36 アップルパイと侍女(2)
エバ様の性格と双方の家の格を考えたらこの養女話はきっぱり跳ね除けられると思ったけれど、なぜかエバ様から出てきた言葉はやんわりしたお断りだった。
「ハンソン男爵、ノンナは相当活発な子です。貴族流の育て方や躾はおそらく無理かと思いますわ」
「いやいやアンダーソン伯爵夫人、そこはどうか我々にお任せいただきたい。まずは一週間我が家で暮らしてもらえばこの子もきっと考えが変わりますよ」
(ノンナを育ててるのは私ですけど?どうして私の意見も存在もないがしろにされてるんです?)
さすがに腹が立って(もういい、きっぱり断る)と決めた。
「もう一度申し上げますが、私は……」
「七回泊まればいいの?それとも六回?」
ノンナの言葉に固まる私。喜色満面の男爵夫妻。
「六回だよ。七回でも構わない。君は賢いね」
「嬉しいわ、ノンナ」
ノンナの澄ました横顔を見て呆然とする私。
(なんで?私たち、上手くいってたよね?楽しく暮らしていたよね?)と問い詰めたくなる。
いや……今は男に別れを切り出された女みたいなことを言っている場合じゃ。
「ノンナ?どうして……」
「六回お泊りして嫌だったら断ってもいいの?」
「もちろんよ」
「さあ、そうとなったら今夜からお泊りしてくれるかい?」
「うん、いいよ」
待ってよ、今夜から?
「男爵様お待ち下さい。ノンナは着替えも何も持ってきておりませんので」
「ビクトリアさん、着替えは不要ですわ。私どもで全て用意します。ああ、この子にドレスを買ってあげられるのね。あなた、夢のようだわ」
「そうだな。帰りに好きなだけ買えばいいよ」
こうしてノンナはまるで連れ去られるようにして私の前からいなくなってしまった。無表情に手を振って馬車に乗って立ち去るノンナを見送った私は混乱していた。
「先生!ノンナはどうしてあの家の馬車に乗って行ったんですか?」
「クラーク様。さあ。どうしてでしょう」
「え?先生?」
「申し訳ありません。私、帰りますね」
歩きながら果てしなく落ち込む。ヨラナ夫人の屋敷の門をくぐり、とぼとぼと歩いていたら花壇の世話をしていた夫人が声をかけてくださった。
「あらビクトリア、ノンナはどうしたの?」
「男爵様の家に一週間泊まることになりました」
私の挙動が不審だったのか、ヨラナ夫人の顔が険しくなる。
「何があったの?」
仕方なく正直にさっきのことをお話しした。
「と、いうことでノンナが貴族の暮らしが気に入ったらそこの養女になるみたいですよ」
「ノンナは納得してるの?」
「たぶん」
「へえ、そう。男爵の名前は?」
「ハンソン男爵です」
「ハンソン……。ああ、なるほど。死んだ子供の代わりをさせるつもりね」
「そうみたいですね。すみませんヨラナ様、ちょっと混乱しているので部屋に戻ります」
ヨロヨロしないように腹に力を入れて歩き始めたらヨラナ夫人が後ろから声をかけてくださった。
「きっとその話は上手くはいかないわ。私の目が曇ってなければノンナは断って帰ってくるわ」
「そうだといいのですが」
夕方の空はどんどん暗くなる。
何をする気にもならず椅子に座っていたら真っ暗になったが立ち上がれなかった。
あんなにあっさり承諾すると思わなかった。その場で断ると思ったのに。ノンナはこの先ずっと私のそばにいてくれるものだと思い込んでいた。ノンナの無愛想な言葉遣いや空中回転が上手くいった時の弾けるような笑顔を思い出したら泣きそうになった。
誰もいない部屋は寒々しくて、この先、こんな暮らしをしていくのかと思うと脱力した。思えば組織を抜けるまでは常に周囲に人がいて、この国に来てからはノンナがいた。楽しい人間らしい暮らしを味わった後で本当の一人暮らしをすることになるとはね。
