38 アップルパイと侍女(4)
翌朝、私はノンナを連れてハンソン男爵家に向かう途中でアンダーソン伯爵家を訪れた。謝罪のためである。
「昨夜遅くにノンナが男爵様の家を抜け出して帰って来てしまいました。あちら様がご心配なさっているでしょうから、これからハンソン男爵家に謝罪に参ります。まずはご連絡にこちらに参りました」
私が頭を下げたらノンナも真似して頭を下げる。しかしエバ様は首を横に振る。
「ううん、あなたたちは顔を出さない方がいいわ。うちから連絡を入れておく。今回は私がきちんとお断りできなかったばかりにあなたにもノンナにも迷惑をかけたわ」
そう会話しながらもサラサラと紙に何かを書いて侍女さんに手渡した。侍女さんは素早く部屋を出ていった。ハンソン男爵への連絡だろう。それを見送ってからエバ様が過去のお話をしてくださった。
「四年前のことなのだけど。王都で高熱が出る風邪が流行ったの。クラークもその風邪にかかって五日も高熱を出したわ。幸いなことに五日を過ぎたらスルスルと熱は下がって、無事にその風邪を乗り越えたのよ。でもその高熱で亡くなる子どもや老人は少なくなかったの」
何年かに一度はたちの悪い風邪が流行る。
体力勝負になるから弱い者から命を落としていくのはどうしようもない自然の理なのだが。
「ところがね、うちの夫は外務大臣でしょ。『他国の良い薬を使ったらしい』と噂されたの。以前によく効く火傷の薬を他国から買って他の方々に良かれと思って配ったことがあるの。だから誤解されたのね。どんなに否定してもしつこく噂は消えなかったわ。そんな時にハンソン男爵が我が家に来てね。噂を本気にしたらしくて涙ながらに薬を譲って欲しいと頼まれたのよ。このままでは娘は死んでしまう、お金なら有るだけ差し出すからと。薬を使ったわけではないと繰り返し言ったのだけど……」
ああ、なるほど。
ハンソン男爵夫妻がその時のことを今も恨めしく思っている、またはエバ様がそれを今も後ろめたく思っている、か。だからドロレスという子どもに似ているノンナの養女話を強く断れなかったのか。
「エバ様、それはアンダーソン家にはなんの責任もない話ですわ」
「理屈ではね。でもその話は理屈じゃないのよ。そこが厄介だったの。あちらも薬は使われなかったと頭ではわかってたかもしれない。でも本当にあなたたちにはなんの関係もない話だから。我が家とハンソン家のことに巻き込んでごめんなさい。申し訳なかった」
私はノンナとバーナード様のお屋敷に向かった。バーナード様は研究を再開されてますますお元気だ。
「エバには良くしてもらったが、やはり自分の家はいい」
「バーナード様がお元気そうで私も嬉しいです」
ノンナが道端で咲いていた小さな黄色い花を一輪手渡した。
「はい!バーナード様!」
「おお。こんな美人さんに花をもらうなんて初めてだよ」
数ヶ月しか一緒に暮らしていないノンナでさえ、失うのかと思ったらあれほど寂しかったのだ。実の娘を三才で失った男爵夫妻の嘆きはどれほどだったか。私にも爪の先ほどはその痛みが理解できた。
帰宅して肉を煮込みながらあちこちを濡れ拭きし、窓を磨いた。ノンナがこの世からいなくなることを想像するだけで涙が出てくる。エバ様からは「全て片付いたから安心していい」と連絡をいただいた。
翌日、ハンソン男爵家からたくさんの荷物が男爵の筆跡らしい手紙とともに届けられた。
『私たちは領地に戻って領地経営に専念することにした。少しだけドロレスをこの手に取り戻したような暮らしをさせてくれたことを感謝する ウィリアム・ハンソン』
たくさんの箱の中身は高価そうなドレス、靴、アクセサリー、下着、夜着、室内履き、華奢なバッグだった。ノンナはたいして興味を示さなかったが私はそれらを眺めて胸が詰まった。
奥様が鍵をかけたのはやりすぎだったけれど、ノンナが逃げ出して戻ってくる気がないと知った時、そしてこれらの品を手放す時、どんな思いだったのだろう。我が子の代わりはどこにもいないのだ、と納得しているだろうか。
ふと思う。私の両親は八歳の私を手放したあと、寂しいと思ってくれただろうか。もう尋ねることもできないけれど、聞いてみたかった。生きていたら「もちろん寂しかったよ」と言ってくれただろうか。そうだといいなと今更どうしようもないことを考えた。
