22 語学の授業
王家の方からは何も言ってこない。
王子殿下ともあろうお方が平民の女にやっつけられた、と言えないからだろうか。このまま自分で転んだことにしてくれたらありがたい。私は絡まれた側だけど、平和が一番。
そんな折、助手の仕事が当分なくなった。
バーナード様が本棚の一番上の本を取ろうとして脚立から落ち、利き腕を骨折された。エバ様がいらっしゃった時だったのが不幸中の幸いだった。
「悪いわねビクトリア。伯父様は回復するまで私の家で療養してもらうのよ。その間うちで働かない? お給料は伯父のところと同じ額を出すわ」
「エバ様のお宅で何をすればいいのでしょう」
「息子の語学の家庭教師をお願いしたいのだけど」
貴族の坊ちゃんの家庭教師? なぜ? と怪訝そうな顔をしてしまった私に、エバ様が説明してくれた。
「実はね、うちの一人息子は十二歳なんだけど、外国語が苦手なのよ。家庭教師はもちろん付けているけどさっぱり成果が出てないの。四カ国語が堪能なあなたに頼みたいんだけど、だめかしら。夫がね、『先生を替えてみたらどうか』って。あなたは助手の仕事がしばらくなくなるんだもの、ぜひお願いしたいわ」
「私でなくても」
「夫があなたがいいんじゃないかって言うの。歴史学者の助手が務まるくらい堪能なら子供の家庭教師もできるだろうって。確かにその通りだと思うのよ」
エバ様の勢いに圧倒される私。
「私はノンナがいますし、本職の家庭教師の方に比べたら……私のは独学ですし」
「あら、ノンナも連れていらっしゃいよ。クラークは一人っ子だから喜ぶと思うわ。独学でもなんでも身に付けてるんだから素晴らしいわよ。アシュベリー語なんて完璧だわ」
そうは言われてもノンナを連れて貴族様の子供の相手っていうのが不安要素だ。
「少し考えさせていただけますか?」
「考えてみて。いい返事を期待しているわ」
まずはノンナに聞いてみよう。あの子が私の優先順位の一番だもの。
「ビッキーが一緒ならいいよ」
「でもノンナのことが心配だわ」
「平気」
「貴族のお坊ちゃんと一緒なのよ?」
「大丈夫」
「そう? じゃあ、何か嫌なことや怖いことがあったら必ず私に言ってくれる?」
「うん」
それならばと承諾の返事をしようとエバ様のお屋敷を訪問した。アンダーソン伯爵家のお屋敷は豪華な造りで大きかった。
まずバーナード様のお見舞いをしたのだが、バーナード様はしょんぼりなさっていた。痛みもあるだろうが、脚立から落ちたことで体の衰えを自覚なさったのが精神的に堪えたらしい。
「突然こんなことになってすまないね、ビクトリア。骨折が治ったらまた助手を頼むよ」
「こちらこそよろしくお願いいたしますバーナード様。まずはお怪我を治すことに専念なさってくださいませ」
元気のないバーナード様の様子に胸が痛む。祖父母を知らない私にとって、バーナード様は恐れ多くて口にこそ出せないが『大好きなおじいちゃん』みたいな存在なのだ。
クラーク様はソバカスのある赤髪の少年で、ほっそりした体つきだった。十二歳の男の子はもっと手に負えない感じかと思ったがおとなしそうだ。緑色の目で私とノンナを緊張したように見てから挨拶をしてくれた。
「こんにちは。クラーク・アンダーソンです」
「こんにちは。ビクトリア・セラーズです。この子はノンナです。今後はノンナも一緒におじゃまします。よろしくお願いします」
「ノンナです」
クラーク様はノンナにもペコリと頭を下げた。貴族の一人っ子だと聞いていたから気難しいかと心配していたが素直そうだ。
「エバ様からハグル語とランダル語を頼まれています」
「ビクトリアさんはどちらも話せるんですか?」
「はい。語学が趣味なもので。日常会話なら問題ありません」
「僕は……頭がこんがらがってしまって、外国語は苦手です。父は外務大臣だから僕にハグル語とランダル語は絶対に習得しなさいっておっしゃるけど、全然覚えられません。それに、運動も苦手で。得意なことがないんです」
かなりご自身に自信がないご様子。
「今までどんな授業を受けていたのか知りたいのでノートを見せていただけますか?」
クラーク様が机からノートを持ってきてくれた。
