51 王城からの使者
私は宿屋兼食堂に戻って仕事を辞める挨拶をした。
「急なことで申し訳ありません。これ、旦那さんと奥さんのセーターです。お金はいりません。受け取ってください」
「ありがとう。いいことがあったのかい?ずいぶん顔が明るいよ。マリアさんが辞めるのは残念だけど、マリアさんが幸せになれる話だとしたら仕方ないね。じゃあ、これは餞別だよ」
そう言って奥さんはセーターの代金より少し多めのお金を手渡してくれた。
「陰日向なく働く人には神様も優しくしてくれるさ。頑張ってね」
「ありがとうございます。お世話になりました」
ノンナは浜辺で貝殻を拾っていた。
「お母さん!綺麗な貝殻を見つけたよ!」
「お待たせ。あら、綺麗な貝。宝物にしないとね」
ジェフリーは船を出すと言ってくれたけれど、私たちは遠回りになっても検問所を通ってカディスへと向かった。
私とノンナはカディスの町でジェフリーと暮らすことになった。ジェフはまだお兄様にも領主のセドリック様にも私のことを言ってないらしい。
「セドリック様から君のことが城に伝わると厄介なことになるかもしれないから。君は希望通り羊を飼って世話をしながら暮らせばいい」
ジェフリーはそう言うが、私はそんな簡単にいくだろうか、と思う。おそらくジェフリーがセドリック様の領地に送られたのは彼の人柄と能力を見込まれてのことだろう。そのジェフリーにまた私が関係していると知られたら……。
自分ではどうしようもないジェフの世界。
いろいろ考えるけど答えが出ない。
ところがその十日後、驚くような内容の連絡を持った男の人が私たちの小さな家にやって来た。王城から早馬でやって来た男の人はマイク、とだけ名乗った。私とノンナはそれを居間とドアを隔てた台所で聞いている。
マイクさんの話を聞いたジェフの声が硬い。
「俺は八ヶ月前に宰相の指示でここに来たばかりですよ?」
「宰相は私の上司の説得で了承しました。シェン国の薬の素晴らしさはご存知でしょう?我が国はあちらの船が運んできたものを買うだけで、欲しい薬を手に入れられるかどうかの決定権はあちらにある」
エバ様が以前話していた外国の火傷の薬とはシェン国のものなのだろうか。そしてマイクさんの上司って誰なのだろうか。
「なぜ私なんです?文官にいくらでも適任者がいるでしょう」
「うーん、では率直に申し上げましょう。この話はアッシャー卿のためであり、ビクトリアさんのためでもあるのです」
台所でノンナと二人で気配を消して話を聞いていた私は息を止めた。
「このままお二人が一緒にここにいては万が一が無いとは言い切れません。ほとぼりが冷めるまでビクトリアさんは何年か完全に姿を消すべきだ、と私の直属の上司は考えています」
ジェフリーの声が一段と低くなった。
「俺に監視をつけてたんですね?」
「あなた方の安全を確保するためです。アッシャー卿がビクトリアさんと一緒に暮らしたいなら、シェン国に行くのが最善の方法です。あちらと交渉し、薬の確保と発送を手配できたらと考えてみてください。アシュベリー王国もビクトリアさんも、アッシャー卿も、みんなが幸せになるじゃありませんか。ねえ、あなたもそう思いませんか?」
最後ははっきりと声を張り上げて台所に向けて話しかけられた。私は
「失礼します」
と声をかけてから居間に入った。
「ビクトリアさん。すみませんね、急な話で。シェン国の船が近々入港してすぐに出港するので、それに間に合わせなければなりません。次の船は一年後ですから。ビクトリアさん、あなたは死んだことになっている。万が一、ハグルの知り合いにこの公爵領で目撃されては困るんです」
「それは……おっしゃる通りですね」
マイクさんは私の返事にうなずいた。
「なのでお二人にシェン国に渡ってもらい、アッシャー卿には薬について学ぶことと輸出の手配に尽力して欲しいのです」