ヨラナ様と団長さんにノンナが戻ってきたこと、男爵様が王都を引き払うらしいことを報告してこの件は終わりにした。
夜。あたりはすっかり暗い。
私とノンナはお風呂を済ませてのんびりと夕食を食べていた。
するとドアがノックされてスーザンさんと団長さんがいらっしゃった。
「あら。スーザンさんと団長さんとは珍しい組み合わせですね」
「私はここですぐ帰りますね。実は私、余計なお節介を承知の上でヨラナ様にお願いしてハンソン男爵家に手紙を書いていただきました」
「ヨラナ様にですか?それはどのような」
コホン、と咳をしてスーザンさんは私から視線を外しつつ説明してくれた。
「ヨラナ様は『ビクトリアさんに何かあってもヘインズ伯爵家がノンナの面倒を見るからご心配なく』って書いてくださいました」
「まあ!」
驚いて見つめたらスーザンさんが赤くなった。
「スーザンさん、ありがとうございます。とても嬉しいです」
「いえ、私、いてもたってもいられなくて。でも奥様は『あなたに頼まれなくてもそうするつもりだったのよ』とおっしゃってました」
スーザンさんはそれだけ言うと、そそくさと帰った。私の他にもノンナのことを心配してくれる人がいた、と思ったら鼻の奥がツンとしてくる。団長さんを招き入れてお茶を出した。
「あー、ビクトリア。実は俺からも報告があるんだが」
「なんでしょう」
「エバは君に何も言ってないと思うが、アンダーソン伯爵が兄のところに相談にきてね。僕の兄が美味しい酒をハンソン家に届けさせるついでに『双方が納得して正式に手続きを終えるまではノンナの保護者がビクトリアであることを忘れないでほしい』と手紙でハンソン男爵家に注意を促したらしい。それと、余談として俺が君の身元保証人であることも付け加えておいたそうだ」
「それは……なんてありがたい。アッシャー伯爵様までご心配くださってたんですね」
「最初は俺がそう伝えるつもりだったんだが。家の名前を出すので一応兄に断りを入れたんだ。そうしたら『お前が言うより付き合いのある私が言った方がいいだろう』と言われてね」
団長さんは笑っている。
二つの伯爵家が口を出してきたのだからハンソン男爵はさぞかし驚いただろう。
「ハンソン男爵の奥方は娘さんが亡くなったあと、しばらく心が不安定な時期があったそうだ。一度、平民の金髪の少女を『迷子になっていた娘を見つけた』と言って屋敷に無理やり連れ込んだことがあるらしい」
「まあ……」
「ハンソン家の体面に関わることだから、その子供の家族と男爵家の使用人は厳しく口止めされたらしい。しかし噂を聞いたのか、兄は知っていた。俺は兄から聞かされるまで知らなかった。エバも知らないんじゃないかな」
男爵夫人は感情の起伏が大きい方かな、とは思ったが。そうか。そんなことがあったのか。
「アンダーソン伯爵は『ノンナがそれほどそっくりなら、本人が嫌がっても夫人がノンナを手放さなくなるんじゃないか』と心配したようだ。エバがその場で断らなかったことを気にしていたよ」
自分の知らないところでいろんな人が動いてくれていた。男爵夫妻が領地に帰ったのはそれもあるのだろうか。
「団長さん、アッシャー伯爵様に私が心から感謝しております、とお伝え願えますか。近いうちにお礼に参ります」
「お礼なんていいんだよ。兄はバーナード伯父様のことで君にとても感謝しているんだから。もしお礼をしないと気になるというなら、兄になにか酒のつまみでも作ってくれたらきっと喜ぶよ。俺が届けよう」
団長さんは笑って帰って行った。
「ノンナ、お泊りしている時、何か怖いことされなかった?」
「されてない。でも、奥様だけの時は少しいやだった」
「なんで?」
「ずっとドロレスって呼んでた。あと、家族が揃ったって何度も言ってた。泣いてギュッてしたり」
そうか。なんて切ない。
「でももう気にしてないよ」
「あなたは強いわね。そして優しいわ」
「ビッキー」
「なあに?」
「ジェフとは一緒に暮らせないの?」
自分が他所の家の家族にされそうになってそんなことを思いついたのだろうか。何も答えられず、私はノンナの頭を撫でた。
(そうできたらいいけどね。無理なのよ)と思いながら。






