40 ハグル語と焼き栗
私がマイルズさんと鍛錬をする少し前のこと。
子供たちはランダル語の基本はわかってもらえたようなので、クラーク様のハグル語の授業を始めた。
ノンナはまだいいかな、と思ったけれど「一緒に勉強する」と言う。六歳で三カ国語を理解できるものだろうか。語学の勉強が好きな私でも三つ目の言葉を学んだのは十歳だった。
「ノンナは聞くことと話すことができれば十分よ」
「やだ。クラーク様と一緒がいい」
「僕もノンナと一緒の方が楽しいです」
六つも年下の女の子と一緒でも嫌がらないなんて、クラーク様は貴族の少年としては異色ではないかしら。
「ではハグル語のお勉強は旅人と街の人の会話で取り組んでみましょう。まずは私がハグル王国の人間になります。いろんな職業の人になりますから、旅行客になったつもりで会話の勉強をしましょうね」
「はい、先生」
「やったー!」
たぶんノンナはよくわかってないだろうけど、楽しそうだから良しとした。
その日は私と子どもたちがハグルの王都のパン屋の店員になった。役割を交代して何度もパンを買う時のやり取りを練習した。
『この丸パンをひとつと干しぶどう入のパンを二つください』
『はい、銅貨三枚です』
『このお店は何時から開いてますか』
『朝は六時からです。夕方の六時までお店を開いています』
クラーク様とノンナはキャッキャしながら会話形式の授業に取り組んでくれた。ひと通り終えた後でクラーク様が質問した。
「先生、ハグル王国は寒いんでしょう?」
「そうらしいですね。アシュベリーよりは寒いそうですよ。十一月には雪が降る、と読んだことがあります」
「春も遅いのでしょうか」
「アシュベリー王国では春の花は三月から咲き始めますが、ハグル王国では四月の中旬からと言われていますね」
「先生、父が仕事でハグル王国に行く時、今度は僕も連れて行ってくれるそうです。先生とノンナも一緒だったらいいのになぁ」
「私たちはクラーク様の旅のお話を楽しみにしておりますわ」
「ビッキー、ハグルって遠い?」
「そうね、遠いわね。馬車だと行くだけで三週間はかかるかな」
「じゃあ、いい。スーザンさんにレースを教わってるから」
そう、ノンナはスーザンさんの部屋にお泊りするたびに少しずつボビンレースを編んでいる。編み棒やかぎ針を使わずにボビンに巻いてある糸を交差させて編む手間のかかるレースだ。スーザンさんが得意で一度作品を見せてもらったが、それはそれは豪華で美しかった。
ノンナは身体を動かすことも大好きだがコツコツこなす細かい作業も好きだ。銀のスプーンを一心不乱に磨いてくれる。そんなところが私に少し似ていて、血が繋がっているわけではないのに嬉しくなる。
アッシャー伯爵家。
前伯爵夫人コートニーの部屋でジェフリーと母のコートニーが会話をしている。
「ジェフ、こうして私の体調を心配してくれるのはとても嬉しいけれど、忙しい時はあなたの用事を優先していいのよ?」
「気楽な独り身ですからそれほど用事はないんですよ、母上」
コートニー前伯爵夫人は金髪の頭を傾けて微笑んだ。
「エドワードからあなたに親しいお嬢さんができたと聞いているけれど、私はいつになったら紹介してもらえるのかしら?」
「それは……もう少しお待ちいただけますか。まだ何も決まっていないんです」
「あらあら。勇猛果敢なはずの第二騎士団長様はずいぶん慎重なのね。お相手の身分のことならなんとかしてあげられますよ?」
問題はそこではない。
ビクトリアは自分を嫌ってはいないようなのに、自分が一歩踏み込むと彼女は一歩下がる。それはおそらく……。
そこでジェフリーはため息をつきそうになったが堪えた。まだ夕方と夜の間くらいの時間だったが母におやすみの挨拶をして自室に引きあげたジェフリーは今度こそ正直にため息をついた。
夜会の時、彼女はあの男が不審な動きをしていたことを会場の誰よりも早く気づいた。会場の庭であの男を失神させたのもビクトリアだろうと今は思っている。彼女は腕の立つセドリック殿下を追い詰め骨折させたが彼女自身は無傷だった。
ビクトリアが四ヶ国語に堪能で、掃除と料理も得意で、体術と剣術の腕でセドリック殿下に勝り、木登りも得意。それらを全て知っているのはおそらく自分だけだ。
そこから導き出される答えが、自分にはひとつしかなかった。
『脱走工作員』
工作員は幼い時から組織に忠誠を捧げるように洗脳される上に高い報酬を得られることから脱走したと言う話は聞いたことがない。しかし何事にも例外はあるものだ。
「俺や伯父上に近づいたところで何の得もない。アンダーソン家の家庭教師は頼まれて引き受けている。あの年齢で引退もないだろう。だとしたら」
やはり組織から逃げてきたと考えると全てに合点がいく。過去を話したがらないことも、何を恐れているかを決して言わないことも。だとするとビクトリア・セラーズというのもおそらく偽名だろう。
ここまでくるといつも考えは堂々巡りだ。
自分が彼女とともに生きることを選ぶなら、兄と兄の妻、子どもたちに迷惑をかけないようにこの家から籍を抜き、平民になるのが最善の道だ。騎士団長を辞めるのはもちろんだ。それは覚悟している。
「いっそのこと、彼女とノンナを連れて三人で他国に行くのはどうだろうか」
それはもう何度も考えたことだ。幸い身体は頑丈だし周辺諸国の言葉ならなんとかなるから何かしら仕事をして食べていくことはできるだろう。
しかし肝心のビクトリアは『踏み込んでくれるな』と訴えているように見える。
「俺と一緒に暮らそう」と告白した途端にノンナを連れて姿を消される気がする。
彼女が本気で姿を消したらもう自分には見つけられないだろうと思う。
「ふう」
ガシガシと艷やかな銀髪を指でかき回し、ジェフリーは天井を見上げた。
ビクトリアの家ではノンナが読んでいた本を置いて台所にいるビクトリアに話しかけていた。
「ビッキー!次はいつジェフが来るの?」
「さあ。団長さんは忙しいからねえ」
「ジェフが来たら『このパンはいくらですか?』って言うのに」
「きっと団長さん、驚くわね」
「ジェフ、来るといいなぁ」
「そうねぇ」
コンコン!
「きっとジェフだよ!」
そう言ってノンナはドアを開けようとして止まる。ドアの鍵を開ける前に相手の声を確かめるのはこの家の数少ないルールのひとつだ。
「こんばんは。美味しい焼き栗を買ってきたよ」
聞きなれた声を聞いてノンナが急いで鍵を開けた。
「ジェフ!こんばんは!わぁ焼き栗!」
「まあ、団長さん。いつもありがとうございます」
ジェフリーはビクトリアとノンナの三人で焼き栗を食べながら他愛のない会話で笑い合う。
強く踏み込めば消えて無くなるであろうこの時間をジェフリーは愛おしみながら過ごした。






