幸せを呼ぶ花
読書サロンを開店して早三週間。店は概ね順調な営業を続けている。
とは言え、もちろんそれなりの問題もあった。
一番は、高価な本をそのまま持ち帰るという暴挙に出る人間が意外に多かったことだ。
しかもその大半は金に困っていない貴族というのだから性質が悪かった。
彼らはちょっと借りただけだと言い張り、窃盗している意識すらなかったのだ。常連であるカーディナル卿の所有物だと分かった瞬間、すごすごと引き下がる彼らには本当に腹が立った。彼らの家とは今後商会との取引も止めようと思っている。
それでも完全に窃盗がなくなる訳ではないため、少々お金が掛かったが、店から待ち出された瞬間に音が鳴るような仕組みをロイドに考案して貰った。
また、サフィリアの提案で護衛を一人雇うことになった。彼の騎士学校時代の知り合いで、傭兵ギルドに所属していた男性だ。結婚を機に、落ち着いた仕事に就きたいと要望していた為、カンザナイト家で雇うことになった。
彼は重い本の搬入なども積極的に引き受けてくれるので、非常に重宝している。
その上、彼が護衛に立つようになってから、変な客は徐々に姿を現さなくなり、漸くサロンも落ち着きを取り戻し始めた。
「ところでセシルさん、本当にあの刺繍絵画、店に飾らせて貰って良かったの?」
「もちろんよ。ちゃんとヨハネス様にも許可は取ったし、私一人で楽しむよりも、出来るだけ沢山の人に見て欲しいんだもの」
そう言ってうっとりとした表情で壁に掛けられた絵画を見つめるセシル。
そんな彼女の視線の先には、『幸せを呼ぶ花』と名付けられた青い花の刺繍絵画が飾られている。
刺繍絵画の第一人者と呼ばれるヨハネス・ベッカーの作品だ。
細かい彫刻の額縁に入れられたそれはハンカチほどの大きさしかないものの、全面にブルースターと呼ばれる青い花が刺繍で描かれている逸品だ。
どれだけ近くで見てもどう刺繍されているのか分からないほど細かい刺繍糸の濃淡により生み出された花は、見れば見るほどため息が出るほどに美しい。
「最近じゃ、あれを目当てに来られる方も多いみたいね」
「そりゃあそうよ。ヨハネス様の刺繍絵画はその殆どが貴族家や美術館にしかないんだもの」
ルビーも初めて彼の作品を見たのは、美術品評会の発表の時だった。
彼の作品は直ぐに買い手がつき、とてもじゃないが平民には手の出せないお値段になっている。それ故に、平民の身分では中々お目に掛かれないのだ。
「と、ところでセシルさん……、そのベッカー様からプロポーズされたと聞いたけど?」
周りを気にしながら小声で話し掛けたのには訳がある。
何故なら、ヨハネス・ベッカー本人がこの店の常連で、今日もカフェの隅の席で海外の風景画集を見ながら紅茶を飲んでいるからだ。
そんな彼にチラリと視線を送り、セシルは小さく笑った。
「結婚して欲しいとは言われてるけど、今は保留中よ」
「保留…」
「だって、彼のことは友人としてしか見てなかったんだもの」
セシルにとって彼は、唯一と言っていいほどの友人だった。
だからこそ、どうにもそれ以上の関係になるのは抵抗があるそうだ。
「……その気持ち、少し分かる……」
ルビーがサフィリアに対して思う気持ちと少し似ていると思った。
親しい人との関係が変わるという事は、もしかしたらその関係自体が壊れるかもしれないという怖さもある。
だったら前のままで良いのではないかと思ってしまうのだ。
「もしかしてサフィリアさんとの関係って進んでない?」
「いや…まぁ、……うん」
ルビーとサフィリアの微妙な関係は、早々にセシルにバレている。
というのも、読書サロンに訪れた客の中には、ルビー目当ての客も少なからず居たからだ。
毎日サロンに来ている訳ではないルビーを出せと言う客もおり、そういった客には早々にお帰り頂くように従業員には周知していた。
その過程で、恋愛事に目端の利くセシルにはあっさりとサフィリアが求婚中であることがバレた。
それ以来セシルには呆れられながらも助言を貰ったりしている。
「ねぇねぇ、サフィリアさん恰好いいから、うちの常連で狙ってる子結構いるわよ」
「……知ってる」
「それなのにまだグズグズ言ってるの?」
「それは……」
「サフィリアさん、今度の叙爵で騎士爵を授与されるって噂だし、実家はお金持ちのカンザナイト商会だし、超優良物件じゃない?」
「………何が言いたいの、セシルさん?」
「ルビーさんがいらないなら、私、狙っちゃおうかな~~~~」
ニッコリと妖艶に微笑む彼女の瞳は肉食獣のそれに凄く似ていて、思わずルビーは反射的に叫んでいた。
「だ、ダメ!」
「え~~、どうして?」
「どうしてって……その……」
セシルは物凄く綺麗で、彼女に言い寄られれば、大抵の男なら落ちる。
性格だってサッパリしているし、それをサフィリアも知っている。
だから、セシルが本気を出せば、サフィリアだって思わず彼女が良いと思うかもしれない。
思わせぶりに中々返事をしないルビーを諦めても仕方ない。
けれど………
「セ、セシルさん、……理由は言えないけどサフィはダメ…」
「理由は言えないの?」
「それは…」
理由なんて分かってる。
サフィリアをセシルに取られたくない。ただそれだけだ。
じゃあ、何故取られたくないのか?
