47 迷う
春の柔らかい牧草を食べる羊は嬉しそうだ。私は(いつか羊を飼って暮らせたらいいなぁ)と夢想する。
一箇所に腰を据えて羊を育て、毛を刈り、毛糸にして、染めて、編む。そんな暮らしをいつかできるだろうか。
春の終わりに、私とノンナは羊の毛刈りを教わった。大きなハサミで肌を傷つけないように毛を刈ると、羊はふた周り小さくなる。体調を崩さないように奥さんがボロ布を一頭一頭の背中に被せる。それを手伝ってから私たちは牧場を旅立った。七ヶ月間の牧場暮らしだった。
「またねー! またねー!」
笑顔でノンナが農場の奥さんに手を振る。私は振り返り、頭を下げて感謝を表した。
今度の引っ越し先はランダル王国の南端、アシュベリーに程近い漁師町だ。活気のある漁師町の食堂兼宿屋で、私は今働いている。ここは従業員が何人もいる大きな仕事場だ。私の仕事は宿屋の掃除だが、人手が足りない時はなんでも手伝う。
「助かるわ、あんたみたいに元気な人に来てもらって」
「こちらこそ。奥さんに住む部屋を用意していただいて感謝してます」
「そうだ、マリアさん、この前私が譲ってもらったセーターだけどね、お金をちゃんと払うから旦那の分も編んでもらえないかい?」
「はい。喜んで」
「おしゃれだしお店で買うより安いし。私ももう一枚欲しいんだけど」
「では二枚ですね。なるべく早く編みますね」
「急がなくてもいいのよ。今度の冬に着るんだから」
「色と模様のご希望はありますか?」
「任せるわ」
これで少しずつでもお金を稼げるのがありがたい。思えば私はアンダーソン家とバーナード様、ヨラナ様に金銭的に大変なお世話になっていたのだ。今は二人で食べていくのが精一杯だが、いつかお詫びとお礼をできる日が来るようにそれまで頑張って生きていかねば。
ノンナは今まで魚を苦手にしていたが、ここアルデに来てからは「ここのお魚は美味しい」と好んで魚を食べるようになった。いいことだ。
ノンナと二人で店の外を掃き掃除していたら隣のパン屋さんの奥さんが話しかけて来た。
「マリアさんたちはカディスの夏祭りには行くのかい?」
「え……カディス? だって国が違うのに」
「その日だけはここからカディスに船が出るんだよ。お祭りはすごい人出だから、たくさん屋台も出て賑やかよ。臨時の船便のおかげで国境検問所を通らずに気楽にアシュベリーに行けるのさ。一応船に乗るときと向こうに着いた時に身分証は見せるけどね」
「そうなんですか」
「行きたい! お母さん、行きたいよ。お願い。お祭り、見てみたい」
「うん……」
曖昧な返事しかしなかったらノンナはそれ以上人前でねだることはなかった。何か察したのだろう。
私は誰と会話する時でも先の予定の話題は避け続けてきた。そんな私が、ひとつだけ団長さんと約束したカディスの夏祭り。
黙っていなくなった私が(団長さんはあの約束を覚えているだろうか)なんて思うのはあまりに身勝手だ。あの時、団長さんは私が逃した脱獄犯を探し続けていてヘトヘトだった。覚えてなくても当たり前だ。
話はそこで終わったのだが、夜、二人でひとつのベッドに入ってからノンナがもう一度頼んできた。
「お母さん、やっぱりお祭りに行きたい」
「うん、わかった。行こうか」
「ほんとに? 怒ってない?」
「怒ってないわ。私もお祭りは初めてだし」
「お母さんも? 大人なのに?」
「さあ、今夜はもう寝ようね。明日も早いわよ」
「はぁい」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
夏至の日まであと三週間。
お祭りは夕方から夜にかけて行われるらしいから、人波に紛れ込んでカツラを付けていれば多分誰にも気付かれない。
気付かれるわけにいかないのに、(あの日の約束を覚えていてほしい、私たちを探しに来てほしい)と願ってしまう。今更団長さんに会えたところで元に戻るわけにはいかないのに。
