23_毒
ずっと身体が重くて、指すら動かないような状態だった。
途中、熱にうかされ、おぼろげな意識の中、誰かの歌声を聞いた。
重たいまぶたの隙間から見えたのは、真っ黒な外套に身を包んだ男だった。深くフードを被っていて、顔は見えない。
「ああ、まだ起きなくていい。あと一週間ほどかかる」
エリスのわずかな動きに気づいて、男が歌をやめる。声と口元の印象からして、年は四十歳ほどだろうか。冷たい声と共に、男は寝台に眠るエリスを見下ろした。
「これはお前のための歌ではない。あの子のため――私の愛しい姫が生んだ、哀れな子のために、よく歌ってやったのだよ」
最後の言葉には、わずかな寂しさが滲んでいた。身体が動かないエリスが同情を抱くと、「そうか、わかってくれるか」とエリスの感情を読んだように、しかし平坦な声で呟いた。
「まだ腹の中に宿ったばかりの、ほんのわずかな時だけだったがな……あの時の私は逃げなければならず、生まれてくる子の顔を見ることもできなかった。――だから、楽しみに待っているのだ。お前があの子を殺す日を。あの子が綺麗な屍になった時、私達は初めて親子として暮らすことができるのだから」
場違いな言葉に、エリスは耳を疑った。
(一体何を……誰のことを言っているの……?)
男は、誰かに対して恐ろしい感情を抱いていた。渦巻くような黒色。冷たく、憎悪と歓喜が入り混じり、おぞましい死の匂いを纏っていた。
逃げなければ。そして、誰かに言わなければ。危険が迫っているのだと。
けれど、声が出ない。身体は指一本すら動かない。
「私がお前に期待することは一つだ。あの子に――あの哀れな化け物に、従順な死を」
吐き気を催すほどの、強烈で醜い感情が見えた。エリスはまた気を失った。
次に目覚めた時、エリスはとっさに叫んでいた。
「アシュレイ!!」
自分の声ではっと飛び起きた時、ぶわりと窓のカーテンが揺れ、真っ黒な部屋に、誰かが立っているのが見えた。
目深にフードを被った人影だ――先程の誰かと似ていて、暗くて姿がよく見えないことを怖いと思った。先程の男はもうこの部屋にいない。今そこにいるのは若い青年だと思えた。緊迫した空気を纏ってエリスを見つめている。
(アシュレイよね……?)
確かめようとゆっくりとベッドの上から身体を動かす。それだけで高熱と息苦しさに蝕まれた身体は重かった。ベッドから足をおろして立とうとすれば――その時、初めて、自分の足首に銀色の足輪が嵌められていることに気がついた。
「え……?」
おそるおそる手で触り、外せないことに気づいて背筋が凍った。
嫌な記憶が蘇る。
叔母に虐げられ、囚われていた日々。逃げ出せず、村人すべてに見て見ぬふりをされる日々。
(どうして……?)
もう逃げ切れたはずなのに。どうして追いつかれてしまったのだろう。身体が震えて、ちいさな悲鳴が出そうになる。
「エリス」
アシュレイの声がした。フードの人物が、ゆっくりとそばに寄ってくる。
「アシュレイ……」
「ごめんね、巻き込んで」
そっとエリスを抱きしめながら、足首に彼が手をかざす。ぷつりと見えない糸が切れたように感じた。彼がひざまずき、エリスの踵を持ち上げ、ゆっくりと足輪を外していく。
「僕が預かってもいい?」
彼が手の中の銀色の輪をエリスに掲げて見せた。よく見れば、それは老爺たちが祝福の腕輪として渡してくれたものだった。箱にしまっていたはずのそれが、何故エリスの足に嵌められていたのだろう。なぜ外せなくなっていたのだろう。
うまく事態が飲み込めずにいるエリスの額に、そっとアシュレイが手をかざした。白い光が優しくしみこんでくる。身体の重さや息苦しさが取り払われていくようだった。
「毒も使われているね。悪い人が君に――」
何かを言いかけて、アシュレイは途中で止めて、俯いた。
「巻き込んでごめんね」
先ほども彼はそう謝っていた。フードのせいで、表情がよく見えない。
今日はエリスが体調不良のせいか、感情もあまり読み取ることができなかった。
けれど、口からは自然と、伝えるべき言葉がすんなり出た。
「泣かないで、アシュレイ」
彼は驚いたように顔を上げた。そして、やはり泣きそうな顔で微笑んでみせる。
「これは夢だよ。……だから、忘れてね」
(夢……?)
夢だから彼の感情がわからないのだろうか。
「もう休んだほうがいいよ。毒は取り除いたし、回復魔法もかけたけれど、身体は消耗しているはずだから……あと数日は安静かな」
アシュレイがまたエリスの額に手をかざすと、すぐにまぶたが重くなり、身体から余計な力が抜けていく。彼がそっと身体を支えてくれた。
「巻き込んでごめんね。……僕が普通の人じゃないせいで」
苦しそうな声だった。
そんなに何度も謝らないで、と言いたいのに、彼の魔法のせいか眠気が訪れて抗えない。
彼はエリスをベッドに優しく横たわらせてくれる。帰らないで、と言いたくても声が出ない。このままでは彼が帰ってしまう、あんなにも悲しそうな顔のままで。
――待って。行かないで。
どうしても声が出なかった。
「――待って。行かないで、アシュレイ!」
次にエリスが叫んだ時、今度こそ、朝が来ていた。ベッドで右手を突き上げている状態で目を開けた。
(え、私、いま寝ぼけてた……?)
