に紛れ込んでお祭りを味わうのが、本当に公務なのだろうか。
「一番重要なのは、見張りの兵士をつけることだ。城の者たち、特に俺の配下がお前に慣れる練習が足りていない。いざという時にお前の扱いに手間取るようでは、本当の敵を討ち損ねるからな」
「ああ、舞踏会の時みたいに、側近に私が殺されかけたり……みんなが私を怖がって落ち着かなかったり……」
「そういうことだ」
皇子が真面目な顔をして頷く。
「兵士たち自身の目でお前を観察させ、お前が安全な『魔法救皇』の味方であることを、それとなく理解させる。お前も立場ある人間として、兵士の存在に慣れておけ。今回はとりあえず『魔法救皇』と穏便にデートをしてくるだけでいい。――そしてお前は『呪歌の男』に顔を知られている。いい釣り針になるだろう。できることなら『呪歌の男』のことは早めに片付けたい。……あいつには知られないうちに」
「――そういうことなら、頑張ります」
アシュレイの敵を倒すため、皇子の配下と協力関係になっておくことは大切だし、それが理由なら、苦手だの何だの言わずに努力しようと思った。
(私を釣り針にして、アシュレイに気づかれないうちに、皇子と一緒にあの男を討つのが一番良いわ)
――来るなら来い。
エリスは拳を強く握った。




