23 クラーク少年の訪問
私がクラーク様の語学を担当するようになって初めてのお休みの日。
レッスンは週に五日。週末はお休みだ。ノンナと二人で家の掃除や洗濯をして「これから刺繍をしましょう。やり方を教えてあげるね」とノンナに持ちかけたところでドアがノックされた。
「はい。どちら様?」
「クラーク・アンダーソンです」
驚いてすぐにドアを開けると、クラーク様が一人で立っていた。
「まあ、クラーク様、どうなさいました?」
「今日も先生にお会いしたくて」
そんなに授業が楽しかったのか。よかったねぇ。
「まあまあ。それは。さあ、どうぞ。お入りくださいな」
クラーク様はチラリと部屋の中を興味深そうに見たが、なんとなく恥ずかしそうだ。
「お茶をいかがです?」
「はい、頂きます」
ノンナが茶器を用意して私がお湯を沸かし、昨夜焼いておいたクルミと干しイチジクのケーキを切り分けて出した。ソワソワしていたクラーク様はひと口ケーキを頬張ると「んんっ!」と驚きの顔になった。
「お気に召しましたか」
「はい。とても。これはどこの店のケーキですか?」
「ビッキーが焼いたの」
「そうなんです。昨夜ノンナに手伝ってもらって焼きました」
「わぁ……」
うっかり可愛い声を出してからハッとして赤くなるクラーク様が可愛い。
「お代わりもありますから。ゆっくり食べてくださいな」
「ありがとうございます。先生はなんでもできるんですね」
「なんでもはできませんよ」
「いいえ!バーナード大伯父様がいつも先生の自慢話をしています。四ヶ国語に堪能で料理も掃除も手際が良くて、書類を分類するのも上手だって。それに運動もできるではありませんか」
ノンナが『そのとおり!』みたいに自慢げな顔をしているのが微笑ましい。
「私はなんでもしなければならない環境で育ったんです。八歳で親元から離れて、言われたことはなんでもしなければなりませんでした。外国語も最初は覚えなければならないから学びましたが、やってみたら楽しかったんです」
「楽しかったんですか?」
クラーク様が驚いたお顔になる。
「ええ。私、今まで旅行をしたことがなくて。今回この国に来たのは初めての自由行動でした。以前はいろんな国のことを本で読むのがとても楽しみでした。仕事先に本がたくさんあったのですが、外国語の本だったから最初は読めないまま挿し絵だけを眺めていました。そのうち我慢できなくなって本を読めるように勉強したんです」
「そんな本があったということは貴族の家で働いていたんですか?」
「ええ、その時は貴族の家でした」
クラーク様はお代わりしたケーキを食べ終えると
「僕は勉強が苦手なんて言って、贅沢でしたね」
としょんぼりした感じにつぶやいた。
「僕、頑張ります。先生の授業はとっても楽しくて、どんどん言葉を覚えられるんです」
「まあ嬉しい。これからも頑張ってくださいな」
私がそう言うとノンナが
「今日もお勉強したい!」
とキラキラした目で言う。見るとクラーク様の目もキラキラしている。二人の子供にこんなに期待されては断るわけにはいかない。
「わかりました。では今日はお屋敷ではできないお勉強をしましょうか」
「木登り!」
「ノンナ、木登りはクラーク様には……」
「やりたいです!僕にも木登りを教えてください!」
「ふふふ。では木登りをしながらお勉強もしましょう」
ノンナと私は着替えて、家を出て少し歩いて王子と闘った場所に着いた。ここは大きな木もたくさん生えていて木登りの練習をするには丁度いい。
「この木にしましょうか。木に登る時はそれが生きているかどうかを必ず確認してくださいね。葉がついていない枯れ木に登ると太い枝でも突然折れて大怪我をします。頭を打てば死ぬこともあるんです。葉がついてる木は生きてます。冬で葉が落ちている時は小枝を折ってみるとわかります。ポキっと簡単に折れる木は避けましょう」
「なるほど。わかりました」