「ルビーさんはもうちょっと素直になった方が良いよ」
「セシルさん……」
「だって、あんなにサフィリアさんは素敵でモテるんだよ。いつ他の女性に取られても仕方ないじゃない」
「でも、サフィは待ってくれるって……」
「そうだね。でも、本当にそれに甘えたままでいいの?」
セシルの言う通り、ルビーはずっとサフィリアに甘えている。
彼の好意に甘えたまま、先を見ないようにしていた。
けれど、叙爵をすればそんな悠長なことは言ってられない。
父やダリヤにも、縁談を断るのはそろそろ限界だと言われた。
シュバルツ公爵が再婚した事が明るみになったので、再び縁談の数が増えたのだ。
そしてそれはサフィリアも同じだった。
彼は現在喪中だと言って断っているが、そんな言い訳もその内効かなくなるだろう。
「サフィリアさんのこと嫌いなの?」
「ううん………、好き……」
「じゃあ、もう答えは出てるんじゃない?」
「そうなんだけど……」
答えなんてとっくに出ている。
けれど、今更どんな顔をしてそれを彼に告げていいか分からない。
ずっと兄のように接していたから、その関係を変える事への戸惑いが大きいのだ。
「どうしていいのか分からないの…、ずっと一緒に居過ぎたから、今更どんな態度で接すればいいのか……」
「なるほど……」
「だって、アルビオンのことだってずっと惚気てたし、今更どんな顔すればいいの?恋人になって婚約して………、無理……絶対に無理……」
「あ~~~、つまり恥ずかしいと?」
少しだけ呆れたような声を出すセシルに、ルビーは大きく頷いた。
サフィリアの事は好きだし、彼が他の人と結婚するのは見たくない。
それは今のルビーの紛れもない気持ちだ。
だが、兄妹として過ごした時間が長すぎて、今更どうやって恋人としての距離を持てばいいのか全然分からない。
仕事をしている時は大丈夫。
でも、二人きりでサフィリアの顔を見ると、最近では妙な動悸がしてダメだった。
意識するまでは平気だったことが、今では途轍もなく難しいのだ。
「ちなみに、恥ずかしくて最近サフィリアさんを避けてたの?」
「…避けてるつもりはなかったんだけど…」
「いや、あれは明らかに避けてたでしょ?」
出来るだけ二人きりにならないようにしていたのは認める。
だって、サフィリアに優しくされると叫び出しそうになるのだ。
「まぁいいわ。要するに恥ずかしくて避けていただけで、嫌いになった訳じゃないということね」
「……うん」
「サフィリアさん、そういう事みたいですよ」
「へ?」
突然、後ろを振り返ったセシルの声に視線を向ければ、閉じられていた筈の扉から顔を覗かせるサフィリアがいた。
「……ごめん、ルビー。その……立ち聞きするつもりはなかったんだけど……」
顔を少しだけ赤くしたサフィリアが、ゆっくりとルビーへと近付いてくる。
その顔がいつになく嬉しそうなのに、少しだけ腹が立った。
「ど、どこから聞いてたの?!」
「………セシル嬢が俺を狙おうかと話してるところから」
「ほぼほぼ全部じゃない!」
「ごめん、ごめん…」
全然反省の色を見せず近寄ってくるサフィリアに、自分でも顔に熱が集中するのが分かった。
真っ赤になっている顔を見られたくなくて、顔を抑えながら蹲る。
すると、そんなルビーに追い討ちを駆けるように、サフィリアも同じように膝を突いた。
「ルビー、さっきセシルさんに言ってたことは本当?」
条件反射のように違うと言い掛けたが、違わない。
全部本当のことだ。
「………本当」
「俺を好きなのも?」
「……………本当」
「関係が変わるの、もしかして怖かった?」
「どう接していいのか分からない………、どんな顔すればいいのか分からない……」
「そうか……」
そう呟いたサフィリアはゆっくりとルビーの頭を撫でた。
小さな頃からずっとしてくれたように、落ち着くように、ゆっくりとルビーを撫でるサフィリアの手は優しかった。
「ルビー」
小さく呟かれた声に、顔を上げる。
すると、息が掛かりそうな距離で自分を見つめるサフィリアと目が合った。
名前の由来となった蒼玉のように綺麗なサファイア色の瞳が、ジッとルビーを見つめていた。
