番外編1 僕の嘘25(コンラート視点)
よろしくお願いします。
目を覚ました母上は、ただ宙を見つめるだけで何の反応も示さなくなった。これまでも僕を無視することが多かったが、それとは様子が違う。
僕は母上が思い知ればいいとは思ったが、こうなって欲しかったわけじゃない。
──ただ僕を見て欲しかっただけなのに。
大人になってもまだ母上を気にする自分の弱さが許せなくて取り繕っていたが、それが紛れもない僕の本心だった。
僕の中には母上を求める子どもの僕がいた。だが、僕はいつしかそれから目を逸らすようになった。強くならなければ守れないものが増えたからだ。
そんな弱い自分を切り捨てて強くなれた気がしていた。だけどそれは違う。弱い自分を切り捨てようとしたことで、僕は自分の気持ちも大切な人の気持ちも無視してしまったのだ。
弱さを受け入れること、それが僕には必要なことだったと気づくには遅すぎた。何も映さなくなってしまった母上を見て、僕はそれを痛感した。
そんな僕にユーリは言う。
「……思いが深い分だけ、許せなくなるものかもしれないわね。ずっとお義母様に気づいて欲しかったのよね? それだけお義母様が好きだったっていうこと。その気持ちがまだ残っていたのではないの?」
その通りだ。愛と憎しみは表裏一体。愛した分だけ許せなかった。そして、愛した分だけ拒絶されることが怖くなった。
「認めたくはないけど、そうなのかもしれない……」
今更ユーリに取り繕っても仕方がない。散々僕は情けないところを見せてきた。それでもこうしてユーリは受け入れてくれるという安心感が今はある。むしろ、取り繕おうとするとユーリを蔑ろにしてしまうことに気づいた。
ユーリは僕を馬鹿にするでもなく、話を続ける。
「……実はね、お義母様、あなたとの向き合い方がわからなくて悩んでいたの。それで、私と一緒に考えるって話していたのよ」
「……わからないなら僕に聞けばよかったんだ」
「これまでのあなたがお義母様がやり直したいって言って、本当に聞いてくれた? お義母様にはわかっていたのよ」
確かに長年かけて歪んだ関係がそう簡単に修復するとは思えない。きっと以前の僕なら今更何の用だと切って捨てていただろう。
どうして僕を見ようともしなかった母上にそれがわかったのか。母上は僕を見ていなかったわけじゃなく、見ていない振りをしていただけなのかもしれない。そのことに気づいたら余計にやりきれなくなった。
悩み苦しんでいた母上に、僕が追い打ちをかけたのだ。
「……どうしてこんなことに……」
その問いの答えは僕が知っている。それでも敢えて口にしたのは僕自身が罰せられたかったからかもしれない。ユーリは何も言わずにそんな僕に寄り添ってくれていた──。
◇
そして、父上が領地からやってきた。急いで来てくれたのはいいが、来て早々に僕に怒鳴る。
そもそもは父上が発端だというのに。どこまで傲慢なのか。僕は憤りを隠さずに、クライスラー男爵夫人とニーナのことを話した。もう父上が何をしようとも手遅れだ。ニーナはクライスラー男爵家の娘としてテイラー男爵家に嫁いだのだから。
出鱈目を言うなと罵倒するかと思いきや、父上はただ静かにそうか、と頷いた。
何かがおかしい。母上も父上も僕が思ったような反応を返さないのだ。僕は何か思い違いをしているのだろうか──?
だけど、僕にはそんな違和感に目を瞑りたくなるくらいの鬱積した怒りがあった。僕は更に父上を責め立てる。
「……それで父上はどうするおつもりですか? 子爵夫人として義務を果たせない母上を離縁しますか?」
「なっ……! そんなことをするはずがないだろう! お前は一体私を何だと思っているんだ!」
「子爵家当主でしょう? 責任のためには使えないものは切り捨てる。私も母上も、クライスラー男爵夫人、ニーナだってあなたの手駒に過ぎない。利用するだけして簡単に捨てるのが、あなたという人だと思っていますよ」
僕に次期子爵家当主に相応しくあれと、僕が懐いていた乳母を辞めさせた。結局彼女も父上にとっては取るに足らない者だったということだ。
僕の心を踏みにじり、男爵夫人も切り捨てて、母上も捨て置いた。僕にはそういう風にしか見えない。
「どうしてクライスラー男爵夫妻が私にニーナのことを打ち明けたと思いますか? あなたに大切な娘を奪われたくなかったことと、奪われて都合のいい政略の道具にされることが忍びなかったからですよ。生まれた時点で勝手に責任を負わされ、縁談も制限つき。それでも男爵家の娘として生きることを、ニーナ本人が選んだ。それもこれもあなたの無責任な行動のせいでしょう!?」
「……そうだな。実際に目の当たりにしたら認めるしかないだろう。それで私にどうしろと言うんだ?」
──この人は……!
