52 旅立ち
『手札が多めのビクトリア2』を連載中です。https://book1.adouzi.eu.org/n2535hp/
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翌日、マイクさんが書類の回収に来た。ジェフリーは仕事で留守だ。
マイクさんは私同様特徴のない外見で、人の中に混じっていたら見落とされ、すぐ忘れられそうな顔立ちと体型だった。しかし動きに全く隙がない。
「昨日はアッシャー卿がいたので踏み込んだ話ができませんでした。あなたがハグルの元エースなんですね」
マイクさんはチラリと興味深そうに私を見て、すぐに
「あなたにいくつか質問があります」
と切り出した。私が特務隊を脱走した理由と方法だった。
私と家族の安全のために動いてくれている人たち。その配慮に感謝で応えるべき、と思い私は正直に答えた。
「なるほどなるほど」と聞いていたマイクさん。
「アンナさん、あなたは死刑囚の脱獄に手を貸しましたか?私の上司はあなたが手伝ったのだろうと言うんですよ。もちろんお返事の内容は私と上司だけで留めます。他には漏れません」
「……はい。あの人を脱獄させたのは私です」
私は覚悟を決めて返事をした。
マイクさんは「ほう」という顔をして「やっぱりあの人はすごいな」とつぶやいた。そしてその理由と手段を根掘り葉掘り尋ねた。私はあらかた正直に話したけれど、逃がした兄妹のことだけは言わなかった。
「城の外で男に生活費を渡して別れましたので、その先のことは私にもわかりません」
「そうですか。靴の踵に糸鋸ねぇ。そうか、糸鋸か」
つぶやいてからまた質問をする。
「王城の夜会で男を倒したのもあなたですか」と尋ねられ、「はい」と答えるとその理由も聞かれた。それも正直に答えた。
「殺人を防ぎたいだなんて。そんなことを考える工作員がいるんですね。いや、失礼」
半分独り言になっていたマイクさんがハッと我に返って顔を私に向けた。
「質問は以上です。ご協力ありがとうございました。薬のことに興味があるようでしたら、シェン国でアッシャー卿と一緒に学ぶことも可能です」
「ぜひ!ぜひ学びたいです」
「うん、あなたはきっとそう言うと思ってました。シェン国での成果を期待しています」
「あの、それはもしや私に情報を盗め、ということではありませんよね?それでしたら私はもう……」
マイクさんはカラカラと笑った。
「違います。普通に学び、シェンの人々と交流して、吸収できるものは全て吸収してくださいという意味です。ああ、そうだ、大切なことを言い忘れていました。五年後に戻った時には以前のお知り合いとも会えますよ。さすがにそこまで追いかけるほどハグルの組織も暇じゃないでしょう。アッシャー卿は帰国したら子爵になりますから、ハグル側も我が国の貴族の妻を殺すような愚は犯しませんよ。割りに合わない」
どうしてそこまでして一介の工作員だった私を助けてくれるのだろう。それを尋ねてもマイクさんは
「それをお話ししたら私は職を失いますので。とある方の意向、と思ってください」
と言って教えてくれなかった。
ジェフリーとの結婚の手続きが完了した。私は新しい経歴、新しい身分証、新しい姓を手に入れた。船長に渡す宰相からの手紙とあちらでお世話になる家の長に渡す手紙も受け取った。
「マイクさん、私は一度お城の夜会に出てランダルの人間と言ってしまいましたが」
ずっとそれが気になっていた。
「こう言っては失礼ですがあなたは印象に残りにくい方ですから。一度しか会っていない人なら『人違いでは?』と言い張れば大丈夫ですよ。それに、アンナさんがビクトリアであることを知っているのは私と上司だけです。陛下も宰相も王太子殿下も夜会で遠くからチラリとあなたを見ただけですしね」
マイクさんの上司は国の人間なのに陛下や宰相様に私の正体を秘密にしてくれるらしい。なぜだろう。
『セドリック様は私のことを知っています』と言いそうになったけど、骨折の原因が私だと自分から知らせるのは思いとどまった。
「ジェフリー氏はああ見えて書類仕事もできる人ですからね。戻られた時が楽しみです。ではいってらっしゃい。頑張って」
「ありがとうございます」
「アンナさん」
「はい?」
「おめでとうございます」