「では私が最初に登って見せますから、どの枝を選んでどの順番で足をかけたかを参考にしてください」
靴を脱ぎ靴下になって二人の尊敬の眼差しを受けながら木を登る。
私がスルスルと高い位置まで登ってから逆の手順で降りると、我慢できなかったらしいノンナが靴下になって慣れた動きで木に登った。私が登った場所までたどり着くと枝に腰を下ろして手を振った。
「よし!僕も!」
そう言ってクラーク様がノンナを真似して靴を脱ぎ、苦労しながら木を登る。クラーク様はノンナの何倍もの時間をかけてノンナの座っている枝の近くの枝に腰を下ろすと気持ちよさそうに笑った。
「枝」『枝』
私がそう声を張り上げて二つの国の言葉を伝えると二人がそれを真似する。
「登る」『登る』、「木に登る」『木に登る』、「高い枝」『高い枝』、「降りる」『降りる』
可愛らしい声が後に続く。
「高い木に登り、降りる」『高い木に登り、降りる』
「二人とも素晴らしい!さあ、ノンナから降りていらっしゃい」
木登りは登る時より降りる時の方が危険だ。ノンナが危なげなく降りてから私がクラーク様の上まで登ってから彼の身体に持参した紐を回す。脇の下あたりで紐を二周巻き付けてもらってから紐の端を私が持ち、一緒に降りてもらう。途中、これを離れた場所から見物している団長さんに気がついた。
あららぁ。
私たちが無事に地面に降りたところで団長さんが近寄って来た。
「クラーク、すごいじゃないか」
「ジェフおじ様、こんにちは。僕、初めてあんな高いところまで木登りできました!」
「楽しかったか?」
「はい!」
団長さんが私に笑いを含んだ視線を向けてきたので大変にきまりが悪い。どんなお転婆だと思ってるだろうし、大切なアンダーソン家の一人息子に木登りをさせたことをどう思っただろうか。そして前回抱きしめられたことを思い出してしまったではないか。
「大切な坊っちゃんに余計なことを教えてしまいました」
「いや、いいさ。クラークがこんなに楽しそうにやんちゃをするのを初めて見た。以前からおとなし過ぎるのはよろしくないと思ってたんだ。君は今日、休みだったろうに悪かったね」
「いえ、私も楽しみましたから」
私たちがしゃべっている間に二人の子供たちは身体を動かしながら『枝』『登る』『高い』などの覚えたてのランダル語を叫びながら追いかけっこをしている。楽しそうだ。一時間以上二人は飽きもせず仲良く遊んでいた。
「そろそろクラークを家まで送ってくるよ。そのあと君たちを食事に誘ってもいいだろうか」
「ありがとうございます。でも、頻繁すぎませんか?」
「これでもだいぶ我慢してから誘ったんだが」
そう言って視線を逸らす大男はそれを見ている私を優しい気持ちにしてくれる。
「気楽な店だから服装も気楽なものにしてくれ」
「はい」
照れながら語る団長さんは不器用で大きい銀色の熊みたいだ。
クラーク様は残念そうな顔をしていたが「また遊びに来てください」という私の言葉に嬉しそうに何度もうなずいて団長さんと帰って行った。
「ノンナ、今夜は団長さんと三人でお食事に行くのよ」
「ビッキー、おしゃれするの?」
「少しだけかな。おしゃれをしなくてもいいお店だそうよ」
「おしゃれするお店としないお店があるの?」
「そうよ。ノンナも少しずつそういうことも覚えていこうね」
「うん!」
私は淡い若草色のワンピース、ノンナは紺色のワンピースに着替えて私とお揃いのワイン色のリボンを結んだ。
「楽しみね」
「うん!クラーク様と木登りも楽しかった!『高い木に登る』も覚えた!」
「すごいわ。ノンナは外国語を覚える才能がある!」
「やったー!」
飛びついてきたノンナを屈んで抱きしめて、ノンナの子供らしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。こんな平和な匂いが大好きだと思った。