突然、ドンドンドン!とドアが激しく叩かれた。
「ビクトリア!いるか?」
団長さんの声だった。
(ああ、しょぼくれた顔を見せたくない)と返事をしないでいたらまた声がかかる。
「いるんだろう?ドアを開けないなら蹴破るぞ!」
やめてほしい。修理代がかかりますよ。
「鍵なら開いてます」
「おう、そうか」
ガバリと勢いよくドアが開いて団長さんが入ってきた。団長さんは真っ暗な部屋で一瞬立ち尽くすがすぐにいつもランプを置いてある小テーブルに進んでランプを点けて、他のランプも次々点ける。
「真っ暗だから心配したよ。ヨラナ夫人が連絡をくれたんだ。ビクトリアが心配だから急いで来てくれって」
「そうですか」
「ノンナが貴族の家に行ったんだって?」
「……なんて」
「え?なんて?」
団長さんが私に聞き返す。
「こんなことになるなんて。ノンナは子供だからずっと私のそばにいてくれるもんだと思い込んでました。ノンナにはノンナの人生を決める権利があるのに」
「ビクトリア」
団長さんが椅子に座ったままの私の隣に立って背中に手を当ててくれる。
「ノンナは何か考えがあって行ったんだよ」
「ええ、私もそう思います。賢い子ですから。でも、私が第三者ならこの縁組は考え得る最高のいいお話だと思うんです」
団長さんが黙って聞いている。
「私みたいな外国人の独り者に育てられるより、この国の貴族の養女になって身分と生活を保証されるほうがずっとあの子にとって有利だし安全だし幸せです」
背中の温かい手が止まる。
「そんな言い方をして自分を卑下するな。君は一人で力強く生きてる立派な女性だよ。それにノンナはきっと帰ってくるさ。俺はそう思う」
「帰って来ない方があの子にとって幸せなのが、つらいんです」
「ビクトリア……。ノンナにとって何が幸せかはノンナが決めるよ。あの子なら大丈夫だ。君を選んで帰って来るさ」
胸に響く優しく低い声。優しく背中に置かれた大きく温かい手。
何もかも全部どうでもよくなっていたけど、少しだけ心に力が湧く。
またノンナと二人で暮らせるなら、ああもしてあげよう、こうもしてあげよう、と思うけれど。
「そうですね。帰って来た時に喜んでくれるよう、あの子の服にくるみボタンを縫い付けておかなくちゃ」
「そうだな。何かしら手を動かしていた方が気が紛れるかも知れない」
ゆっくり立ち上がって団長さんに頭を下げる。
「ありがとうございます。大丈夫です。料理を作ろうかな。夕飯、食べました?」
「いや。食べようかなと思ったところでヨラナ夫人からの知らせを貰ったんだ」
「じゃあ、何か作りますから食べて行ってくださいな」
「いいのか?手間をかけさせるね」
家にある物で刻み野菜のスープを作り、豚肉にスパイスを効かせてじっくり焼いた。いつもは穏やかな味付けにしているけど、今夜は香辛料多めの大人向きの味付けだ。あとは少し固くなった昨日のパン。
「これしかありませんけど」
「十分だよ。旨そうだ」
ノンナは帰って来るだろうか。
確かに団長さんが言う通り、たとえ六歳でもあの子の幸せはあの子が決めた方がいい。他人に押し付けられた人生が不幸だったらやりきれないが、自分で選んだことなら多少の波風は耐えて生きていけるはずだ。あの子は強くて賢いもの。
「ノンナはきっと帰って来ると思うが、君が嫌なら遠慮する必要はないよ。男爵の家に取り戻しに行けばいい。一人で心細いなら俺が付いて行く」
私は少し考えて首を振った。
「あの子の気持ちを一番に考えたいので、待ちます」
「そうか。気が変わったらいつでも連絡してくれ。付き添うよ」
団長さんは食事を終えてもしばらく心配そうにしていたが、「早く眠ったほうがいい」と言って帰って行った。






