84話 千夏
爽やかな風が吹き抜ける。彼女の髪が揺れて、栗色の髪に隠れている翠玉色の瞳が僅かに見えた。綺麗な瞳だ。
「千花ちゃん……久しぶりで良いのかな?」
「多分良いと思います」
彼女の落ち着いた声が夜に響いて行く。この子、こんな時間にベランダに出て何をしてたんだろうか。
「こんな時間に何をしてたの?」
「そうですね……強いて言うならただ、風に当たりたくなった……だけですかね……。さっきまで勉強してたので息抜きも兼ねて」
「大変なんだね……」
確か両親は勉学にかなり力を入れているから、こんな時間まで勉強漬けか。それで日を跨ぐぐらいの時間にベランダに居たと言うわけか。
「いえ、僕は自分じゃ何も決めてないので」
そう言った彼女の顔は諦めも風化したように達観していた。子供のような表情ではない、初めてあった時の千春に少しだけ似ているなと感じた。主人公ってゲームであんまり描写なかったけどこういう雰囲気あったか……?
もしかして、普通に年相応に何か悩みがあるのかもしれないな。
「僕は、本当に大したことは無くて、ただ、流されてるだけだから……大変ではないです」
彼女の悩みの全貌は見えないが、何となく彼女の思ってることは分かった。俺にもそう言った悩みがあって、今自身をそんな風に思っているからだ。自分は大したことはない、ただ流されているだけ。
俺は何も成長はしておらず、何も変わっていない。本当にただの凡人で弱者。自身で自身をそのように評価していることを千夏達に勘付かれて、考えを改めるように言われてはいるが根本的な考えは変わらない。だからだろうか、全貌が見えないのに何となくで語ってしまいたくなったのは……。
「そっか。じゃあ、俺と同じかもな」
「同じ、ですか?」
「俺も大したことないって多々思う事もあってさ」
「……四人も子供引き取るって凄い事だと思いますけど」
「……ただ、何となくで流れに任せただけなんだ。それに目標を決めてもその道筋をぶれてしまったり、遠回りをしたり、昔から流されて生きて来たよ。何も成し遂げた事もなかった気もするしさ……」
……ヤバい語り過ぎたかもしれんな。ただのしゃしゃり出たおじさんとか思われてそうだから、この辺で切り上げておこう。千夏と話も控えているわけだし。
「ああー、まぁ、えっと、こんな年になってもそう言うこと考えてる大人も居るって事なんだって言いたくてさ……うん、そんな感じで……」
「……僕より長い時間悩んでたんですね」
「う、うーん、悩んでたって程じゃないかもだけどさ。千花ちゃんより十年ちょっとしか生きてないけど、共感できる部分もあるからさ」
「…‥共感」
「そう、共感。だから、何か思ったらまた聞くよ。あんまり良い事言えるか分からないけどさ。ちょっとだけでも何かを変えられるかもしれないし」
「……はい。お願いします」
「じゃあ、おやすみ。あんまり無理は禁物にね」
「――え!!??」
俺は軽く手を振りそう言ってベランダから家に戻った。ヤバい、ただの語り野郎って思われてないか心配だ。いきなり突っ込み過ぎて変な奴だなって思われたらいやだな。
それにしても、最後に凄い驚いた顔してたけど、どうかしたのか? 話が詰まらな過ぎて引いてしまったりしてなよな?