「アンナ、君はどうしたい?」
「ありがたいお話だと思うわ。三人一緒なら何の文句もありません。マイクさん、ノンナも連れて行けるんですよね?」
「もちろんです」
マイクさんが話を続ける。
「三人の渡航と滞在に関しては国費で賄います」
「三人分を国費で、ですか?」
「ええ。ジェフリー氏に関わる費用はアッシャー家が全額を負担すると申し出てくれましたが、それを聞いた内務大臣が『貴重な知識やシェン国との繋がりを全部アッシャー家に握られてしまうのではないか』と心配しまして」
ジェフリーは自分に監視が付けられたことをまだ納得できないらしくムスッとしていたが「アンナがいいなら」と納得した。マイクさんは笑顔になり、たくさんの書類をカバンから取り出した。
「ビクトリアさん、いえ、アンナさんでしたか。これがアンナさんの新しい身分証明書、こちらがお二人の婚姻報告書、これはお子さんの分の書類。国費を出すので養子縁組が必要です。ビクトリアさんの本当の名前が不明でしたので名前の部分は空欄になってます。ご自分で書き入れてください。できますよね?私はもう王都とここを往復する時間がありませんので、お願いします」
(ああ、私のことは全部知られてるんだな)と思った。本来なら印刷されるべき私とノンナの名前を「あなた、自分で書いてね、偽造できるんでしょ」と言われたも同然だった。
「はい。わかりました。アンナ・デイルと書けばいいのですね?」
「いえ、アッシャー卿の家族として向かうのでアンナ・アッシャーと書いてください。二、三週間ほどでシェン国の船が入港する予定です。必ずその船に乗ってください。帰国は五年後を目安に。書類は明日の十時に受け取りに来ます」
マイクさんは一気にしゃべって出て行った。
「アンナ、いいのか?」
「とんでもなくいいお話だわ。個人では絶対に行けそうもない国に行けるんだし、ノンナやあなたを危険に晒すこともなくなる。素晴らしいことじゃない?」
そうよね?とジェフの顔を見上げたら、ジェフが笑い出した。
「海岸で会った時、君は酷く沈んで見えた。精神的にも肉体的にも疲れ切ってるのかと心配したけど、その様子なら大丈夫そうだな」
そっか。私、人から見ても元気がないように見えたのか。明るく振る舞ってたつもりだったのに。
「私ね、本当は毎日寂しくて寂しくて、いっそハグルの特務隊に戻ろうかと何度も考えたの。ノンナをあそこに連れて行くわけにいかないから実行しなかったけど」
ジェフは「はぁぁぁ」とため息をついた。
「暗殺指令を知らなかったとは言えそんなことを考えていたのか。踏みとどまってくれて本当に良かったよ」
「私、精神的に参ってたんだと思う。少し考えれば見せしめで殺されるかもって気がつくことなのにね」
「ノンナのおかげで命拾いしたんだな」
「ええ」
ノンナがそろりそろりと台所から入ってきた。ジェフがノンナに歩み寄り、ガバッと抱き上げて高い高いをした。ノンナはしばらくは(はいはい、好きなようにどうぞ)と言うように無の表情だったが、やがて我慢できなくなったらしくてケラケラと笑いだした。
「ノンナ、君は俺の娘になってくれるかい?」
「ジェフが私のお父さんになるの?」
「そうだ。アンナは俺の奥さんでノンナのお母さんだ」
「いいよ」
ノンナは即答だ。
手渡された書類をよく読むと、私はカディスの生まれ育ちの平民で、男爵の養女になってからジェフと結婚することになっている。
アンナがビクトリアであることは誰がどこまで知っているんだろう。明日はマイクさんにそこを確認しなければ。
その夜、私はほぼ徹夜で自分とノンナの公的書類に何箇所も名前を書き込んだ。ジェフが興味津々で覗き込んで気が散って仕方ないので追い出した。
印刷と全く同じに見えるように文字を書き入れるのは集中力が必要なのだ。






