50 メアリー
朝食の時間になった。
ハグル王国特殊任務部隊が使っている建物の三階。殺風景で狭い部屋に、メアリーの食事が運ばれてきた。運んできたのは若い男だ。
(そう言えばランコムを最近見ていない)
「メアリー、朝飯だ」
「ランコムはどうしたの?」
「……」
「ねえ、ランコムは?」
「……」
「なに?私と喋ると罰でも受けるわけ?」
「ランコムさんは忙しいんだよ」
「なんで忙しいの?」
男は少し躊躇ったが、どうせこの女はこの部屋から出られないのだと判断したらしい。
「ランコムさんはもう室長じゃない。養成所を手伝ってる」
男は食事を載せたトレイを雑な感じに音を立ててテーブルに置くとバタンとドアを閉めて出て行った。
メアリーはとりあえず食べることにした。体力を落とすわけにいかないのだ。立ち上がってテーブルに向かうとジャラッと鎖が重い音を立てる。
すっかり馴染んでいる鎖に視線を落とす。彼女の足首に鉄の輪がはめられていて、そこから長い鎖が繋がっている。部屋の中で暮らすのには不自由しないが部屋の外には出られない長さ。窓の鉄格子が自分の置かれた立場を教えてくれる。
こんな生活になってもうすぐ二ヶ月近い。救いに来てくれるはずのランダル王国の人たちは誰も来ない。
(自分は見捨てられたのだ。いや、最初から受け入れられてなかったのか。このままでは殺されてしまう)
殺されないのは、今はまだ使い道があると思われているのだろう。ランコムは結婚するなり資料の分析を命じた。山のような資料の分析をしていて、買い物などの外出する用事は全て老人がやってくれる。出かけようとするとまた別の老人が代わりに用事をこなしてくれる。家に閉じ込められ、ひたすら資料の分析をさせられた。
ある日の昼間、こっそり抜け出て人に会い、戻ったら鎖に繋がれた。
「やっとお前の証拠を掴んだよ。自分に監視がついてないとでも思ったか」
ランコムは冷酷な表情で言い放つとメアリーを閉じ込めた部屋から出て行った。
メアリーが二重工作員になったのは二十歳の時だ。
いつまでも小さな仕事しか貰えなくて焦っていた。後輩の方が自分よりも大きな仕事を割り振られることもあった。
そんな時に声をかけてきたのがランダル王国の人間だった。
「君が見聞きしたことを教えてくれればいい。特務隊の人間に知られたらランダルに逃げてくればいいさ。我が国では君のような優秀な工作員は喉から手が出るほど欲しいんだ」
ランダルの工作員は綺麗な顔の男だった。ハグルの王都で声をかけられて一緒に飲んで、話を持ちかけられた。
『特務隊の情報を流してくれればいつかはランダルの工作員として活躍できるよ』
彼の言葉はとんでもなく魅力的だった。ハグルにいる限り自分はつまらない仕事しか回ってこない。クロエばかり贔屓される不公平で嫌な職場なのだ。
「でも、組織に知られて捕まってしまったら?」
「その時は我々が総力をあげて救い出す。貴重な人材を無駄にするわけがないじゃないか」
その言葉を鵜呑みにした自分はどれほど愚かだったか。
他国の工作員に正体を見破られ、仲間にも二重工作員であることを見抜かれるような人間を迎え入れる組織なんてあるわけがない。もう二ヶ月も連絡を取れていないのに、誰も救出になぞ来やしなかった。
ランコムに近づいて結婚できた時、ランダルの男は大喜びしてくれた。
『やっぱり私の目に狂いはなかったよ。これからの君の活躍が楽しみだ』
自分は利用されただけ。ランダル王国にもハグル王国にも。おそらくランコムとは正式な結婚の手続きはされていないだろう。自分を怪しんだランコムが監視するための芝居だったに違いない。
メアリーは次の食事が配られるまで、脱走の手段を考えることに没頭した。
ランコムが権力を失ったのならもう時間がない。新しい室長が「不要だ。処分しろ」と言えばすぐにでも殺されてしまう。
「おい!おい!どうした!」
夕食を運んできた男が慌てて食事をその辺に置いてメアリーに駆け寄った。メアリーは口から血を吐いて床に倒れて目を閉じている。
「おい!メアリー!」