はっきりと自分が目覚めているのがわかる。夢ではなく、紛うことなき現実だ。
エリスはベッドから上体を起こして周りを見渡した。寝る前と同じ、伯爵邸の寝室だ。部屋には誰もいない。朝の日差しが差し込む窓からは、雀がちゅんちゅんと鳴く声が聞こえる。
(ええと、夜にアシュレイがいて、その前に……なんだか怖い人がいて……?)
今、咄嗟にアシュレイの名前を叫んでしまったが――呼び寄せてしまってはいけなかった気がした。危険なことに巻き込むかもしれない。
慌てて自分の右耳を触る。彼から「いつでも僕を呼んで」と渡された赤い宝石の耳飾りは、今はしていなかった。寝ていたから当然だ。それならば今は彼を呼んだことにはならないだろうか。さっき来てくれたのはーー夢だったのだろうか。ほっと安堵の息を吐く。
「お嬢様!?」
大声を出したからか、年配の侍女が部屋に飛び込んできた。
「ああ、お目覚めになられたのですね! 高熱で二週間も寝込んでいらしたのですよ!」
涙ぐみながら、とんでもないことを言った。
「二週間も……!? ……飲まず食わずで?」
驚愕でエリスは目を見開いた。
「ええ、水差しでお水やスープを飲んでいただいておりましたが……医術士の方々の魔法でほとんど生命維持をしておりました。医術士の方々がおっしゃるには、毒を口にしたのだろうと」
「毒……」
物騒な言葉にエリスは身構える。
「誰かが私を殺そうとしたってこと?」
侍女は言いにくそうにし、しかしすぐに義憤を抱いたように言った。
「きっとお嬢様が運命の乙女なので、良からぬ者がお嬢様を排除なさろうとしたのですね! お嬢様は『演技』だと舞踏会でおっしゃったそうですが、やはり本物であると察する者は多いのでしょう。とりあえず、料理長は投獄いたしました!」
「と、投獄……」
あまりの情報量に目眩がしそうだ。
毒を盛られたらしい。おそらく、料理に入っていたのだろうと察せられる。
(私が、この屋敷で……? あの夕食に入っていたってこと?)
信じ切れない。
なにせエリスには他人の感情が見える。だから敵意や害意、後ろめたい感情を持つ者がいれば、察することができる。もし侍女として紛れ込んだような者がいれば、昨日気づいただろう。
もちろん、エリスの目の前にいなければ感情は見えないし、さすがに料理長までは確認していないが――
「料理長に会いたいわ。確認したいことがあるの」
「……でしたら、後日手配いたしましょう。病み上がりですから。しばらく安静になさってくださいませ」
「ありがとう」
エリスはそれから、慎重に訊ねる。
「ねえ、医術士って――ここに黒いフードの人は来た?」
「黒いフード、ですか? 医術士の方々は何名かいらっしゃいましたが……黒い服装の方はいなかったかと……」
そう言いながら、侍女は窓に目を向けて、
「ああ、またカラスが!」
と気味悪そうに叫んだ。
「……? カラス?」
見れば、窓が少し開いていた。風通しのためだろう。その外側の木枠の出っ張ったところに真っ黒なカラスが留まっていた。こちらをまっすぐに見つめている。
「まあ、なんてすらりとして艶々した毛並みのカラス。立派ね」
「不吉です!」
年配の侍女はカラスが嫌いなようだ。嫌悪と恐怖の感情がくっきりと出ている。
(まあ、結構大きいから、怖いといえば怖いわね)
なかなかの存在感である。ここまで真っ黒だと自然界でも目を引くことだろう。
「もう本当に、お嬢様が目を覚まさないんじゃないかと怖くて怖くて……ここ数日、やたらとこういう真っ黒なカラスが窓際に留まっていたんですよ……まるで死者の国から迎えに来ているようで……ああ、本当に回復なさってようございました……」
「……心配かけたわね」
侍女は涙ぐんでいる。よほど不安だったのだろう。
エリスはじっとそのカラスを見た。ここ数日、という言葉には引っかかる。
(さっき……というか、寝込んでいる時に不気味な黒い男を見たような気はするけれど……あれは夢? それとも現実?)
あのおぞましい感情を持つ男は気になったが――さすがにこのカラスとは無関係だろう。ただ黒色なだけだ。最近黒髪のアシュレイと出会ったこともあって、真っ黒なものを見ても侍女ほど驚くことはない。
(それに、このカラス、嫌な感じはしないわ)
あまり動物の感情は見える方でもないのだが――エリスを案じているように思える。
カラスはじっとエリスを見つめ返していたが、やがて侍女が窓を閉めようと近づくと、翼を広げて飛んでいった。




