35 アップルパイと侍女(1)
ノンナがクラーク様に「アップルパイが美味しい店を知っている」と自慢している。二人でコショコショと話をしている内容が、ノートに書かれた二人の綴りを点検している私の耳に入ってくる。
「そんなに美味しいのかい?」
「うん。アップルパイがすごく美味しかった。皮がサクサク。りんごたっぷり」
「あーいいなぁ。僕はアップルパイが大好きなんだ。毎日でも食べたいよ」
「今度一緒に行く?」
「そう?いいの?」
「いいよ。ビッキーと一緒に連れてってあげる」
「よろしく頼むよ」
これこれちょっと待ちなさい。
二人の会話が愛らしすぎて、丸つけする手が震えてしまうではないの。
「クラーク様、それではアップルパイを一緒に食べに行かれますか?」
「はい先生。行きたいです!」
「じゃあ、明日、バーナード様のお仕事が終わる頃にお迎えにあがります」
「いえ、僕が大伯父様の家に向かいます。その方が早いですから!」
バーナード様は全快されてご自宅に戻っていらっしゃるのだ。
そんなやりとりがあって今日は三人でザハーロさんに教わった南区のお菓子屋さんに来ている。店の隅にある飲食コーナーでクラーク様とノンナがアップルパイ、私がどっしりしたバターケーキを注文した。飲み物は三人ともお茶。
「先生、アップルパイがとても美味しいです。母も父も甘いものを好まないせいか、うちの料理人はあまりお菓子を作らないんです」
「そうでしたか。たまのことですからクラーク様はたんと召し上がれ」
クラーク様がうっとりした顔でアップルパイを口に入れ、ノンナがなぜか「どうだ」みたいな顔をしている。美少女の自慢顔はなかなかたまらないものがある。
三人で楽しく食べていたら、五十歳くらいの女性客が入ってきた。その人は服装や口調からおそらく貴族の使用人なのだが、何やら奥の方で揉めている。
「申し訳ございません。アップルパイは売り切れでして」
「まあ。ひと切れもないのですか?」
「はい。申し訳ございません」
「はぁ……どうしましょう」
あー。これは私がクラーク様のお土産にとワンホール買ったからかも。女性はずいぶん困っているようだった。私は後日でもいいのだから譲って差し上げよう。そう思って女性に声をかけた。
「あの、もしよかったら私がお土産用に買ったアップルパイがワンホールあるのでお譲りしましょうか?」
「よろしいのでございますか?」
「はい。私はまた後日でも大丈夫ですので」
その女性は何度も頭を下げ、出て行く時も私たちを振り返り、アップルパイを大切そうに抱えて去って行った。
「先生、そんなにアップルパイがお好きなんですか?」
「アップルパイは大好きですけどあれはエバ様や伯爵様にも食べていただきたいと思ったのです。でも甘いものがお好みでないなら他のものにします。他にも美味しいものはたくさんありますわ」
クラーク様が恐縮なさっているので
「いつもお屋敷で美味しいお茶とお菓子を頂いているお礼です」
と説明した。
その日は大満足のクラーク様をアンダーソン家の馬車に乗せてお見送りをし、ノンナと二人で帰った。
二人で浴槽の湯に浸かり、贅沢にもヨラナ様にいただいた高級品の石鹸で体を洗う。
その後はノンナと向い合せで穏やかに眠った。ノンナは一緒のベッドで眠るのが好きだ。
六歳児は一人で寝られる年齢だけど、彼女の生い立ちを考えると昼も夜も一人で生きていた分の寂しさを埋めてやりたくてそうしている。私はノンナが眠ってから起きて、本を読んだりバーナード様の翻訳をしたり体を鍛えたりするのが日課だ。
翌週。
「ねえビクトリア、あなた、ハンソン男爵の侍女と知り合いなんですって?」
「ハンソン……いいえ」
エバ様の言う侍女とやらに思い当たる人がいない。
「ハンソン男爵は私の夫と仕事で関わりがあってね。今日、奥様が珍しい茶葉を持って我が家まで来てくれたんだけど、付いて来た侍女がクラークを覚えていたのよ。あなたにアップルパイを譲ってもらったと言ってたわよ」
「ああ!わかりました。先週、南区の菓子店でお会いした方ですね。アップルパイが売り切れでとてもがっかりなさっていたんですよ。それで私がお土産用に買ったのをお譲りしたんです」
エバ様がふんふんと納得したようにうなずいている。その話はそれで終わったと思っていたのだが。
それから三日後。
ハンソン男爵様と奥様が例の侍女を連れて再びアンダーソン家を訪問した。そしてなぜかしばらくして語学の授業を終えた私とノンナが呼び出された。
「ビクトリア、ハンソン男爵は今日はあなたたちにお話があるそうよ」
「あら、なんでしょう」
アップルパイのお礼ならずいぶん大げさだな、と思った。嫌な予感がした。
私とノンナがアンダーソン家の応接室に入ると、いかにも貴族然とした夫婦が椅子から腰を上げてノンナを見る。二人とも金髪だ。女性の方は片手を口に当てて涙ぐんでいる。
(え?この人たち、ノンナの両親じゃないわよね?)
そう思いたくなるほどノンナと雰囲気が似ていた。
「初めまして」
私とノンナがそう挨拶をすると、男性の方も感無量、という顔をした。
「ビクトリア、座ってちょうだい。こちらはハンソン男爵と男爵夫人です。男爵、こちらがビクトリア、この子がノンナです」
私たちが腰を下ろすと二人がジッとノンナを見つめる。
「いや、侍女から話を聞いた時には半信半疑だったのですが、本当に似ています」
「ええ、ええ、本当にそっくりよ」
「あの、どういうことでしょうか」
すると男爵夫人がハンカチで目元を押さえながら話し始めた。
「娘は三歳で病死しましたが、六歳ならこうなっていただろうと思うくらいにそっくりなんですの」
「それでね、ビクトリア、ハンソン男爵はノンナを養女にしたいとおっしゃるの」
「……」
嫌な予感ほどよく当たる。
「申し訳ありませんが、この子を手放す気はありません」
「いや、よく考えて欲しい。聞けばあなたは独身で、働きながらこの子を育てているとか。我が家の養女になれば経済的にも十分なことをしてやれる。将来は親戚の男の子を婿に迎えて我が家を継がせてやれるんだ。この子のためにはその方がいいと思いませんか?」
そうね。身分と経済的なことは、確かにね。
「ビッキー、なんの話?」
「ノンナがこちらの男爵様の子供になりませんかってお話よ」
「ええ?いやだよ」
すると男爵夫人が割って入る。
「六歳の子供にはこの話の重要さがわかりませんよ。慣れた人がいいと言うに決まってます。でも、大人はこの子の幸せを考えてやらないと。あなたに何かあればこの子は路頭に迷うことになるでしょう?」
確かに私が病気や怪我で働けなくなったらそこで行き詰まるけど。
私が黙り込んだのを見て男爵が勢いを得て提案をした。
「ノンナ、どうだね、お試しで我が家に一週間だけ来てみないかい?今は貴族の暮らしがどんなものかわからないだろうが、暮らしてみたら気が変わるかもしれないよ」
「そうよ。あなたにドレスを作ってあげるわ。その綺麗な瞳に似合うアクセサリーも買い揃えましょう。お芝居を観に行くのもいいし、あなたのための可愛いお部屋を好きに使えばいいわ」
贅沢を味わえば子供の心が動くと思ってるのか。うちのノンナはそんなに安い人間じゃないのに。






