28 ノンナのお留守番(3)
バーナード様からお預かりしたハグル王国の古い本の内容をまとめている。
「ビッキー、お茶淹れたよ」
「ありがとう。休憩にするね」
新しい名前の身分証を手にした兄妹は、陽のあるうちは荷馬車で進み、夜は宿に泊まりながら国の端まで移動してるはず。そこから先は私は関われないし関わる気もない。
とても眠い。
夜中は身分証を作るのに費やしていたから毎日一時間か二時間くらいしか寝ていなかった。
隣で私に何かを話しかけているノンナの声を聞きながら、私は長椅子で睡魔に引きずり込まれた。しばらくして目が覚めたら毛布がかけられていた。
一方、王城の牢番たちはいまだに狐につままれたような気持ちだ。
赤毛で細身の女は毎日夕方に面会に通って来た。面会のたびに「二人きりにしてほしい」と牢番に頼み、毎回一時間ほどすると涙を拭きながら帰って行った。
男はもうすぐ処刑される予定だったし牢の鍵はかけられていたから、牢番たちは最初だけ立ち会った後は牢番の待機所にいた。牢獄へ続く通路は行き止まりで、待機所の前を通らなければ外に出られないのだから逃げられる心配はない。兵士もいる。牢獄の外は巡回の兵士もいる。
なのに昨日、いつもの女性が面会に行ったきり一時間を過ぎても戻らなかったので見に行くと、二人は消えていた。牢の鍵はかけられたままだったが窓の鉄格子が全部切られていた。
大騒ぎになって城門は閉じられ、総出で城の敷地内を探したが二人は見つからなかった。その後は第二騎士団や警備隊員で王都全域まで範囲を広げて大規模な捜索がなされたが、いまだに脱獄犯も赤毛の女も見つかっていない。
男の脱獄から二週間後の夜。
団長さんが「人気店の菓子を買ってきた」と言って我が家を訪問した。
お茶を淹れて三人で甘いケーキを食べた。クリームの上にシロップ漬けの栗がたっぷり並べられている。贅沢で美味しいケーキに思わず私の顔が緩む。ノンナがお皿についたクリームを舐めようとしたので「だめよ」と注意する。
ハッとするノンナ。
「そういうことはね、お皿を台所に下げてからね」
と真面目な顔で言うとノンナと団長さんが同時に吹き出した。
「うーん、美味しい!団長さん、お疲れのご様子ですね」
「うん、美味いな。疲れては……いるかな。実は夜会のあの男が脱走したんだ。手引きする者がいたらしいよ」
「え……」
「王城は大変な騒ぎだったよ。王城の牢獄から罪人がいなくなったんだからね。由々しき事態だよ。俺たちも二週間ずっと王都内を探して回ってたんだ」
団長さんの顔には疲労が滲んでいる。
「本当にお疲れさまでした。それで脱走した男は?」
「上手くどこかに潜り込んだようだ。兄妹の家も見てみたが、妹は『誰も知り合いがいない場所の修道院に入って天に召される兄の為に祈る』という書き置きを残して家を出ていた」
「そうだったんですか」
私はカップの中を見つめながら言葉を返す。
ノンナは私たちの話に興味がないらしくケーキを食べ終えて皿を下げ、部屋の隅のソファーで本を読みだした。流しに置く前にお皿のクリームをペロリと舐めることを忘れなかった。
私は団長さんに新しく熱いお茶を淹れた。
「脱走犯はいずれ捕まるだろうと言うのが大方の予想だ。脱走の情報は早馬で王都の全ての外門に送られるからね。脱獄してから急いで王都の外門に向かっても、まず間に合わないんだ」
「そうなんですか」
私は熱いお茶でケーキの最後のひと口を飲み込んだ。
「王都で隠れるなら貧民地区に潜り込むのが常だけど、男は素人だから懸賞金目当ての密告でいずれ捕まるだろう。妹さんのことを思うと俺も気の毒とは思うが……仕方ない」
「そうですね」
しんみりした空気のまま団長さんが帰ることになった。あまりに申し訳なくて、私は思わずその腕にそっと手をかけて話しかけた。
「団長さん。何年先でもいいんですが、いつかお休みが取れたら三人でカディスに行きませんか。カディスでは夏至の日の夜、ろうそくを乗せた小さな木の船を海に流すそうですね」
団長さんの顔が少し和らぐ。
「ああ。よく知ってるね。ろうそくが燃えている間だけ亡くなった人の魂がこの世に戻って来ると言われているんだよ」
「少しだけこの世に遊びに来てくれるんですね。私、家族の魂に遊びに来てほしいです。伝えたいことがたくさんあるんです」
団長さんが私の頭をそっと胸に抱え込んだ。
「必ず行こう。夏至の夜に小舟を浮かべよう。約束だ。何があってもそのくらいの休みはもぎ取るよ」
団長さんは少し元気になって帰って行った。
私はノンナが本を読んでいるのを確認してから、小さな布袋に詰めた赤毛のカツラを更にクッションの綿の中に詰め直して丁寧に糸で縫い閉じた。
(ごめんなさい)
心の中で団長さんを含め必死に捜索していたであろう真っ当な人たちに頭を下げた。許してくれとは言わない。私はいつかこの身にバチが当たると思っている。
アシュベリー王国の南端の村に二十代の兄妹がやって来た。
二人は仲良く働いて慎ましく暮らしている。二人は親が死んで住むところを失い、遠い東の村から流れて来たという。村長が空き家を手配して住まわせた。
兄妹は放棄されていた耕地を借りてよく働き、村人たちにも愛想良く接している。
ある夜、台所のランプの下で妹が兄に話しかけた。
「こんな生活を送れるなんて夢みたい。お兄ちゃんが私のせいで死刑になるなら私も同じ時刻に死のうと思っていたのに」
「お前には心配をかけたな。悪かったよ」
「ううん。あの人が言ったように、私たちは復讐する努力より幸せになる努力をするべきだったのよ」
妹が引き出しから身分証を取り出してテーブルに置いた。それを二人でしみじみ眺める。
どこからどう見ても正式な身分証だった。紙の手触りも、精密な地紋様も、印刷された文字も。
「これ、どう見ても本物だよな」
「あの人、もしかしたら身分証を作るお役人なのかしら」
「さあ、俺にはさっぱりわからない」
「なんのお礼もしないままなのが心苦しいわね」
「連絡を取られるのは迷惑だってはっきり断られたから仕方ないが、いつかお礼ができたらいいのにな」
「私には『これは自分のためにやってるんだから気にするな』って言ってたけど、どういう意味なのかしらね。私たちが幸せに暮らすことがお礼だとも言ってたわ」
二人は派手な赤毛の女性がなぜ自分たちを助けてくれたのか全くわからないままだ。「途中の宿代と新生活に使いなさい」と渡されたお金はまだ三分の一も残っていた。
妹は兄が処刑されなかったことと殺人者にならなかったことを感謝している。
ノンナが眠った後、私は靴を丁寧に磨いている。
その靴の左右のヒールの中には糸鋸を丸めて収納してある。歯はすっかりなまくらになってる。歯の目立てをするべきだろうか。もう鉄格子を切ることはないと思うが。
靴を磨き終えてきちんと揃え、玄関脇の靴入れに収納した。あの時は靴底の中にも鍵開けの小さな金具も仕込んであった。今、靴底は膠隠で閉じてある。鍵開け用の道具は別の場所に隠した。
今回のことを人に知られたら偽善者と言われるだろう。なんと詰られてもいい。甘んじて詰られる。






