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私のいとしい最弱の魔法救皇  作者: 猪谷かなめ
第二章:舞踏会
16/69

16_魔法救皇



 その巨大な魔物は、空気が淀むほど黒い魔力を溢れさせていた。毛の長い熊のような姿で、太い両腕の先には凶悪な爪を持っている。


「――やはり、妨害に来たか」


 第一皇子は、巨大な魔物に気づいても一切の動揺を見せることなく、短く魔法を詠唱した。

 ただちに魔法盾が現れ、エリスと皇子を守るように光り輝く。


「一級国家魔導士、前へ」


 皇子の声で、貴族の集団から幾人かの紳士淑女が現れ、一斉に魔法盾を発動した。他の招待客たちを魔物から守るためだろう。前に進み出た国家魔導士の中には、アシュレイの姿もあった。彼がこの会場にいたのは、こういう時のためだったのだろうか。


「驚いているようだな。……運命の乙女が確定するとなれば、邪魔をする者が出るのは当然だ」


 息を呑んでいるエリスに、隣に立つ第一皇子がそう言った。


「じゃあ私のせいで……邪魔したい誰かが、この魔物を出したんですか?」

「そういうことだろうな。まあ常にその危険はあった。とうとう今回、本番が来ただけだ。気にするな」


 魔物は熊のような剛腕で、手当たり次第に、魔法盾を殴ろうとする。

 皇子や国家魔導士たちが攻撃魔法をぶつけていくが――魔物は意にも介さない。

 魔物が魔法壁を殴りつけるたびに、貴族たちから悲鳴が上がった。あまりにも獰猛で、そしてこちら側が劣勢に見えるのだ。

 国家魔導士たちの攻撃が、少しも効いているようには見えなかった。


「……仕方がないな」


 皇子が、自分の耳飾りに手で触れて、何事か囁いた。

 直後、会場は真っ暗な闇に包まれる。


 誰にも、何も見えなくなった。


(なにこれ……!?)


 エリスも驚愕したが、貴族たちはもっと盛大に恐怖の声を上げていた。感情が見えるエリスには、いっそ煩いほどに彼らの不安が暴風のように感じ取れた。


 そして次に視界が明るくなった時には――黒紫色の魔導士のローブを着た、金髪の仮面の男が、魔物と対峙していた。

 重苦しい闇と、祝福の光を集めたような、すべての物の引力を支配できそうな男だった。


「魔法救皇だ……!」


 誰かが叫ぶ。

 エリスも、その人物を一心に見つめた。


(あれが、魔法救皇なの……?)


 初めて見る本物に、エリスは動揺する。それから慌てて、隣にいるはずの第一皇子を見ようとして――


(あ、いない!)


 会場中を見渡すが、第一皇子の姿はどこにも見えない。

 では第二皇子はどうだろうかと思ったが――先ほどまで柵の近くから騒ぎを見下ろしていたらしい第二皇子が消えたようで、女性たちが「どこにもいないわ!」と騒いでいた。


(噂通りなのね……)


 ――魔法救皇が災害時や魔物討伐に現れる際、仮面で隠しきれない髪は、両皇子共通の金髪、一人称は俺、黒紫色のローブを着て、長い豪奢な魔杖を持ち、どこからでも瞬間移動で現れて、魔法救皇が目撃されている時間帯は、どちらの皇子も絶対にどこにも見当たらないという。

 皇族全体で、どちらの皇子なのか特定されないよう徹底的に隠しているという噂だ。


(……あれが、本当に、どちらかの皇子なの?)


 魔導士ではないエリスにもわかる。――この人がいれば、もう大丈夫だ、と感じさせる壮大な魔力。どれほどの年月を懸けても、もう誰にも手に入れられない、人智を超えた原始の祝福。

 唯一無二の、世界の王。


 思わず見惚れていると、彼がエリスの方を向き、ばち、と目が合った。


「!」


 まるで時が止まったように、見つめてしまう。

 強い引力を感じて、目が離せない。


 だが彼はすぐに目を逸らし――魔物の凶暴な攻撃を受け――腕に痛ましいほどの裂傷を受けた。


「え……!?」


 あっさりと彼が負けそうになっている。


(どうして攻撃を受けているの!?)


 周囲からも混乱の悲鳴が上がる。

 魔法救皇は万能のはずだ。人間が対応できないような甚大な災害や、古代の魔神にすら対抗できる才能がある――普通の魔物であれば、一瞬で倒せるはずなのだ。


 同じことを周囲の貴族たちも考えているのだろう。動揺が広がっていく。


「あの女のせいじゃないか!? 魔法救皇は万能のはずだ! 運命の乙女が邪魔してるんだろう!」

「そうだ、運命の乙女のせいで魔法が弱まっているんだ!」


 辛辣に自分に向けられる怒号に、エリスは驚いた。


(え、私が何か邪魔をしているの!?)


