19 酒場の店主、ザハーロ
ザハーロは王都の小さな酒場『黒ツグミ』の店主だ。
短い黒髪と黒い瞳、顎髭の渋い四十歳。少し悪そうな外見でとても女性に人気がある。
そのザハーロの店に、最近とある女性が来店するようになった。一度目は強い酒を二杯飲んでサッと帰り、二度目は独り落ち着いた雰囲気で酒を楽しんでいた。三度目の今夜は一杯ごとに酒の種類を変えて飲んでいる。店を気に入ってくれたようで嬉しい。
なのにさっきからその女性客に若い男がしつこく絡んでいる。男は初めて来店した客だ。こんな男に商売の邪魔も女性客の息抜きの邪魔もされたくなかった。
「お客様、そちらのお客様がお困りですので」
丁重に声をかけたが若い男は無視して引き下がらない。しつこく女性客を誘っている。叩き出すかと考えていたら女性がテーブルに代金を置いてすっくと立ち上がり店を出た。若い男もすぐに酒代を置いて出て行く。
(これは危ない)
そう思ってザハーロは急いで店を出た。右か左か。二人を探して夜の道を見回していると、さっきの男が右から走って戻って来た。女性を見失ったようだ。
男はザハーロに気づくときまりが悪そうな顔をして行ってしまった。
(あのお客さんは無事のようだ)と胸を撫で下ろして店に引き返そうとして止まる。通り過ぎた背後から猫が「シャーッ!」と威嚇する声が聞こえた。
「猫の喧嘩か?」
恋の季節でもないのに、と思ったところで再び「シャーッ! フーッ!」という声が聞こえる。
「ずいぶん怒ってるな」
猫の威嚇音は上の方から聞こえる。屋根の上で喧嘩かと視線を上に向けると、あの女性客が店の隣の家の庇の上にいた。両手両膝をついて低い姿勢で姿を見られないようにしていたらしい。その目だけがこちらを向いている。
その女性客に向かって白い猫が背中を高く弓なりにし、ブワリと毛を逆立て、尻尾もブラシのように膨らませてシャーシャーと女性を威嚇していた。彼女は猫をなだめようとしていたようだ。
「あ」
ザハーロと目が合うと女性客はひと声そう言って立ち上がり、スカートの裾を押さえてトン、と軽い音でザハーロの目の前に飛び降りた。そして唇の前に人差し指を立てて気恥ずかしそうに笑い、踵を返して去って行った。
ザハーロはあっけにとられたままその後ろ姿を見送った。庇の上の猫は満足したらしく屋根伝いに消えた。どうやら女性客は猫の縄張りの巡回路を塞いでいたらしい。
「ははは」
小さく笑いながら店に戻った。
女性客の身のこなしは猫が人間に姿を変えたかのように柔らかかった。自分の姿を見つけられて気まずそうな顔がいたずらを見つけられた子供みたいで可愛らしかった。
店に戻り、考える。
あの若い男が誰かは知らないが、もし町のチンピラなら手の打ちようはある。あんなことを今後も続けられたらたまらない。
ザハーロは翌日の昼過ぎに裏通りの奥の奥、真っ当な人間は寄り付かない酒場へと顔を出した。
昼から酒を飲んでいる男たちの間を縫って一番奥の席に向かう。その席に座っているのはこの辺りのならず者の元締めの男だ。
「よう、ザハーロ。久しぶりじゃねえか」
「ヘクター、お前んとこに癖毛の茶髪に薄い水色の目の若いもんがいるか? 首の右側にホクロがあったな」
ヘクターと呼ばれた男は煙草を吸いながら少し考えるような顔をした。
「いるかもしれねえし、いないかもしれねえな。そいつがどうかしたか?」
「うちの上客に夕べ絡んでたんだ。商売の邪魔をするようなら始末しようかと思ったんだが、お前の配下ならひと言声をかけてからの方がいいかと思ってな」
ヘクターが酒場の男に手を挙げて合図をすると琥珀色の酒の入ったグラスがザハーロの前に置かれた。
「その上客って、女か?」
「上客は上客だ。男か女かは関係ない」
「ふぅん。そうか。安心しろ。真っ当な商売の邪魔はさせないさ。お前と俺の仲じゃねえか」
ザハーロは置かれたグラスを手に取って立ったまま一気に飲み干した。
「助かるよ。ゴミを始末するのも手間だからな。じゃ」
「たまには遊びに来いよ」
