20_帰り道
「さて、もう帰ろうか。森まで送るよ。……それとも伯爵家に帰る?」
玄関ホールを通り、二人で外に出た。
涼しい夜の空気を吸い込んだ。
先ほどエリスが第一皇子の前で名乗っていたので、エリスがエイベル伯爵家に養女に入ったことはアシュレイもわかっているのだろう。
(森の、あの小屋に帰りたいな)
老爺二人に会いたい。
その気持ちを読んだように、「森にしようか」とアシュレイが微笑んだ。
「伯爵家には僕が連絡しておくよ。……色々と確かめたいこともあるし」
「?」
よくわからないが、彼の方が貴族のやりとりに慣れているだろうから、「じゃあ、連絡をお願いします」と頼むことにした。
「でも、こんな夜に、森まで帰れるかしら……王都の辻馬車ってどこまで行ける?」
エリスは夜空を見上げた。もう夜の二十一時を過ぎただろう。
「あ、僕の箒で帰れるから大丈夫だよ。……今日は絶対に落ちない自信がある。絶対にエリスを怖い目に遭わせない。だから信じて乗ってくれる?」
「いいの?」
彼はどこからか箒を取り出した。
(え、今、どこから取り出したの?)
一瞬で現れたように見えたが、気のせいだろうか。今夜の彼は、魔法を出し惜しみしないようだ。
「あ、今日はね、普通の箒だよ。……全然、後で困らないやつ」
「?」
前回の箒と何か違うんだろうか、とエリスは首を傾げる。見たところ、普通の掃除に使えそうな、新品の箒だ。
さあ乗ってと、彼に促されて、彼より先に箒にまたがった。
「高い所を飛ぶから……今日は念のため、僕が後ろから捕まえておくよ」
そう言って、彼はエリスを後ろから抱えるように座ったが、エリスは少し困ってしまった。
前回は彼の背にぴったりとくっついていられたが――自分の前方に何もないのは、ちょっと怖い。これで高い所を飛ぶのか、と思うと少し震えた。
「もしかして怖い?」
「こ、怖いかも」
「じゃあどうしようかな……横抱きでいけるかな」
よいしょ、とアシュレイは箒にまたがるのをやめて、箒に腰かけるようにした。そして「おいで」と自分の膝にエリスを座らせる。エリスはアシュレイの胸に上体を預けることになり――彼の首に両腕を回してくっついた。彼もエリスの腰に手を回して支えてくれて、まるでお姫様抱っこのような状態だった。
「ああ、これでいけそうだね」
「だ、大丈夫? アシュレイはつらくない?」
「大丈夫だよ」
安心させるように微笑んで、彼はそっと箒を浮かし始めた。
ゆっくりと高度が上がる。城の屋根を通り越した。以前の低空飛行とは違って、落ちたら本当に死んでしまう高さだ。彼が落とすとは思っていないが、それでも本能的に怖くなって、エリスは必死に縋りつく。
「怖かったら、目をつぶっててもいいよ」
言われるままに、エリスはぎゅっと目をつぶった。
頬を流れていく風で、二人が進み続けているとわかる。
時折、びゅうっと強い風も吹いた。
やがてエリスは何度もためらいながら――そっと目を開けることにした。
「……すごい」
満天の夜空が広がっていた。
どこまでも広い、黒紫色の空に、星々が輝いていた。
「あ、エリス、目を開けたの?」
「うん……」
彼の首に縋りつきながら、身体を離すこともできずに、ちらりと彼を見上げる。
「大丈夫? ごめんね、こんな方法でしか、今日中に森まで返してあげられそうになくて……」
「平気……下を見なければ……こんなに綺麗な空も見られたし……貴重な経験だわ」
彼と空を飛ばなければ、自分が高い所がかなり苦手だということも、もしかしたら一生気が付かなかったかもしれない。
「ふふ、楽しい」
とても怖いけれど、この思い出は、大切なものだと思った。
ぐんぐんと彼は夜空を進んでいく。
やがて、大きな森が見えてきた。