「ごめんね、俺が多分性急過ぎた」
「サフィ……」
「でも、俺とルビーの関係は何も変わらないよ」
「変わらない?」
「うん。だって、ずっと今まで家族だったでしょ?そして、これからも家族であり続ける為に、俺はルビーと結婚したいんだ」
「家族………」
「そうだよ。だから何も変わらない。ルビーはいつものように俺の傍に居てくれるだけでいい。ただそうだね……、他の男の傍に居て欲しくない。これが前と違うところかな?」
「それだけ?」
「それだけ。でも、俺がルビーに愛を囁くのは許してね」
「あ、愛……」
「別にルビーに同じようにしろとは言わないから。それなら前と変わらないだろ?」
「………変わると思う…」
「そうかな?」
愛を囁くサフィリアなんて前は存在しなかった。
でも、自分だけに囁いてくれるなら問題ない気もするのだから、ルビーも色々と腹を括るべきなのかもしれない。
「あ~~~、ゴホン。お二人とも、私の存在忘れてない?後ね、ここ、カウンターの中とはいえ、一応店内だから…」
セシルの言葉に慌てて立ち上がれば、カウンター越しにこちらを見ているお客さんの顔が目に飛び込んできた。
「うきゃあぁぁぁ!」
「いや~、邪魔はしたくなかったんだけどね、さすがにね…」
「セシルさん!なんで止めてくれないの?!」
「何でって、そりゃね?」
言いながらサフィリアに片目を瞑って見せたセシルに、サフィリアが機嫌良く手を上げた。
「もしかしてみんな聞いてた……?」
恐る恐る店内に視線を向ければ、常連の皆様から一斉にいい笑顔が向けられる。
ご近所の奥様方に至っては、今にも外に飛び出して話したそうに口元をうずうずさせている。
これでもう、明日の井戸端会議の話題はルビーが独占だ。
「ルビー、ほらっ、もう諦めて、父さんに報告に行こ」
「うぅ………」
これ以上読書サロンには居るのは恥ずかしすぎて、ルビーはサフィリアに促されるままカンザナイト商会へ向かう事にした。
「……ルビーさんって案外チョロかったのね…」
「否定出来ない…」
何となくサフィリアとセシルの策略に乗せられた気がしたけれど、サフィリアが凄く嬉しそうだったので良しとする。
その後、恥ずかしさを押し殺して父に婚約したいと告げた。
その言葉に遠い目をした父は、『これで縁談を断れる』と非常に喜んだけれど、兄のダリヤには『遅い!』と怒られた。理不尽過ぎる。
だが、次から次へと舞い込む縁談に苦労を掛けていたらしいので、渋々ルビーは謝った。
次兄のエルグランドだけが心からお祝いをしてくれたので、アリューシャとの結婚祝いは奮発しようと思う。
そして、ルビーとサフィリアの婚約話は、その翌日には驚くべき速度で世間に知られる事となった。
ちなみに、真っ赤なバラの花束を抱えたサフィリアが跪いて求婚したことになっている。
噂の尾鰭の凄さに呆れているが、サフィリアが『実際にしようか?』と言ってきたので足を蹴っておいた。
けれどその日の夜、バラを抱えて帰ってきたサフィリアは、噂話と同じように跪きながら、愛の言葉をくれた。
「ルビー好きだ。だから俺と結婚して下さい」
「………はい」
夜の中庭、二人きりで行われた求婚に、ルビーは静かに頷いた。
そうして二人で手を握りながら、これで噂を真実に出来たと笑い合う。
呆れるほど簡潔な言葉だったけれど、女性としてサフィリアに求められていることが漸く実感出来た。
恋物語のような求婚だけで上機嫌になったルビーは、セシルが言ったようにチョロイのかもしれない。
でも、これでやっとルビーはアルビオンとの思い出を捨てることが出来た。
ちなみに、この件が切っ掛けで、読書サロンに掛けられた『幸せを呼ぶ花』の下でプロポーズをすると結婚出来るという噂話が広がり、別の意味でサロンが繫盛するようになった。
そんな『幸せを呼ぶ花』の下で、ヨハネスが青いカーネションの花束を持ってセシルに跪くのは、そのもう少し後のことだ。
永遠の幸福という意味を持つ青いカーネーションを受け取ったセシルは、『傍にいるだけで幸せだって真顔で言うんだもの…』と呆れた声を滲ませつつ、ルビーに続くようにヨハネスと婚約したのだった。