俺は少し、センチになった
◆◆
風がちょっとだけ気持ちいい。ちょっと前まで、眠気が襲って来ていたけど冴えてしまっている。もしかしたら、今日は眠れないのではないかと思う程に。
多田野魁人……。名前は一見して平凡である。初めてあった時は特に何かを感じるわけでも無かった。ただ選択肢に流されて道を聞いた。
そして、引っ越し先があの人の隣だと言う事に対しても特に何かを思う事もなかった。ただ、四人も子供を引き取って育てると言う事に対しては少しだけ気になった。だから、転校したクラスで四つ子ちゃんと話をしてみたけど、魁人と言う人を心底信頼していると言う人物と聞いてまた少し興味が湧いた。
そして、偶々、勉強に疲れてベランダで風に当たっていると、どういう偶然か、隣にその彼が居たからちょっとだけまた話しかてしまった。何を話すとか、何も決めてはいなかったけど……
話しかけた瞬間、また、選択肢が見えた。
――選んで
――四つ子について聞く(四つ子について知れる)or自身の身の上話を僅かにする(結果的に四つ子ちゃんについて聞かせてもらえる)
また、これだ。僕が気になったから世界はそれを暴いてくれる。聞かせてくれる。知らせてくれる。どちらを選んだとしても僕に不利益はない。全てはレールの上で決められている。僕の意思が介入することはない……。
冷めていく心のまま、後者を取りあえず選んだ。特に理由はなく、なんとなく。きっと、つまらない結果なのだろうと未来に期待もせずに。
もしかしたら、後者を選んだ理由は誰でも良いから訴えたかったのかもしれない。日々の鬱憤の憂さ晴らしをしたかっただけかもしれない。話が進んで、彼が僕と共感することがあると言った。
そして、そのまま話が終わった。彼は何かあれば話を聞くと言い残して……
――僕は驚愕をした。
だって、こんなことは今まで一度たりとも無かったのだから。今まで関わってきた人達、老若男女問わず選択肢から外れた行為はしなかった。予想に反した結果は持ってこなかった。だから、驚きを隠せない。両親ですら選択肢を超えることはなかったから。
まるで、《《彼だけはこの世界の理から外れているみたい》》。もしかして宇宙人なのでは? いや、流石にそれは無いと思うけど……。
理解が追いつかないと言う事はこういう事なのだろう。僕は今、自信で何を感じて、何を見据えればいいのかが分からない。心に心臓に何かを感じたけれども、それを理解する事もない。ただ、困惑している。自身の予想しえない未来が目の前に起こった事に。
……また、話してくれるって言ってた。話して貰おう。聞いてもらおう。
無表情で不愛想な僕の顔。その一部の頬が僅かに吊り上がった
◆◆
私は緊張をしている。心臓の脈打つ音がいつもよりも速い。その理由はずっと言えなかったことを今から言うから、そして、大きくなった時の為にバスタオル一枚で裸だからと言う事も恥ずかしいと言う理由もあるわね。
もし、昔みたいに否定されて、拒絶されて、以前のような生活に戻ったらと思うと恐怖が湧く。でも、私は信じると決めた。
ドアノブを捻って、魁人の寝室に入る。満月による月明かりだけでその部屋は満たされていた。魁人は覚悟を決めたような強い瞳をしていた。
「あ、あの、この格好で来た理由は後で言うから……今は触れないで」
「分かった」
「うん、ありがと……約束を果たすから。見てて……」
震えながら私は月明かりに向かった。眩い美しい光に自ら当たるなんて今までしたことがない。色々な事が走馬灯のように頭の中を過る。包丁で刺されそうになった時の恐怖は未だに忘れてはいない。夢に見ることもある。それはきっと、まだ私が過去に囚われているから。
前に進めずに自身ではどうしようもない恐怖で支配されているから。もう、そんな夢は見たくない。幸せな夢だけを見ていたい。
――だから、私を受け入れて
明かりに照らされて、急激に肉体が成長する。目線が高くなり、見える景色も違う。魁人はいつものように私の眼を見てくれた。私は何も言わずにベッドに座っている魁人の隣に腰を下ろす。タオルで身を少しでも隠しながら震える唇を感じて、声を発する。
「魁人……これ、が、私の、わ、たしの、もう一つの、すがた、なの……」
迎えるのは承認か、拒絶か……。なんだか、何も話せていないのに涙がポロポロと溢れてくる。悲しくて悲しくて仕方がない。
「何も怖がる必要はない。その姿を見たとしても今までと俺は何も変わらない。だから、安心してくれ」
「ッ、ホント……遠ざけたりもしない?」
「ああ、勿論」
「気持ち悪くもないッ……?」
「寧ろ、綺麗だとも思う」
「本当にそう思ってるのッ?」
「本当だ」
「――じゃあ、抱きしめて……?」
「……」
私は両手を魁人に向けた。ハグを求めるように手を伸ばした。彼は少しも戸惑いを見せずに私をゆっくり抱きしめてくれた。
「あたま、撫でて欲しい……」
「分かったよ」
「もうちょっとだけ、強く抱いて欲しい……」
「痛かったら言ってくれ」
「名前呼んで……」
「千夏……」
この姿の私は姉妹で一番大きい。それが気持ち悪くて怖くて、不快だったけど。この人の前では自身を凄く小さく感じることが出来る。暖かい腕に包まれるとまどろみの中に居るように意識がぼぉっとする。
「今日は、このまま、寝てもいい……?」
「勿論だ。疲れてるだろ? ゆっくり休んでくれ」
「ありがと……魁人……」
どんどん虚ろに視界がぼやけていく。深い眠りに落ちていきながら私は最後に一番伝えたいことを口にした。
「――大好き」
―――――――――――――――――――――――――――――




