義母にとっての幸せな時
よろしくお願いします。
医者は気絶しているだけだから問題ないと言ったけど、念のために別室で待機してもらっている。
しばらくして義母はゆっくりと目を覚ました。いち早く気がついた義父がベッドに近づき、声をかける。
「……アイリーン、大丈夫か?」
目覚めた義母はしばらくぼんやりとしていたから、やっぱりまだ回復していないのかと思っていたら、義母が言葉を発した。
「……夢、では、ないの……?」
しばらく話していなかった義母の声は掠れ気味で聞こえにくかった。だけど義父には聞こえていたようで眉を顰めて問い返す。
「どういう意味だ……?」
「……」
義母は答えずに義父に背中を向けた。その背が小刻みに震えていて、義母が声を押し殺して泣いているようで、私はウィルフリードを抱いたまま、義母の前に移動した。
「……お義母様」
「……ごめん、なさい。悪いけど、一人にしてくれるかしら……」
嗚咽を堪えながら義母は必死に言葉を紡ぐ。だけど、こんな義母を一人にしたくなくて私は首を振った。
「……それは聞けません。みんなお義母様を心配していたんですよ。お義父様もコンラートだって……」
「……そんなものは必要ないわ。わたくしなんて、どうなっても……」
そんな義母の言葉に反応したのはコンラートだった。
「母上、いい加減にしてください」
コンラートの声音は静かだったけど、怒っているようだった。また問い詰めて義母が心を閉ざすのではと、私はコンラートを止める。
「コンラート、あまりきついことを言っては……」
「……わかってるよ。だけど、このままでは今までと何も変わらない。僕に任せてくれないか?」
コンラートは何か考えがあるようだ。真剣な表情で私に告げる。逡巡して私は頷いた。
コンラートは深呼吸をすると、義母の背中に話しかける。
「……母上。ニーナの話をした後に倒れたのを覚えていますか?」
「ええ……」
「その後のことは?」
間があって小さな声で義母はいいえ、と否定した。
コンラートは溜息を吐いた。
「……父上も僕も、母上が現実から逃げたくなるまで追い詰めたことを反省しています。母上が回復すれば話し合いたいと思っていました。もう逃げるのはやめませんか?」
「……話し合って何になると言うの。もう全て壊れてしまったのに……」
「違うでしょう? 壊れるも何も、始まってすらいなかった。そもそも僕らが家族だったことがありますか?」
コンラートの言葉は辛辣だった。胸を抉られているようで、私も聞いていて辛い。義父も沈鬱な表情で俯いてしまった。静かな室内に、義母の啜り泣く声が響く。
「……だから、新しい形で始めませんか?」
コンラートは静かに義母に問いかける。だけど、義母は答えない。それでもコンラートは続けた。
「僕はあなた方に見向きもされなくて、誰も信用できなかった。だからユーリもニーナも、自分の手で守らないといけないと意固地になっていました。その結果、ユーリも母上も傷つけてしまって、申し訳ありませんでした……
それに、僕にも子どもが生まれたんです。だけど、僕には愛された記憶がないから、ウィルフリードの愛し方がわかりません。だから、教えてくれませんか? 母上が先程言った言葉が間違いではないのなら……」
先程言った言葉とは、義母が気を失う前に言っていたことだろうか。一体義母は何を言ったのだろう、とコンラートに問いかけようとしたら、義母が呟いた。
「夢……だと、思ったのよ……」
そこで義母が咳き込み、義父が近寄って背中を撫でる。
「大丈夫か? 水を持ってきてもらうから、少し待っててくれ」
廊下で待たせていたメイドに指示を出して、義父はすぐに戻ってきた。それから義母に、起きた方が楽だからと、上半身を起こしてベッドヘッドにもたれさせる。
義母は顔を見られないのか、俯いていた。しばらくしてメイドが水を持ってきてくれ、義父が支えながら義母に飲ませる。
「それで、何が夢だと思ったのか、教えてくれますか?」
コンラートは静かに義母に問いかける。義母は少し顔を上げてコンラートを見る。その顔には涙の跡が残っていた。
「……あなたが生まれた頃の夢。ユーリが抱いている子があなたに似ていたから……」
