21 セドリックの婚約は
「ウッ」
医師に手当を受けてセドリック第二王子が思わず声を出す。
「安静にして骨がくっつくのを待つのみです。安静にして、でございますよ」
「わかったよ。ありがとう」
初老の医師は一礼して退出した。それを部屋の隅に立っている男が目礼して見送る。その大柄な男はテリー・ギャレット第一騎士団団長。セドリックのお忍びと怪我のせいで各所への報告に追われていた。
「近衛騎士団長自らそこにいなくてもこの有様だから出かけないって」
「以前もそうおっしゃって街に」
「今度は本当だから」
息を吸って胸が広がると痛い。声を出しても身動きしても痛い。骨を折ったのは初めてだが、なるほどこういう痛みかと思う。戦争中の兵士は手足の太い骨を折っても戦い続けると聞いたことがあるが、それがどれほどのことか細い肋骨を折ってみてわかった。
やがてテリー・ギャレット第一騎士団長は予定があったらしく部下に呼ばれて渋々部屋を出て行った。
昨日、こっそり城に戻って自室に向かおうとしていたところで、運悪く兄に見つかった。少し会話しただけで怪我をしているのを見破られた。ここは正直に話すべきだろうと怪我の経緯を説明したら兄が激怒した。
「私はジェフと約束したんだ。彼女に関しては『お前に任せる。私は手を引く』と言って尾行は取りやめたんだよ。なのにお前がそんなことをしてはジェフとの約束を破ったと思われてしまうだろう」
その通りなので頭を下げる。
「申し訳ありません」
「周りの者には徹底して転んで怪我をしたと言え。そして時期を見てきちんと女性に謝罪しろ」
「はい」
「こんなことでジェフの信頼を失いたくないんだよ。彼は私の将来に必要なんだ」
「はい。申し訳ありませんでした」
兄に「しばらくは部屋から出るな」と命じられ警備の者を何人も配置された。いつも温厚な兄があそこまで言うとは。ジェフリーは尾行の件でかなり強硬な態度で兄に迫ったそうだ。
机の引き出しから金色の鎖を摘んで引っ張り、薄いロケットを取り出して蓋を開く。婚約している時に貰ったものを処分できずにそのまま置いてある。
そこには元婚約者のベアトリーチェの小さな絵姿が収めてある。ベアトリーチェはロケットの中でほんのり笑っている。
「殿下はお強いですね」
「殿下の強さに憧れます」
「なんて美しく剣を操るのでしょう」
ベアトリーチェはいつもセドリックの強さを称賛してくれた。
彼女は婚約していた五年間ずっと寝込みがちだった。
幼い頃はそうでもなかったらしいのに、婚約した辺りから急に病気がちになった。風邪を引けば肺炎になり中耳炎になる。他の者と同じ食事をしても食あたりを起こす。一度病気になるとなかなか治らない。
医師の見立てでは心労ではないか、ということだった。
常に心に負担をかけていると病になりやすく悪化しやすいらしい。ベアトリーチェにとっての負担とは自分との婚約だろう。彼女の優しすぎる性格では、他の貴族の令嬢に何か言われても言い返せなかっただろう。
第二王子の婚約者も将来の公爵夫人も彼女には重荷だったのだ。
ベアトリーチェは見た目の華やかさはないが心の優しい穏やかな少女だった。その可憐な様子に心を動かされて父に願い出て婚約させてもらった。自分が守り抜くつもりでいた。
「何か言われたなら僕に知らせなさい。僕が君を守るよ」
「いいえ。嫌味や陰口をいちいち殿下にお伝えするなど、したくありません。女性同士の揉め事は一生付いて回りますもの。笑って聞き流しますわ」
そう言っていたが、おそらくベアトリーチェは聞き流せずに心に溜め込んでいたのだろう。『これといった功績のない伯爵家の地味な少女』『おとなしいふりをして殿下に擦り寄った』と言われていると侍女に教えてもらったことがあった。
ベアトリーチェはその他にどんな不愉快なことを言われていたのだろう。自分と婚約しなければそんなことを言われることもなかっただろうに。
自分が十五歳、彼女が十四歳の時。
高熱が続いているベアトリーチェを見舞いに行った。目を閉じて真っ赤な顔でヒューヒューと苦しそうな息をしている婚約者。その熱い手を握り、しばらくその顔を見つめた。この五年間、彼女は健やかな時の方が少なかった。
(自分が彼女を妻にと望んだせいで彼女の寿命が削られている)
そう思いながら苦しむ婚約者をしばらく見つめてから手をそっと離して立ち上がった。涙は意地で堪えた。
その夜、声が震えそうになる自分を叱咤して、父に婚約の解消を願い出た。
「どうか今後の彼女にとって不利にならない形で婚約を解消してください。よろしくお願いいたします」
父はセドリックの言葉に労わるような顔で「そうか」とだけ言って何も聞かずに言うとおりにしてくれた。おそらく父は彼女の病気の原因について詳しく知っていたのだろう。
婚約を解消したあと、ベアトリーチェはしばらくは泣き暮らしていたらしいが、徐々に本来の健康な身体を取り戻したと聞いている。
(これでよかったんだ)と思い、彼女に配慮してなるべく顔を合わせそうな場所には行かなかった。
その後、兄が結婚して立て続けに男子が二人生まれた。
自分は気楽な立場になったが、その分、ぽかりと胸に穴が空いたような日々が続いた。
自分はひたすら剣の腕を磨いてきたがアシュベリー王国に戦争の兆しはない。どの国もこの国との商売を打ち切ってまで戦争する気はなさそうだ。それは喜ばしいことだが、ならば自分の生きる道はどこにあるのか。いずれ臣籍降下して公爵になるだろうが、その先は?
自分に与えられる予定の領地は長いこと腕利きの管理人が豊かな成果を出している。自分が手を出す余地はあるのだろうか。
自分の居場所を見出だせないでいる時に例の夜会での事件が起きた。
女の身で凄腕の者がいたらしい。
その腕前がどの程度なのか無性に知りたかった。その女性がなぜ男を倒したのかはいまだに謎だが、セドリックは理由よりも腕前に興味があった。
その結果が骨折だった。
自分に向かってくる彼女は大きな猫みたいだった。無駄のない動きは驚くほど速く、ナイフを取り出された時は本気で(このままでは殺される)と思った。死の恐怖を感じたのは生まれて初めてだった。
『殿下の強さに憧れます』
大好きな女性の言葉に今も縛られている。
もちろん彼女は純粋に称賛してくれただけで、そこに生き甲斐を見出したのは自分の勝手だ。
目を閉じると低い姿勢でナイフを構えたあの女性の姿が瞼の裏に甦る。
今にして思えば彼女はあの少女を守りたい一心だったのかもしれない。あの少女のことは全く意識になかったが「立ち去れ」と何度も警告していた彼女は子猫を守る母猫のように殺気立っていた。技術以前に自分は気迫で完全に負けていた。
(あの少女のように自分も彼女に体術の指導を受けることはできないだろうか)
そんなことを考えている自分に思わずフッと苦笑した。途端に骨が痛んでセドリックは顔をしかめた。