 何も願っていないのに、エリスのせいで魔法救皇が本領を発揮できていないのだろうか。


 途端に、魔法救皇から怒りの感情が見えた。だがそれはエリスに対してではない。周囲の心無い言葉への怒りだとわかった。――この人は、エリスを案じてくれている。


 だからエリスは叫んだ。まだ事態の原因はわからなくとも、エリスも彼のためにできることをやらねばならない。


「ちゃんと自分を守って! 負けないで!」


 はっとしたように彼がエリスを見て、そして、確かに頷いた。


 魔物の攻撃は続くが、今度は魔法救皇はすぐに避けた。その動きに危なっかしさは無い。だが、反撃する様子もなかった。そしておそらく彼は、別の何かを気にしている。周囲の貴族を探るような雰囲気だ。


(なんだか妙だわ……)


 エリスは彼の視線の先を見て――それから、もう一度、巨大な魔物をじっと見た。

 この魔物を、誰が、どうやって連れ込んだのか。

 そして――この魔物にはずっと違和感がある。


(そうだわ……感情が見えないからだわ)


 魔物に今まで会ったことはないが、生き物であるなら感情があるはずだ。

 第一皇子の感情も先ほどエリスには見えなくなっていたが、この魔物には、魔法で感情を隠している気配すらない。まったく感情が存在しないということは――これは、本物の生き物ではない。


 誰かが幻惑の魔法で見せている、幻か、あるいは人形だ。

 魔法救皇も、きっとそれに気づいて、わざと攻撃を受けてみたのだろう。


(だったら、私ができることは――)


 大勢の貴族たちを、順番に、しかしなるべく早く、見渡した。


 恐怖と興奮が大量に入り混じっている。

 その中から――憎悪を抱く者を探す。


 運命の乙女候補であるエリス、そして魔法救皇の失敗を望む者。

 その中で、一切、自分の身の安全を心配していない者。

 そして何かの魔法を操作することに必死になっている者――


(あの人だ)


 緑の服の、中年の男性一人が該当した。


 あの人がきっと何か悪いことをしているはずだ。それを知らせるために、エリスは魔法救皇に駆け寄った。


 なぜそばに、と彼から驚きが見えた。そしてすぐにエリスを守るような姿勢になる。

 エリスは敵に意図がバレないよう、彼の耳元に口を寄せて囁いた。


「あの緑の服を着た男性が――あの人が、幻惑の魔法か何かを使っているかもしれません。もしあなたもそう思うなら、あの人を眠らせてください」


 彼は頷き――すぐさまエリスの教えた人物に手をかざす。

 周囲から悲鳴が上がった。攻撃魔法だと勘違いして「乱心だ」と叫ぶ者もいる。

 だが彼は躊躇なくその者に魔法を放ち――その人物は、眠るように床に倒れる。


 途端、巨大な魔物は消え去った。


 ほっとエリスは安堵の息を吐く。

 状況に遅れて気づいた貴族たちも「やったぞ!」と歓声を上げた。


(よかった、解決した……)


 必死に大量の『感情』を見て犯人を探したので、慣れない魔法の使いすぎで、頭痛がひどくて、くらくらする。


「……」


 魔法救皇がそっとエリスの額に手をかざしてくれた。ふわりと温かい光が放たれ、すぐに頭痛が消えて楽になった。なにか回復魔法をかけてくれたのだろうか。


「ありがとう」

「……」

「あなたの腕の怪我は――大丈夫みたいね」


 先ほど攻撃を受けていたように見えたが、やはり幻惑であって、実際の攻撃ではなかったようだ。

 こくり、と魔法救皇が頷く。


 その動作に、エリスは首を傾げた。


「どうして喋らないの? 声で正体がバレるから?」

「…………」

「でも魔法が万能だっていう魔法救皇なら、声を変えるとか、認識を誤魔化すとか、色々とできると思うんだけど……」


 国家魔導士のアシュレイが顔を他人に認識しづらくできていたのだから、万能の魔法救皇なら余裕でできるだろう。

 というか、普段仮面をつけて活動している時は普通に喋っているはずだ。一人称が両皇子と同じ「俺」であるということまで国民にバレているのだから。


 魔法救皇は、「あ、そうだった」とばかりに、慌てながら自分の喉に魔法をかけていた。


(結構うっかりした人なのかしら)


「……俺は」


 聞き慣れない声が魔法救皇から発せられた。声質を確かめるように慎重に彼は言葉を紡ぐ。


「俺は、魔法救皇」

「そうみたいね」

「あなたは……運命の乙女」


 なんだか片言が続いた。不慣れなのか、あるいは不器用な人なのだろうか、と思った。

 エリスは「……本当に、私が運命の乙女なのかしら?」と首を傾げて答えておく。自分でもよくわからないのだ。


 魔法救皇は、そっと背を屈めて、エリスにだけ聞こえるように囁いた。


「あなたは、間違いなく、俺の運命の人、です」


 その言葉を聞いた時、エリスの心臓は、ちいさく高鳴った。

 ――これが、きっと、将来好きになる人だと思った。


(この感覚は何……?)


 ちいさく芽吹いたような感覚に、自分でも驚いてしまう。

 先ほど、アシュレイにあれほど溢れる気持ちを抱いたのに――この人のことも、どうしてか放っておけないと思ってしまうのだ。


 思わず彼を見上げ続けることしかできないエリスを、魔法救皇は、優しい感情を纏って、静かに見つめていた。


 うまく飲み込めないけれど、とうとうエリスも認めなければならないと思った。きっと、自分が、運命の乙女なのだと。



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