「ああ、あの森だね」
「……こんなに早く着くの?」
一週間前、森から王都の伯爵家に移る時は、馬車で結構な距離を進んだものだ。さらに今日は城からの移動――もっと距離があるだろうに。あと何倍も時間がかかるはずだった。
不思議がっていると、アシュレイはかなり葛藤するような感情と罪悪感を溢れさせ始めた。
「どうしたの? アシュレイ? 何が不安なの?」
「……ええと、その、騙したようで申し訳なくて……その……エリスさんは……エリスは、目をつぶっていたし……暗くてよく見えないだろうから、と……ちょっと距離を、ちょろまかして、しまいました」
よくわからない懺悔をされた。
「ちょろまかす?」
それはどういう意味だろう。
彼からは罪悪感が溢れ続けている。
「ええと、ちょっと、短縮したんだ」
「……もしかして、瞬間移動とかができるの?」
彼は図星を突かれたようで、動揺を見せた後――だいぶ悩んだ末に、
「……うん、実は、転移魔法が使えるんだ」
と言った。
「すごいわ」
転移魔法なんて、大昔の魔導士でもかなり才能ある者しかできなかったはずだ。今の世では魔法救皇だけだろう。魔法救皇は大陸の端から端まで一瞬で移動できるという。
アシュレイができるのは街一つか二つ分の短縮だろうが、それでも十分にすごいことだ。
「すごいわね、アシュレイ。本当に優秀なのね」
「その……内緒にしてくれる?」
「もちろんよ」
森にゆっくりと近づいていった。木に引っかからないよう、低空飛行になり――もうおぼろげに小屋が見えるというところで、そっと、二人は箒から降りた。
「今日は本当にありがとう。アシュレイがいなかったら帰ってこれなかったわ。……箒のことだけじゃなくて、攻撃を防いでくれたことも――どれだけ感謝してもしきれないわ」
「気にしないで。……僕のせいでもあるから」
「え? アシュレイのせいなんて、一つもないわよ」
二人して見つめ合い、夜の森に、フクロウの声だけが聴こえていた。
そして気まずそうに、彼が言った。
「ねえ、エリスはどうして、最初から自分が運命の乙女だって自覚していたの?」
「?」
第一皇子にも訊かれたことを彼からも訊かれるとは思わなかった。
返答には少し迷った。
これは老爺二人にも関することだ。
第一皇子の時のように「自覚なんてない」と否定したり、「私は運命の乙女じゃなかったみたい。だって第一皇子に命令が効かなかったし」と誤魔化してもいいが――
だが、アシュレイはかなり多くの秘密をエリスに共有してくれている。エリスを信頼してのことだろう。
だから、エリスも少しだけ話すことにした。
「内緒にしてくれる?」
「うん」
「あのね、ロズじいちゃんたちが――あの二人が、鏡で『運命の乙女』を占ったんですって。そうしたら私が……叔母の家でひどい扱いをされていることがわかったから、それで連れ出してくれたの」
この説明だとまるで鏡でエリスの様子を見て、それで助けようと出発したように聞こえるだろう。……むしろその方が良い。最初から運命の乙女目当てで迎えに行ったと話せば、運命の乙女に何かを頼もうとしたことがバレてしまう。そこだけは、老爺二人を守るためにも、たとえアシュレイにでも話すわけにはいかなかった。
「えっと……エリス、叔母さんにひどい扱いをされていたの?」
「あ、そこはいいのよ、もうどうでもいいことだから」
「よくないよ!?」
怒ってくれる彼が嬉しかった。
「とにかく、おじいちゃんたちの魔道具のおかげなの。まあ、鏡に『運命の乙女』だって占われたって言われても、正直あんまり信じてなかったけどね」
「ああ、そうか、それで膨大な魔力が……その発動を僕らが検知したんだね」
「そうみたいね」
