サザルアの森へ
「ないです!絶対にありえません!」
一瞬、魂がどこかに飛んだような衝撃を感じたが、直ぐに正気に戻ったルビーは慌てて否定した。
「兄がもし仮に王女殿下と恋仲になっていたとしても、それならまずはローズお義姉様と離婚をしているはずです。それに敢えて面倒な危険を冒してまで隣国の王女と駆け落ちするメリットが兄にはありません!」
「ステラ王女と駆け落ちするなら、エメラルダ王女殿下の方が万倍マシだろうしね…」
「サフィの言う通りです!それに、兄とは毎日手紙のやり取りをしておりますが、今は他の事で手一杯の様子です」
むしろ過労死しそうだから早く帰って来いと脅すような連絡がきたばかりだ。
とても王女との駆け落ちを画策しているようには思えない。
それ以前に、ダリヤは昔からローズ一筋だ。
どんな美女や高位貴族だろうと、どんなにお金を積まれようと、兄がその意思を覆すことなどない。
「すまない二人とも。私はダリヤを疑っているわけではないのだ。だが、一応念の為の確認だ」
「殿下……」
「恐らくダリヤの名を騙った黒幕がいるのか、もしくはこのエリック・セーチェックという人物が何かを勘違いしているのか……」
兄はその美貌から王都では有名だ。商売柄多くの商人とやり取りをする所為か、他国でも知っている人間は多い。名前を悪用されている可能性は非常に高かった。
「取り敢えず、セーチェックの密書に書かれている奴らの潜伏先に向かうつもりだ」
場所はサザルアの森の中心部から少し離れた狩猟小屋だ。
そんな場所に狩猟小屋があったことにも驚いたが、その事を他国の人間であるエリックが知っていたことも不思議だった。
「罠の可能性は?」
「否定出来んが、王女が同行している以上、ここで見逃すのは我が国の汚点になる」
隣国ギルレイドに見捨てたと思われる事態は避けなければならないという事だ。
「先行した部隊によると、中心部へ向かう馬車の轍が見つかっている」
「しかし、あの森は危険です。特に中心部には特級の危険魔獣に指定されている大型のニーズヘッグがいるはず……」
ニーズヘッグとは、飛翔型の竜種だ。
本来であれば馬車三台程の大きさの中型魔獣だが、突如サザルアの森を占拠したニーズヘッグは、貴族の屋敷ほどの大きさを誇る巨体だった。
そんなニーズヘッグはその強大な体躯を森の中央に据え、まるでサザルアの主のようにこの地を縄張りにしている。
「これは極秘事項だが、ニーズヘッグがこの森を縄張りに選んだのには訳がある」
「わけ?」
「ああ。定期的に様子を確認していた巡回兵によれば、奴は卵を抱いている」
「たまご?!……つまり、ニーズヘッグはここを繁殖地に選んだという事ですか?!」
「そういう事だ……」
確認されている卵は全部で四つ。
それが全て孵れば、この森は更なる国の脅威となる可能性がある。
「何度か討伐を試みているが、卵を抱えた奴は気が立っているせいもあって中々に手ごわい。だが現状、卵のある巣からは動かないことも確認されている」
「なるほど、ニーズヘッグは刺激さえしなければ安全ということですね」
「そういう事だ」
「しかし、それでもこの森の魔獣は危険だと思います。それなのに、どうしてセーチェックさんと王女殿下はこんな場所を逃亡先に選んだのでしょうか……」
「どうやらエリック・セーチェックは空間魔法の上級者のようだ。この森の魔獣であれば何とか防げると思ったのだろう。彼らが何故潜伏先にこの森を選んだかは分からんが、どちらにせよ、我々がすることは彼ら二人の確保だ」
「そうですね」
「悪いがカンザナイト。この森に詳しい人物はいるか?狩猟小屋の場所まで最短で行きたい」
「それならば俺が……」
「サフィ!?」
「あと、クルーガという男がいますので、同行をお許し下さい」
「待ってサフィ!危ないわ!」
サフィリアの気持ちは何となく分かる。
何故なら、サフィリアとクルーガはそれぞれが大切な人間をこの森で亡くしている。
特にサフィリアの父であり、ルビーの叔父にあたるトパーズ・カンザナイトは、最後の最後まで従業員を守るために遮断空壁を展開していたと聞いている。そのせいで、未だにトパーズの亡骸だけは発見されていない。恐らく森の奥深く、ニーズヘックの巣の近くにいた可能性があると思われている。
「叔父さんのことを未だに探しているのは知っているわ。でも、もっと落ち着いてからでも…っ」
時々行商の合間にクルーガと二人で森の様子を見に行っていたのは知っていた。
危ないので止めて欲しいと思っていたけれど、遺品の一つでも見つけたいという想いを否定する事は出来なかった。
「ルビー、心配してくれてありがとう。でも、今ここにいる人間の中で一番この森に詳しいのは俺とクルーガだ。俺たちなら最短で小屋まで行くことが出来る」
サフィリアの断言にエメラルド殿下が小さく頷いた。
「民間人のカンザナイトに頼むことではないが、ことは一刻を争う。悪いが協力を願う」
「もちろんです殿下。お任せ下さい」
腕の立つサフィリアとクルーガなら足手纏いになることもないだろう。
だが、それでもここは魔獣が蔓延る危険区域。
二人が無事でここに戻ってきてくれるという保障はどこにもない。
もしも二人に何かあったら……?
