33 マイルズ・グラントさんと馬
早朝に走ることを一日おきに続けている。
バーナード様宅で掃除をするぐらいではどんどん体力が落ちるのを実感したからだ。走り始めてみたら、足腰の筋肉だけじゃなく心臓も肺も予想外に衰えているのを実感する。
夜明け前に走り出して一時間ほど走って夜明けとともに家に帰る。ヨラナ様の家の使用人たちはその頃に起き出すから、その前に塀を乗り越えないと。
走るようになって気づいたが、ヨラナ様宅の真後ろ、背中合わせに建てられている小ぶりな家には六十手前くらいの男性が暮らしている。私はその男性に少し興味があった。
その男性の家には艶々した黒い毛の大柄な馬が一頭いて、何度か男性がその黒い馬を走らせているのを見た。走っている様子はほれぼれするほど美しく、人と馬がひとつの生き物のようにさえ見える。
乗っている男性は短い白髪、堂々たる体躯。元軍人だろうか。
しばらく前、その男性がいつも私が通る林の中の小川で馬を休ませていた。林の手前で走る速度を落として林に入った私と男性の目が合った。ここで私が回れ右をして出たら感じが悪いだろう、と思って声をかけた。
「おはようございます」
「おう、おはよう。走ってるのか?」
「はい」
「女なのに珍しいな」
「そうかもしれないですね」
そこから二人で少し天気や季節の話をし、私はぺこりと頭を下げてまた走り出す。そんなことが何回か続いた。男性は私と挨拶するのを楽しみにしているようだった。実は私もだ。
ある日、ついに男性が天気と季節以外のことを話しかけてきた。
「君は何をしてる人だい?」
「働きながら子供を育てている平民です」
「ほぉ」
男性が面白そうな顔をした。私は馬に近寄り声をかけてからそっと鼻筋を撫でた。
「立派な馬ですね」
「もう年寄りだ。俺と同じだよ」
そこから男性が自己紹介してくれた。
男性はマイルズ・グラントさん。元軍人で愛馬と共に引退するまで軍の現場にいたのだそうだ。
「きっとお国のためにご活躍されたのでしょうね」
「いいや。ご存知の通りこの国は戦争をほとんどしない。たいした活躍はしてないさ。それでも一人で暮らしていけるだけの恩給を出してくれるんだからありがたいと思ってるよ」
マイルズさんはそう言って笑いながら馬の首を撫でる。馬は嬉しそうに鼻先をマイルズさんに擦り付けた。
「馬、いいですね。私も乗りたいのですが、大家さんの離れを借りて住んでいる身なので。とてもいい大家さんですが、さすがに気が引けてしまって」
マイルズさんは薄い水色の目を瞬かせて私の話を聞いていたが「馬なら、俺が面倒を見てやろうか? 飼いたいと言うならさすがに乗れるんだろう?」と言う。
「馬には乗れます。軍人の兄に鍛えられました。いいんですか?もちろんお世話代はちゃんとお支払いします」
「良さそうな馬を選んでやってもいいぞ。おそらく馬の目利きは君よりできるだろう。まずはこいつに乗って見せてくれるか? 腕前に合わせて選んでやる」
私はマイルズさんの馬に跨り、その辺りを歩いたり走ったりしてみせた。
「なるほど。まあまあ上手いな。希望は?」
「長い距離を走れる馬です」
「わかったよ」
とんとん拍子に話が進んで、マイルズさんに馬の購入と預かり、お世話の手間賃をお支払いして頼むことが決まった。
それから数日して、林の中に二頭の馬とマイルズさんが私を待っていた。
「マイルズさん、もしやその馬は」
「君の馬だ。よく走る。頭もいい。値段も君が言った上限より安かった。アレグという名で呼ばれていたらしい。乗ってみるといい」
アレグは初対面の私を観察するように目で追っていたが、私を乗せておとなしく言うことを聞いてくれた。ゆっくり歩き回り、試しにその辺を軽く走らせる。いい。とてもいい。
「気に入りました!ありがとうございます」
「じゃあ、世話は任せとけ」
「ありがとうございます。一日おきに走らせます」
「夜明けの頃にか?」
「はい」
マイルズさんはほとんど実費で世話をしてくれることに決まった。手間賃を取らないと言う。
「馬の世話が大変なことは知ってますよ、私」
「俺は暇なんだよ。それにあの馬がいれば俺の馬が『若いもんに負けてたまるか』と元気になるから丁度いい」
そう言って笑った。
馬が欲しいのは万が一の時にノンナと二人で逃げる手段が欲しいからだ。ヨラナ様の馬や馬車をかっぱらうようにして逃げることはさすがにできない。
家に帰り、朝ごはんを作る。
ノンナを起こして一緒に食べながら馬の話をした。
「ノンナ、馬に乗る練習をしてみない? もちろん私と一緒に乗るのよ」
「馬? ビッキーと一緒だったら乗りたい!」
ノンナが目を丸くしてフガフガと鼻息も荒くしてパンを食べながら椅子から腰を浮かした。
「私の仕事があるから、馬に乗る時は早起きしなくちゃならないけど」
「起きるよ! 早く起きる!」
「よし、じゃあ明日の朝から一日おきに馬に乗るからね」
「わかった!」
「あ、それとね。馬に乗ってることは母屋のみんなにはまだ言わないでくれる?」
「なんで?」
「ノンナが上手に乗れるようになるまでは、危ないからやめなさいって言われるかもしれないし」
「そっか。わかった。木登りが好きって言ったらたくさんの人にやめなさいって言われた」
言ってしまったか。そうか。言うよね。
「馬も上手に乗れるようになるまでは心配かけるから」
「わかった。上手に乗れるようになったら言ってもいいの?」
「そうね。私がいいよって言ってからね」
「わかった」
その日一日ノンナはバーナード様の家でもソワソワしていた。よほど楽しみだったらしい。私が注意して様子を見ていると、バーナード様に「あのね、あのね、秘密なんだよ!」と囁いて走って逃げるという謎の行動を取っていた。
バーナード様は研究中なので私はそっとドアを閉めてノンナの好きな銀食器磨きを頼み、目の前にいてもらうことにした。私は同じ台所のテーブルで翻訳仕事をした。ノンナは銀のスプーンやフォーク、ナイフを磨きながら時々私と目を合わせては「むふぅぅ」と笑う。
「楽しみね。今夜は早くお風呂に入って早く寝ましょうね」
「うん! 馬ってどんな食べ物が好きなの?」
「私たちが肉やパンを食べるように草を食べるわ。でも私たちがお菓子を食べるようにリンゴやニンジンが大好きよ」
「ふぉぉぉぉっ! ねえ、ビッキー、帰りにニンジンとリンゴを買って帰りたい」
「うん。いいわよ。買って帰ろうね」
「ふぉぉぉぉっ」って。思わず「ふふふ」と笑いが漏れてしまう。
ノンナは口を開かず回し蹴り膝蹴りをせず、静かに座っていれば貴族のご令嬢に見えるけど、中身はとても活発でおもしろい。
その夜、ノンナは夕飯を食べ終わるとすぐに自分からお風呂に入り、歯を磨いてさっさとベッドに入ってしまった。私も明日の朝が楽しみだ。
この話の続きがタイトルしか書けてませんw