「もう俺は足を洗った身だ。代償も払った」
ザハーロは酒の代金をテーブルに置くと店を後にした。店のドアを出るまでたくさんの男たちが自分を目で追っていた。気づかないふりをしたが、もし襲ってきたらと用心はしていた。
だがその心配は不要だったようだ。
「あのお客さん、もう来ないかも」
絡んだ男のせいではなく、自分があの姿を見てしまったせいで。
会話をしたこともない客だったが、もう来ないかもしれないと思うと少々残念だった。
しかし、それからしばらくして、ザハーロはその女性を商店街で見かけた。女性は野菜の入った布袋を肩から下げて少女と手を繋いでのんびり歩いていた。
「お客さん?」
思わず声をかけると、女性はこちらを見てすぐに自分が誰か気がついたようだ。
「店長さん。こんにちは。買い出しですか?」
「そんなところです。お客さんも買い物ですか?」
「ええまあ」
「お客さん、店にまた来てくださいね」
女性客が返事に迷っているようだったので道の先を指さした。
「時間があるならそこで甘いものでもどうです?ご馳走しますよ」
そう提案すると女性客が少女に話しかけた。
「ノンナ、いい?」
「うん。いいよ」
「ではお言葉に甘えさせてください」
「ザハーロと呼んでください」
名乗りながら歩くと女性客は斜め後ろを歩きながら「では私のことはビッキーと呼んでください」
と気さくに受け答えをしてくれた。
案内した先は落ち着いた雰囲気の菓子店だ。店内で食べることもできる。甘い物も好きなザハーロの行きつけの店である。
「ここはなんでも美味いんだ」
そう言ってメニュー表を手渡した。
女性客は紅茶とクッキー、少女はアップルパイと果実水、ザハーロはシロップ漬けの栗のケーキと紅茶を注文した。
「このクッキー、サックサクですね。美味しいです」
「ビッキー、アップルパイも美味しいよ?」
「美味いだろう? 俺のもよかったら味見するかい?」
「うん! わあ、美味しい!」
少女がザハーロのケーキを味見するのをビッキーと名乗った客がニコニコ眺めている。親子にしては似てないし姉妹というには歳が離れ過ぎているが、ザハーロは人の事情には興味を持たないようにしている。
三人ともしばらく食べることに集中していたが、「あの男ならもう来ないと思うよ」とザハーロが告げた。
「どうしてですか」
「念の為にこの辺を仕切っている男に確認したらやっぱりその男んとこの下っ端らしかった。だから商売の邪魔をするようなら俺の方も考えがあると言っておいた」
「そんなことをしたら仕返しされませんか?」
「仕切ってる男と俺は古い知り合いなんだ」
「お手数をおかけしましたね」
「なんてことないさ。また来てくれますか?」
「ええ。少ししかいられませんけど」
「十分です」
お茶を飲み干して女性客がザハーロの顔をまっすぐ見た。
「私になにも聞かないんですか?」
「聞いてほしいのかい?」
そこからは口調を素に変えた。
「いいえ」
「じゃあ聞かないよ。俺は酒場の店主であんたは大切な客だ。それでいい。それより……」
ザハーロの口元がヒクヒクし始め、堪えきれないように笑い出した。女性客もあの場面を思い出したようで赤くなっている。
「あんなに猫に怒られてる人、俺、初めて見たよ。猫の巡回を邪魔してシャーシャー怒られるって……クックック」
「あれは! その、想定外のことで……プッ」
女性客も笑い出した。店の中なので二人で腹を押さえて声を殺し、涙を拭き拭き長いこと笑う。少女が「どうしたの?」と尋ねるからまたあの場面を思い出して笑いが込み上げる。二人でハーハーと深呼吸を繰り返し、苦労してやっと笑いを抑え込んだ。
「こんなに笑ったのはいつ以来かしら」と女性客が笑いすぎて痛くなったらしい腹筋を押さえながら言い、その日はそれで別れた。
それからまたビッキーという女性客は通ってくれるようになった。週に一度くらいか、相変わらず短時間で二、三杯飲んでサッと帰る。
若い男はそれから顔を見せない。ヘクターはちゃんと要望を聞き入れてくれたようだった。