それが「組織から抜けられたこと」なのか「結婚したこと」なのかはわからなかったが、私は微笑んで頭を下げた。
乗船の前日、ジェフリーは一年に満たない保安管理官の仕事を辞めてから帰宅した。セドリック様は最後まで残念がっていらっしゃったらしい。
出港の時間が来た。
船はゆっくりと向きを変えながら沖を目指して動き出した。
「お母さーん!見ててー!」
「ん?」
きらめく金髪をなびかせながらノンナが甲板を走ってくる。そして途中で飛び上がり、空中でクルリと回ってきれいに着地した。
「ふふふ。上手上手!」
拍手していると、ノンナの後ろからジェフリーが歩いて来る。
アシュベリーの王都に到着した日に出会った少女は今や私の娘で、身元保証人になってくれた騎士団長さんは私の夫になった。
夫になったジェフリーは心配性で私を常に隣に置いておきたがる。私はいつも守られ、甘やかされている。
「お母さん!」
ノンナがギュッとしがみついてきた。
「楽しそうね、ノンナ」
「シェンに行くのも船に乗るのも楽しい!」
甲板に出てきたシェン国の船員さんが話しかけてきた。上手なアシュベリー語だ。
「奥さん、食事のメニューに注文はありますか?」
「私も夫も娘もなんでも食べますよ。みなさんと同じものでお願いします」
「シェンの料理は美味しいですよ。楽しみにしていてください」
「はい!」
船は陸地に沿って航行し、食料と水を補給しながらシェン国を目指すそうだ。船旅は二ヶ月以上になるらしい。
もし本などが船に積んであるのならシェンの言葉を少しは読み書きできるようになりたい。新しく外国の言葉を覚えるのはいつだってワクワクする。
「アンナ、潮風は冷えるぞ」
「ジェフったら。夏だものむしろ気持ちがいいわ」
「そうか。なら陽に当たりすぎないように」
「お父さんは心配しすぎー!」
ノンナはジェフリーが父親になるのだと告げた日から「お父さん」と屈託なく呼び始めた。
『ジェフリーがお父さんになったことは青いリボンを買ってもらったのと同じくらい嬉しい』と言う。そして遠い国で五年間を暮らすのだと言われても動揺しなかった。
「お母さんがいれば平気。お父さんもいてくれるならもっと平気」
と笑う。本心だろうかと心配になるほどあっさりしていた。
「帰ってきたらクラーク様にシェンの言葉を教えてあげる!」
「きっと『僕も話せるようになりたい』っておっしゃるわね」
航海は順調だった。嵐が来る気配もない。
「ジェフ、私は本当に自由になったんですね」
「ああ、そうだ」
ジェフリーが私を後ろからすっぽり包むように抱きしめてきた。二人で無言のまま海と空を眺める。
ノンナが二人の間にグイグイッと割り込んできて私に抱きつき、三人で笑った。
船の旅が十日を過ぎたある日。
私とノンナは甲板で海にお日様が沈んでいく様子を眺めていたが、ノンナが海を見たまま話し始めた。
「ずっと前、広場で一人で座ってた時ね、本当は捨てられたこと、知ってたよ。あの時、お母さんは夕方になるまで一緒に広場にいてくれたよね」
そこまで言ってからノンナは私の方を向いた。
「まだありがとうを言ってなかった。あの頃、言葉をあんまり知らなかったから。お母さん、お母さんも逃げてたのに、私を助けてくれてありがとう。羊の美味しいお肉を焼いてくれてありがとう。青いリボンを買ってくれてありがとう。お母さんになってくれてありがとう」
私はノンナの頭を撫でながら「うん、うん」としか言えなかった。
夕陽が海に沈んで行ってほんの少しを残すだけになった。夜が始まる。
ノンナがいなかったら今頃私は生きていない。暗殺の指令が出ていることを知らずにノコノコと特務隊に戻って殺されていたに違いない。
「おう、二人ともここにいたのか。もう中に入ろう。夕食の時間になるぞ」
「はい」
「はぁい、お父さん」
家族を大切にして暮らすこと。
縁のあった方々と長くお付き合いすること。
人の役に立つこと。
他にもたくさんある。今度こそ私の人生に欠けていたことを埋めながら生きていくのだ。
私は背後をジェフに守られるようにしてノンナと手を繋いで船内に向かった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ビクトリア2でお会いしましょう。






