29 自由市とハンスの思い出
王城近くの広場で月に一度『自由市』が開かれている。自由市は商業組合に登録していない一般市民が小さな区画を使って好きなものを売ることができる市だ。安い参加料さえ払えば誰でも一日店長になれる。
自由市は王都だけでなくある程度の大きさの地方都市でも開かれている。国も国民の参加を推奨している。さすがは商業王国。
美味しそうな焼き菓子を三つ買い、クラーク様とノンナに手渡してみんなで歩きながら食べる。何歩か歩いてからハッとしてクラーク様を見ると、クラーク様は緊張したお顔で食べ歩きをなさっている。
(食べ歩きなんて品のないことをするのは初めてでしたか。いやはや申し訳ない。でも人生は何事も経験ですよ)と思いながら歩く。
店は七、八十軒くらいあるだろうか。もっとあるかもしれない。呼び込みの声が飛び交っていてとても活気がある。
私たち三人はパンと菓子の店、野菜の店、古本、古着、手作りおもちゃ、各種人形、生花、アクセサリーなどの店を順番に見て回っていた。
「ビッキー、あれ見て!」
ノンナが指差す店はくるみボタンの店だった。大小様々なボタンを布で包んだくるみボタンが黒い布の上にズラリと並べられている。小さな花畑みたいに愛らしい店だった。
売っている人は私と同年代の女性だ。その女性は簡素なストンとした灰色のワンピースを着ている。ワンピースの前に一列に縫い留められたくすんだピンクのボタンは全部小さなくるみボタンだ。おしゃれ。
「素敵ですね」
「でしょう?ゆっくり見て行ってください」
ノンナも私もワクワクしてしゃがみ込んで眺めた。
「このボタンは髪飾りにしても可愛いですよ。お嬢さんにはほら、これなんか似合いますよ」
紺色の絹で包まれ中に綿が入ってぷっくり膨らんでいる大きなくるみボタンをノンナの頭の横に当てて「ね?」と私を見る。色味の濃い金髪をひとつの長い三つ編みにしたその女性は化粧っけがなく、透明感のある素肌が美しい人だった。
「ビッキー、買ってもいい?」
「いいわよ。どれがいいの?」
ノンナが冬の晴れた日の空のような明るい水色のくるみボタンを指さした。なるほど。このボタンを白いワンピースに縫い付けたら可愛いかも。
「このボタンを五つください。それとこの深緑のも五つ」
「はい、ありがとうございます」
ボタンを買ってもらって、ノンナの歩き方が踊るような足取りになる。よほど嬉しかったらしい。
クラーク様は古本の店を覗き、二冊買っている。私も何か買いたいな、とあちこちを見て回る。
そして見つけた。こんな奇跡があるか、と言うぐらい欲しい物を。それは髪の毛。美しく長い黒髪が細い革紐で括られて売られていた。
艶のある真っ直ぐな美しい黒髪はなかなか手に入らない。即、買った。子供たちは「うわぁ」「不気味です」と引いていたが、これで黒髪のカツラが作れる。
私はホクホクして帰った。しばらく夜なべ仕事に不自由しない。
自由市、最高だ。
その日の夜中。
「ビッキー!ビッキー!」
「はい、はいはい」
ノンナの声で慌てて飛び起きる。寝坊した?でも部屋が真っ暗。え?
「大丈夫?」
「なんで?今、夜中よね?」
「ビッキー、叫んでたよ」
「……なんて叫んでた?」
「やめてー!って」
ああ、またか。
「ごめんね。怖い夢を見たのよ。大きな声を出して驚かしたわね」
「いいよ。ビッキーと一緒に寝てあげようか?」
「そうしてくれる?」
ノンナがするりと寝具に潜り込んでくる。二人で布団を被るが、目は覚めてしまった。ノンナが寝息を立てているのを確認してベッドから抜け出した。
台所に行き、ランプに火を点けてコップに水を汲み、飲んだ。
嫌な感じに冷や汗をかいていて、夜着がじっとり肌に張り付いて気持ち悪い。
精神科の医師に『クロエはなかなか見ないほどの図太い精神の持ち主』と褒められた私だけど、そんな私でも仕事で負った心の傷はある。『やめて』と叫んだのなら、おそらくあの件だ。
私が二十二歳、同僚のメアリーが二十一歳の時のこと。当時十五歳のハンスと三人でとある貴族の屋敷に隠されている『重鎮による不正の記録書類』を盗み出す仕事だった。
ランコムがメアリーに話しかけた。
「今回はメアリーがリーダーだ。初めてのリーダーだから慎重に行きなさい」
「はい、室長」
そして問題の夜。
実行直前にメアリーが配置を変えた。
「クロエ、私とハンスが侵入するからあなたは見張り役を頼むわ。ハンス、あなたは私の後から来なさい」