いつから自分はこんな筋の通らないことを考える人間になったのか。
(きっと疲れているのだ、疲れて頭が働かないのだ)
そう思って目を閉じた。
特務隊にいた頃は命令を与えられて、こなして、褒められて、それで私は満足だった。
なのに自由になった今はとても孤独で苦しい。アシュベリーの王都を離れてからずっと、聞き分けのない子供のように「寂しい寂しい」と訴えるもう一人の自分がいる。
「特務隊に戻ったら、こんな気持ちは消えるのかな」
特務隊を逃げ出した人なんて聞いたことがないし、戻ってきた人はもっと聞いたことがないけれど(罰を受けてもいい、雑用係でもいいから戻ろうか)と愚かなことを最近よく考える。もしノンナがいなかったら、私はフラフラとハグル王国を目指していたかもしれない。あの暮らしが幸せじゃなかったことを今の私は知っている。でも、こんなに寂しいよりは楽かもしれないと何度も思った。
『ノンナをあの場所に近づけてはいけない』
最近あまり働かなくなった頭でも、それだけはわかっていた。ノンナの存在が私を引き留めてくれていた。
「お母さん、起きて。お母さん!」
「ん? ん? ごめん……寝坊した?」
「少し」
「ごめんね。すぐに朝ごはんを用意するね」
「どうしたの?」
「なにが?」
「目が赤いよ?」
慌てて壁に引っ掛けてある曇った古い鏡を覗くと、寝不足と涙で目を赤くした私がいた。
「夕べ、なかなか眠れなかったから」
「ふうん」
急いで目玉焼きを作り、昨夜の刻み野菜のスープを温めた。硬くなりかけているパンはストーブの上でノンナが「アチ! アチ!」と言いながら焼いてくれた。
「さて、今日も仕事を頑張りますか!」
「はぁい!」
ノンナの柔らかくてミルクの匂いがするほっぺにチュッとする。着替えさせて自分も着替えて宿の掃除に向かった。
昼間は働き、部屋に帰って編み物をする。ベッドの中で迷い、疲れて眠り、そしてまた働いた。
時間は飛ぶように過ぎて、いよいよカディスのお祭りが開かれる夏至の日になった。
その日は食堂が早仕舞いだった。
「店を開けてても誰も来ないのよ。みんな船でカディスのお祭りに行っちゃうからね。マリアさんたちも早めに行かないと綺麗な景色が見られないわよ」
「そうですね」
ノンナが真剣な顔で奥さんの話を聞いている。
「何百、ううん、何千かしら。たくさんの小さな舟がロウソクを乗せて潮の流れに乗って沖に向かっていく景色、一度は見なきゃ。綺麗よ。帰りは遅くなるだろうから明日は休みでいいわよ。マリアさんはずっと休みを取ってないでしょう?」
「ありがとうございます。ではそうさせていただきます」
夕方、二人で黒髪のカツラを付けて船に乗った。夏の太陽は沈んでおらず、辺りは明るい。船賃を二人分手渡して桟橋から漁船に乗る。稼ぎ時だから漁船が次々桟橋に横付けしてランダルの人たちを乗せては出港していく。船は小さく、漕ぎ手が四人で乗客は八人。
浮かれている人たちの中で、私は緊張していた。
(団長さんは来るだろうか。あの時の他愛のない約束を覚えているだろうか)
(やめろ。無断で逃げ出しておいて勝手なことを期待するな)
ブルブルと頭を振ってうるさい声を振り払った。今夜はノンナを喜ばせることに専念しよう。そう決めて私は笑顔でノンナに話しかけた。
「カディスのお祭り、楽しみね」
「うん! お母さんも?」
「ええ。とっても楽しみよ」
カディスの港までは思っていたよりもあっという間だった。途中、大きな船が何隻も係留されている立派な港を通り越して進むと、前方に無数のロウソクが揺らめいている明るい場所が見えてきた。
小さな漁船は漕ぎ手たちの力でグイグイと進む。やがて漁船は桟橋に横付けされて、私とノンナはアシュベリー王国のカディスに降り立った。