「……特定の人物を探したり、居場所まで辿りつく魔道具……そうか、そういう魔道具を作れば、もっと早くに会えたのか……ああ、でも思いついても僕の技術で作れたかな……もう本当に力だけ馬鹿みたいにあっても何も役に立たないな、僕……」
なぜか急に落ち込み始めてしまった。
「だ、大丈夫?」
「うん、自分の無力さに打ちひしがれていたんだ」
「え……」
「ごめん、気にしないで、未知の魔道具のことを知れて、嬉しいよ、うん、大丈夫」
彼は顔を上げて、泣きそうに微笑んだ。
「……これからは、もっとちゃんと考えるよ。……今日は君を失うかと思った。本当に怖かった。もう間違えたくないな」
それは本当に、切実な願いに聞こえた。
「……アシュレイは、一度も間違えてないわ」
「そうだといいんだけどね」
アシュレイは屈んで、そっとエリスの頬にかかる髪をすくって耳にかけ、先ほどの赤い耳飾りがそこにあるのを確かめた。
「エリス――必ず僕を呼んで」
まっすぐに見つめられて、そう不安げに囁かれた時、ふと、魔法救皇に耳元で囁かれた時の、心に残る感覚を思い出した。
――あなたは、間違いなく、俺の運命の人、です。
声を変える魔法に不慣れなのか、たどたどしく言われたそれが、今、どうしてか、目の前のアシュレイの声で聴こえた。
(あれ、私、どうして、今まで考えなかったんだろう)
なぜ、こんなにも魔法に優れた人を。
高貴な素性で、皇子たちとも面識があって。
なによりも、エリスが出会ってからずっと好意を抱いている相手を。
どうして、この人こそが運命の人だと、一度も疑わなかったんだろう。
急に霧が晴れたような心地になって、彼をただ見つめる。
彼はエリスの心境の変化には気づいていないようで、不思議そうに見つめ返してきた。
(――この人が、私の、好きな人)
それだけは、信じられる。
だから、きっとこの人が、運命の相手なのだ。
やっと見つけた。こんなに近くにいた。運命の人が。
――だけど、エリスは迷ってしまう。
(……あなたは私の運命の人ですか、って直接訊いてもいいのかしら)
引っかかることがあった。どうしてアシュレイの方からは何も言わないのだろうか、と。
アシュレイは、エリスが運命の乙女だとわかっている。だからこそ、さっきも「いつ自覚したの?」と訊いてきた。
それなのに、自分は魔法救皇だと名乗ってこない。
訊ねてしまったら――どうなるのだろう。
この人だけは、失いたくない。
だから、絶対に、間違えたくない。
(隠してるってことは、きっと何か事情があるんだわ)
彼は色々と事情を抱えていそうな人だ。
エリスの方からそれを崩してしまっては、彼を窮地に追いやってしまうかもしれない。
それに、もしも彼がこの先を望むなら――運命の相手としての交流を望むなら、彼の方からきっと打ち明けてくれるはずだ。
(言ってくれるわよね……? 私からは、言わない方が、いいのよね?)
待っていて大丈夫だろうか。
彼がいなくなってしまったらどうしよう。
運命に縛られるなんて――自分を操れる人間なんて、本当は嫌っていたらどうしよう。エリスが彼の立場なら、絶対に逆らえない相手など、普通に怖い。
……エリスがあまりにも大雑把すぎて、彼の方は怯えていたりしないだろうか。
(ああ、もう、今まで自由に、あけっぴろげに言い過ぎたわ!)
ほとんど色恋の意識なく、あなたが好きと言ってしまっていた。
エリスの後先を考えない無思慮な言動は、きっと彼にとっては恐ろしいものだっただろう。なにせ些細なひとことでも、彼は操られてしまうのだ。
エリスが冗談でも「あなたが好きよ。結婚して」と言ってしまえば、彼はそのまま従ってしまうのだから。
(え、私、まだ何も命令とか言ってないわよね……? 大丈夫よね……!?)