メアリーの肩を揺すった男が人を呼ぼうとして立ち上がろうとした瞬間、彼女は目を開けて男の足首を掴み、強く引っ張った。どうにか頭を床に打ち付けずに済んだものの転倒してしまった男の首にメアリーが鎖を巻きつけると、男は慌てた。
男が気を失ったのを確かめてからメアリーは素早く立ち上がり、シーツを裂いて作った紐で男の手足を縛り上げ、猿轡も噛ませた。やがて男を見ながら立ち上がり、自分の口の中を舌でなぞる。爪で思い切り引っ掻いた傷は深く、痛みと鉄の味に顔をしかめた。それから落ち着いて男の服を探って鍵を探したが、この部屋の鍵しか見つからない。
仕方なく男のポケットに入っていた銀製の爪楊枝で足首の鉄の輪の鍵に取り組んだ。
途中で男が意識を取り戻したので腹を蹴って黙らせ、また足枷の鍵に取り組む。やがてカチャリと音を立てて足輪が外れた。口の周りに血を付けたままメアリーは立ち上がり、男を見下ろした。
「いずれ私を殺すつもりだったんでしよ?」
唸り声をあげる男の頭を蹴り飛ばし、彼女は笑った。
「殺しゃしないわ。あんたみたいな下っ端、殺す価値もないもの」
そう言ってメアリーはもう一度男の腹を蹴り、シーツの残骸をコップの水で濡らして口の周りの血を丁寧に拭いた。
部屋から出て男から取り上げた鍵でドアを施錠する。右手には男が身につけていたナイフ、武器代わりのベルトも腰に巻いた。
行くあてはないが留まっていれば殺される。
(逃げて逃げて逃げ切ってやる。もう誰も信じるものか)
メアリーは二階まで階段を降り、人の気配を避けて二階の窓から地面に飛び降りた。暗い場所を選んで走り、見張りを避けて素早く高い塀を乗り越えた。
エドワード・アッシャーは公爵領のハムズが早馬で送ってきた手紙を読んでいた。弟が子連れの女性と接触したら必ず早馬で知らせてくれと言い含めてから八ヶ月。
「そうか。見つかったか。一度ゆっくり話を聞きたいけど、その前に彼女の安全を確保しなきゃね」
陛下と第一王子はジェフリーをセドリック様の補佐として付けておきたいのだろうが、管理部長としても兄としても今はまだハイデンの近くにビクトリアとジェフを一緒にして置いておきたくない。万が一の可能性も潰しておきたい。
「やはりあそこか」
そう言うと、エドワードはスタスタと部屋を出て医療班のいる西塔へと足を運んだ。
「おや、管理部長。どうなさいました?」
出迎えたのは黒目黒髪の小柄な男性だ。
彼は遥か遠くの国から来た貿易商の男性とアシュベリーの女性との間に生まれた人物である。
父の国で育ったが、三十歳の少し前に「外の世界を見てみたい」と医療の知識を携えてこの国に来た。この男がいるからアシュベリーは他国が手に入れられない貴重な薬を買うことができている。
「ひとつ頼まれて欲しいことがあるんだけど」
「はいはい。見返りは?」
「えげつないことを言いなさんな。私とあなたの仲じゃないか。でも、そうだねぇ、君が使いたいと言ってた薬を好きに使えるよう、私が宰相に交渉するってのはどうだい?」
小柄な男が目を大きくし、口角を上げた。
「手術で使う麻酔薬ですか?でも、目の玉が飛び出るくらい高価ですよ?」
「任せなさい。その代わりに私の弟とその奥さんになる人を君の国に五年ほど住まわせてほしいんだ。あ、子供も一人いるな。もちろんその費用は私が持つ」
(そんな簡単なこと?)と医者は思った。
「私の実家は大きい屋敷です。離れもある。三人なら全く問題ないです。使用人も山ほどいます」
「いいね。決まりだ。じゃ、君から父君に手紙を書いてくれる?君の母国の船が来月入港してすぐに帰るでしょう?その船に弟たちを乗せたいんだ」
「約束は必ず守ってくださいね?」
「私が約束を破ったことが一度でもあるかい?麻酔薬の他にも使いたい薬があったらそれも一覧にして出して。なるべくたくさん許可が出るように交渉してくるよ」
そう、管理部長は約束を破ったことは一度もない。そして陛下も宰相もどういうわけか彼の要求はたいていすんなり受け入れる。医療班の男は急いで父に手紙を書いてから欲しい薬をたくさん紙に書き連ねた。
エドワード・アッシャーは異国の船長に渡す手紙を懐に入れて、陽当たりの悪い職場へと戻って行った。