「はい」
「待って。話が違うわ。ハンスが見張りのはずよ」
私がそう言うとメアリーが露骨に嫌な顔をした。
「私がリーダーよ。従って」
「でもハンスは初仕事だわ。見張り役をさせるべきよ」
「だめ」
私とメアリーの険悪な空気に配慮してハンスが
「俺、行きます。クロエさん、俺、大丈夫ですから」
と言った。メアリーと普段からギクシャクしていた私は面倒になって変更を了承した。
二人がその家に侵入してしばらくしてから屋敷の中で激しい物音や怒鳴り声がした。そしてメアリーが窓から飛び出してきた。少ししてハンスも。
追いかけてきた大柄な男が追いつけないと判断したらしく、重そうな剣を投げた。剣は吸い込まれるようにハンスの胸を貫いた。ハンスは胸の前から剣先を出したまま前のめりに倒れ、動かなくなった。
屋敷の中で何があったのかはわからない。だけどメアリーが初仕事のハンスを置いて自分が先に逃げてきたのは事実だ。
私とメアリーはひたすら走り、用意していた馬に飛び乗って逃げ帰った。中央管理室に戻ると、報告もしないうちにいきなりメアリーが絡んできた。
「クロエ、言いたいことがあるなら言えば?」
「私に絡むのはやめて」
「いっつもいっつも優等生ぶってさ。ほんとイライラする。ランコムに贔屓されて大きい仕事ばっかり貰って!贔屓で一番になってるくせに偉そうに!鬱陶しいのよっ!」
いつもはその手の嫌味は無視する私が立ち上がると室内の他の隊員たちの間に緊張が走った。
「ランコムの采配に不満があるならランコムに言うべきじゃない?私に言うのはお門違いよ。ランコムには何も言わずに私にぶつけるなんて、ランコムに媚びてるのは私じゃなくてあなたでしょ?恥を知りなさいよ」
いきなりメアリーが殴りかかってきた。
(馬鹿め。先に手を出した者が懲罰の対象なのに)
私はメアリーの拳を避けて彼女の顔面を肘打ちした。明日彼女の顔が青あざで酷いことになるだろうけど、知るか。ハンスは胸を貫かれて死んだ。遺体の回収もできなかった。私とメアリーのせいだ。
顔を押さえて呻いてるメアリーの耳元で囁いた。
「最低のリーダーとはね、リーダー風は吹かせるけど何かあれば真っ先に逃げて後輩を死なせる、あんたみたいな人のことよ」
唸り声を上げて飛びかかろうとするメアリーを男たちが羽交い締めにした。
「あんたは興奮しやすい。だからいつまでたっても大きな仕事が回ってこないの。私が上司でも感情の制御ができない人に大きな仕事なんて恐ろしくて回せないわよ。なんで急に配置を変えた?なんでハンスを置いて逃げた?失敗したイライラを私にぶつける前にハンスに両手をついて額を地面に擦り付けて謝りなさいよ。どれだけ謝ってもハンスは生き返らないけどね!」
メアリーが配置を変えず私が面倒だと思わずに引き下がらないでいれば、ハンスは見張り役のままだった。死なずに済んだ。死んだら終わりだ。どんなに後悔しても謝っても、死んだ人間は帰ってこない。ハンスは私とメアリーのせいでこの先の全ての可能性を閉ざされたのだ。
もう今夜は眠れそうにないから夜なべ仕事を始めた。自由市で買った長い黒髪でカツラを作ろう。隊では買って済ませる人もいたが、私は自分のカツラは自分で作る。
束ねたまま洗って乾かした髪の毛を数本ずつ取り出して極細のかぎ針でネットを編む。自分の頭にピッタリ合うネットを編み、そこにまた数本ずつ髪の毛を通して結び留めていく。気の遠くなるような手間のかかる作業だけど、私はこの作業が嫌いではない。
指先に神経を集中させて作業をしていると、次第に心が落ち着いてくる。そして普段は思い出さない記憶が浮かんでくる。
今夜はハンスのことを思い出している。
笑ってるハンス。
美味しそうに肉を食べているハンス。
同期の少女を好きだったハンス。
妹が美人なんですと自慢していたハンス。
「俺、出世したいっす」と言ってたハンス。
私がハンスを忘れないでいることが十五歳で人生を終えた彼への謝罪であり、自分への戒めだ。
私は非合法な仕事をするために国に育てられ、報酬を貰って生きてきた。そんな私にも守りたいものはある。防げる死は防ぎたいのだ。『死んだら終わり』を普通の人よりたくさん見てきた。
「終わった仕事は全て忘れろ。後悔は毒にしかならない」
そう言ってくれたのはランコムだった。あの時はその言葉がありがたかった。
でも今は違う。ハンスの死を忘れたら、人として大切な何かをゴッソリ失う気がするのだ。