「覚えていたのですか?」
コンラートが驚きの声を上げる。義母は顔を歪めた。
「……忘れたとわたくしも思っていたわ」
「だけど、どうして混乱したのですか?」
「……似ているけど、やっぱり違う。それならあの子は、と思ったら成長したあなたがいたから、何が現実なのか、わからなくなった……」
それが義母が覚醒したきっかけになったのかと私は納得した。
きっと義母はあの瞬間、幸せな夢を見たのだろう。コンラートが生まれた時の幸せな夢を。だけど、その子は別人で絶望に突き落とされたような気がしたに違いない。
そんな時に成長したコンラートを見たから、嬉しかったけど、自分の置かれた現実を認識して混乱したのかもしれない。
私の口からするりと言葉が出てきた。
「お義母様はコンラートを愛しているのですね」
「ユーリ?」
コンラートが怪訝に私を呼ぶ。義母は私の言葉を否定しない。私の予想はきっと当たっている。
「お義母様は、すごく嬉しそうにあなたを呼んだのよ。幸せな夢だったからでしょう? お義母様、そうではありませんか?」
「……ええ、そうよ。わたくしはずっと後悔していた。どこで間違えたのかわからなくて、やり直したくてもどう修正すればいいのかもわからない。だから、一番幸せだった時に戻りたかった」
義母はシーツの上で拳を握り締めた。ポツポツとその拳の上に涙が落ちる。
コンラートはそんな義母に問いかける。
「……僕が生まれた時が一番幸せだったんですか……?」
「ええ……実家にいても誰にも顧みられることもなくて、ようやく家族ができたと初めは嬉しかった……」
義母は義父を視界に入れないように顔を背けて続ける。
「……だけど、ほとんど顔も合わせない夫にあなたが段々似てくるのが辛くなってきた……
夫の愛人から嫌味を言われ続けて耐えること、欲しくもないのに子爵夫人としての体裁を整えるためだけに形だけの夫に金銭や物を強請らなければいけないこと、何より夫に顧みられないこと……
わたくしは自分が酷く劣った人間に思えて、自分が嫌いだった。そして、わたくしを惨めな気持ちにさせるあの人も嫌いになった」
「アイリーン……」
義父は義母の話に驚きの表情がみるみるうちに辛そうな表情に変わる。
「……あなたに八つ当たりをしそうで怖かった。自分が受けた仕打ちを人にはしたくなかった……なんていうのは言い訳に過ぎないわね。結局わたくしは逃げたのだから。あなたがわたくしを憎むのは当然よ」
義母は涙を流しながらも自嘲するように笑う。その笑みは引きつっていて痛々しい。
コンラートは眉を寄せて口を開いた。
「……僕は正直、あなたを憎んでいるかはわかりません。そこまでの関わりがありませんでしたから。ですが、こうして心配するくらいにはあなたのことを思っています……僕はずっと、あなたに振り向いて欲しかっただけなのかもしれません。あなたの先程の言葉を聞いて動揺しましたから。本当の気持ちを教えてくれませんか?」
「あ……ああ……」
義母は口を抑える。私は義母が素直にコンラートに気持ちを伝えてくれるように願った。そして、義母は涙を流しながらようやく口にした。
「……愛しているに決まっているでしょう……」
「……先程は聞き間違いか、嘘なのかと思いました。だけど、混乱していたあなたが嘘を吐く必要はないでしょう。僕はその言葉を信じます。
それじゃあ、今度こそ父上とも向き合ってください。母上の悪いようにはならないはずですから……」
そうしてコンラートは表情の暗い義父に目配せした。気づいた義父が表情を引き締めて義母に話しかける。
「すまなかった、アイリーン……」
「ユーリ、僕たちは行こう」
どこか晴れ晴れとしたコンラートが小さな声で私に言う。
「ええ、そうね」
私は笑顔で返した。
遠回りはしたけど、みんながわかりあえるきっかけができた。ウィルフリードにそれがわかるのかはわからないけど、私の腕の中でもぞもぞと身動ぎしている。
この子が義母の心を揺さぶって思い出させてくれたのだ。私は小さくありがとうと話しかける。
コンラートと私たちは義母の部屋を後にした。
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