反省するどころか開き直るような態度が癪に触って、僕は思わず父上に掴みかかっていた。
「何を開き直っているんですか! それはご自分で考えることでしょう! あなたは母上をどうするおつもりですか!」
父上は僕の手を振り払って眉を顰めた。
「……お前が言ったんだろう。私がお前たちを手駒と考えて簡単に切り捨てると。お前は私をそんな人間だと思っていたんだろうが、私にも人の心はある。こうなった妻を見て心が痛まないと思うのか? ……とにかく、彼女は子爵領へ連れて帰る。ここに置いておいても、良くはならないだろう」
「それで父上は使用人に母上の世話をさせて、ご自分はまた仕事にかこつけて女遊びですか。ご立派なことですね」
今度は物も言わない母上を子爵領に軟禁でもするつもりか。捨て置くことと違いはあるのだろうか。何もわかっていない父上に腹が立つ。
父上は急に母上を抱き上げると、そのまま外へ向かう。僕が引き止めるのも構わずに進んでいこうとするのを、ユーリが止めると父上は振り向いた。
「連れて帰ると言っただろう? 彼女は静かな場所で過ごさせる方がいいと思う。ここだと他の貴族の目がある。領地なら他の貴族の目を気にしなくてもいいから、彼女が回復して社交界に復帰したいと思った時に復帰しやすくなるだろう」
「どうして先にそれを言わないのですか。あなたはいつもそうだ。何の説明もなく、勝手なことばかり。だから私はあなたが信用できないんです」
「……そんな理由がなくても、元々お前は私のことを信用していなかっただろう。彼女もそうだ。だから私たちの間には仕事の会話しか存在しなくなっていた。それでいいと私は思っていたよ」
あなたが理由をつけては僕から大切なものを奪っていくからだ。だから僕はいつしか父上を敵としか思えなくなっていた。
僕は父上を睨みつける。
「そうやってまた開き直るのですね。もういいです。私が母上の面倒を見ます。あなたなんかには任せられない」
「お前も同じだろう。見ない振りして最後に追い詰めたのは誰だ? 今更母親思いの息子面をするな」
別に母親思いを気取っているわけじゃない。僕には母上を追い詰めた責任がある。父上と違って責任を果たしたいと思っているだけだ。
そして僕と父上は母上を奪い合う。そんな僕らを止めてくれたのはユーリだった。
「いい加減にしてください!」
彼女の一喝で僕と父上は止まる。ユーリは溜息を吐いて続けた。
「……とりあえず、これからどうするか、皆で話し合いましょう。勝手に誰かが決めるのではなく。それに、責任のなすりつけ合いにはうんざりです。ここにいる全員に責任があると思ってください。
それと、お義父様。お義母様をベッドに戻してください。話し合っている間は私の侍女に様子を見てもらいますから……例え聞こえてないとしても、これ以上、お義母様を傷つけたくはありません……」
ユーリの言葉に眼が覚める思いだった。僕らは責任を取ると言いながら責任の押し付け合いをしていた。お前が言っただの、あなたがやっただの、醜いにも程がある。
それに、僕らはまた母上を無視して自分たちがやりたいようにやろうとしていた。本当に学ばない。
ユーリはきっと、そんな僕らの醜い争いを、弱っている母上に聞かせたくないと思ったのだろう。
もちろん、母上にも目を逸らしてきた責任がある。ユーリが言う、ここにいる全員に責任があるという言葉には、母上も含まれているのだ。
僕らは場所を変えて、これからのことを話し合うことにしたのだった。
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