もっと慎ましくなろう、とエリスは思った。
ダンスの直後、溢れる想いを自覚してからは、そう簡単に告げるべきではないことは理解していた。
そう、きっと「あなたが好き」なんて言葉は、本当に一番大事な時まで取っておくべきなのだ。
だから、決めた。
彼が魔法救皇だと名乗るまで、もうエリスの方からは好きだとは言わないと。
結婚してとか、助けてとか、デートしたいとか、そんなことを軽々しく言ってはいけないと。
(……ああ、でも、言ってはだめって思うと、苦しくなるわ)
何か約束をしたくなってしまう。
また会いに来て、と言ってしまいたくなる。……それすらも、言葉には強制力が働いてしまうのだろうか。
だから彼を上目遣いで見つめるしかできない。
彼は物言いたげなエリスに戸惑っていたが――何かに思い至ったのか、急に照れたように焦り出した。
「あ、あの、その……僕の勘違いだったらごめん……嫌だったら嫌って言ってね……ちゃんと止まるから。君が望めば、ちゃんと止まる」
「?」
彼はそっと身を屈めて――
エリスの額に、優しいキスを落とした。
前髪越しに触れた唇は、本当にただ触れるだけで――それでも、とても幸せだと思った。
目を丸くして彼を見上げているエリスに、彼が不安そうな顔で訊く。
「……違った?」
「ううん、違わないわ」
本当はちょっと違ったが、嬉しかったので、このキスが欲しくて別れを惜しんでいた、ということにしよう。
「ありがとう、アシュレイ。私からもお返しをしてもいい?」
「え、してくれるの!? もちろんいいよ!」
彼が、触れやすいように屈んでくれる。
(触るのなら、いいわよね。何も言わなければ、強制力は働いてないわよね)
アシュレイも満更ではなさそうだ。エリスに触れられることも心待ちにしている感情が見える。……嫌がっている感情は無い。これなら安心だ。感情が見える能力を持っていて良かった、と今までの人生の中で一番強く思った。
(お返しなら、やっぱり同じように額にキス? でも、額よりも……頬の方が、しやすそうね)
そっと顔を近づけ、彼がどきどきと緊張と期待の感情だけを持っているのを再度確かめ――優しく頬にキスをした。
「!」
彼が驚き、紫の瞳が見開かれる。
「あ……だめだった?」
「だめじゃない……だめじゃないよ……可愛……ああ、可愛い」
アシュレイは両手で顔を覆ってしまった。
全身から、花が咲くように、ぶわっ、ぶわっと喜びが溢れている。
(良かった、大丈夫だわ……アシュレイは、私が運命の乙女だってわかってても、嫌ったりしてないわ)
そんな人ではないとわかっていたけれど……それを改めて確認できて、とても嬉しい。
「ふふ、嬉しいわ。おやすみのキスができて」
「おやすみのキス……そっか、夜眠る前に、こういうキスをするんだよね」
彼がとろりと微笑むので、エリスも弾むように微笑みを返す。
「そうよ。私、ずっと憧れていたの。仲の良い家族だと毎日するんでしょう? だから最近、ロズじいちゃんやマルスじいちゃんたちとも、なるべくしているの。ちょっと照れくさいけどね」
「ん……?」
アシュレイがちょっと、何かに引っかかったような顔をする。
「おやすみのキスって、家族愛、かな?」
「そうよ」
ただしアシュレイには恋心も込めたが、と言おうか迷ったが、先ほど慎みを決意したばかりなのと、アシュレイがぶつぶつと「家族愛……ああ、うん、家族としてのやつ……そうだね、僕も嬉しいよ、家族とこういう触れ合いってしたことがないから……」と呟いているので、やはりアシュレイも家族愛が欲しいんだな、と思って、訂正をしないでおいた。
「うん、家族のように大切に思っているわ」
これくらいなら、きっと言っても大丈夫だろう。
「……僕も、エリスが大切だよ」
彼は、「もう一回だけ、してもいい?」とエリスの額に二度目のキスを落としたあと、小屋の前、老爺たちが扉を開けるまで、エリスをきちんと送ってくれた。
次話から第三章・呪いと黒猫とデート編に入ります。