ノートには几帳面な字が並んでいて、繰り返し綴りの練習をしているから努力はしていたようだ。だが、その内容を読んで私は(ははぁん)と納得した。
授業は最初から文法が入っていた。文学の名作を文法を解説しながら教えていく方法。これは効率が良いようでいて学ぶ側の苦痛を考えていない。間違うことを認めないやり方だ。間違えてもいいから使って覚えるほうが早くて楽しいのに。間違ったら直せばいいんだし。
「わかりました。まずは私のやり方で始めてみましょう。クラーク様のお好きなことはなんですか?」
「好きなことって?」
「私は料理と運動が好きですわ」
うーん、と考え込むクラーク様。ノンナに聞いてみる。
「ノンナは何が好き?」
「本。あと鍛錬!」
ノンナがそう答えるとクラーク様が「鍛錬?」と不思議そうな顔をする。
「高い塀に登るの。木登りも。空中でくるりっと回るのも!」
自慢げに語るノンナに思わず苦笑する私。
「なにそれ。見せてくれる?」
「いいよ!」
ノンナが私を見る。私がうなずくとノンナは床の上でタタッと数歩走ってから前方宙返りを披露した。きれいに決まったけど、次からはスカートじゃなくてズボンを履かせて連れてこよう。
「女の子なのにすごいな」
「女の子だからです。悪い大人に襲われた時に自分の力で逃げられるようにしておかなければなりませんから。これができるといろいろ便利……だと護身術の先生に聞きましたよ」
「へええ」
感情が宿ってなかったクラーク様の目に好奇心のきらめきが生まれた。よし、食いついたみたい。
「それで、クラーク様は何に興味がありますか」
「僕もノンナみたいな鍛錬を受けてみたい!」
そう言うと思いましたよ。怪我だけはさせないように配慮が必要だけど、体を動かしながら言葉を覚えるのは経験上効率が良い。
「わかりました。ではランダル語から始めましょうか。同時に二か国語だとややこしくなるかもしれませんから」
これならノンナも一緒に参加できるからありがたい。
「さ、ではまず準備運動から。ここからはアシュベリー語、ランダル語の順で指示を出します。耳で覚えましょう。言葉の綴りは訓練の後、その日のうちに覚えましょう」
「はい!」
準備運動から始めて今日覚えるのは「腕を伸ばす」「脚を広げる」「腕を大きく回す」「高く跳ぶ」「速く走る」「両手を床につく」「視線を前に」
今日はこの七つの言い回しと表記を覚えるのが目標だ。
「腕を伸ばして」『腕を伸ばして』のようにアシュベリー語に続けてランダル語を声に出して同時に腕を伸ばす。私はこうやって言葉を覚えた。私のやり方がクラーク様にも向いてるかどうかは実際にやってみるしかない。
ノンナが語学の授業に興味を持ったらしく、一緒に声に出してランダル語を唱えながら運動していると、クラーク様も負けじと取り組む。年下の女の子と一緒というところが少年のプライドを刺激するらしい。よしよし。
怪我をさせないように床にはクッションを積んだ。とても雇い主には見せられないな、と思っていたが幸いエバ様はお忙しいらしい。
クラーク様は七個の言い回しを耳と身体で覚えたあとで、言葉の綴りも完璧に覚えてくれた。驚くことにノンナも。ノンナには授業の途中でクラーク様が半ズボンとベルト代わりの紐を貸してくれた。
ノンナにはアシュベリー語の読み書きを少しずつ教えている途中だから混乱しないかな、と心配したけれど「大丈夫」という返事だった。この子は案外たくましい子なんだなと最近思う。
汗を拭いながら書き取りをするクラーク様は楽しそうで、全部を覚えた時には目がキラキラしていた。
「ビクトリア先生! 僕、こんなに楽しい語学の授業は初めてです!」
「それはよかったです。次の授業も頑張りましょうね。ただ、お母様が心配なさるでしょうからクラーク様は宙返りはやめておきましょうね」
「母には言いません! だから僕にもやらせてください!」
あれを見たらやりたくなるよね。まあ、私がしっかり補助をすればいいか。この心身ともに繊細そうな少年がなにかひとつでも自信を持ってくれたらいいなと思う。
実に楽しい仕事の始まりだった。