ギュッと唇を噛み締め、ルビーはエメラルド殿下を見つめる。
「殿下、どうか私もお連れ下さい」
「ルビー?!」
「王女殿下がいらっしゃるなら、女手があった方が良いかと思われます。それに、私は遮断空壁には定評があります。必ずお役に立てると思います」
「遮断空壁の評価は?」
「耐火耐水耐圧ともに特級で、この騎士団の人数であれば、全方向にて展開が可能です」
「分かった。同行を許そう。防御を頼む」
「殿下?!お待ち下さい!ルビーは置いて行って下さい!」
「サフィリア、お前の気持ちも分かるが、これはルビー嬢たっての望みだ。それに、特級クラスの空壁があるのはこちらとしても心強い」
「しかし……」
「お前の気持ちも分かるが、王女を保護する以上、女性の手があるのは非常に助かる。もし王女がこの件に関与しているならば、いらぬ難癖を付けられる可能性がある。それゆえ、出来る限りの懸念材料は無くしたい」
ただの駆け落ちなのか、何かの陰謀に王女が巻き込まれたのか。
黒幕の存在も懸念されるこの状況下では、それこそ駆け落ちが失敗した途端、男性しかいない騎士団に襲われそうになった等と言われる恐れもあった。
殿下はそう言った事も考えてルビーの同行を許してくれたようだ。
「出発は五分後だ」
そう言って会話を打ち切ったエメラルド殿下は、そのまま天幕を出て行った。
その後を追うようにルビーが天幕を出ると、サフィリアが慌てた様子でルビーを止める。
「ルビー!頼むから考え直して!」
「いやよ。危ないというならそれはサフィとクルーガだって一緒だわ。寧ろ特級の遮断空壁がある分、私が一番安全よ」
「だけど…ッ!」
「…待ってるだけなんて絶対に嫌なの」
「ルビー!」
サフィリアが必死に止めようとするが、ルビーは絶対に折れる気はなかった。
役に立たないのならば、ルビーも大人しくしている。
だが、二人を、いや騎士達を守る術があるのならば、出来るだけ協力したいのだ。
この森が危険なことも承知しているし、怖くないと言えば嘘になる。
けれど、魔獣の討伐に参加するのはこれが初めてではない。学院の演習で何度か体験しているし、行商で襲われた際にもちゃんと対応出来ている。
だから絶対に足手まといにはならない。
「クルーガ!マイルス!私とサフィはこれから殿下と共にサザルアの森に入るわ!」
「お嬢?!」
「同行はクルーガ。残りはここで商隊とギルレイドの一行の守護に当たって頂戴」
時間がないので、責任者となるマイルスに簡単な事情を説明する。
困惑した面持ちのマイルスもルビーに考え直すように言ってきた。
だが、ルビーの意志が固いことを確認すると、諦めたようにため息を吐く。
「必ず帰ってきて下さいね、お嬢…」
「もちろんよ」
「いざとなればクルーガを盾にしても構いませんから」
「そうならないように努力するわ。………ミルボーン、ザルオラ、後は任せてもいい?」
「もちろんだぜ!」
「……了解した」
この二人は拙いながらも馬車一台を囲う程度の遮断空壁が使えるので、いざとなれば荷物を捨ててでも人を優先に守るようにお願いする。
「お嬢、無事に帰って来いよ!」
「ええ」
未だに一人納得していない様子のサフィリアを無視し、ルビーは馬に跨った。
「ルビー!」
「大丈夫よ、サフィ!危ないことは絶対にしないわ!私がするのは守ること。それだけよ」
「ルビーの腕がいいのは分かってるよ。でも、魔獣はいつどこから襲ってくるか分からないんだ。頼むから戻ってくれ」
「嫌よ。待っている間に二人が怪我でもしたらと思うと居ても立ってもいられないんだから」
「ルビー……」
「サフィ坊ちゃん……、このまま置いていっても勝手に付いてくるのが落ちですぜ」
「あらっ、クルーガ。よく分かってるじゃない」
残ってくれるマイルス達も、それが分かっているから渋々送り出してくれたのである。
無事に帰ることが出来れば、お礼をしよう。
いや、必ず全員無事で帰るのだ。
「………分かったよ。でも、絶対に前には出ない事。いいね?」
「分かったわ」
「本当に?」
「本当よ。私だって怪我はしたくないもの」
何度かそんなやり取りを繰り返すと、ようやくサフィリアも納得した。
恐らく本心では納得はしていないのだろうが、そろそろ捜索隊が出る時間だ。
無理矢理言葉を押し込めたサフィリアの為にも、ルビーは必ず無傷でここに戻ってこようと心に誓う。
「行きましょう……」
エメラルド殿下の下へと集合し始めた騎士達の最後尾にルビー達は馬を寄せた。
殿下から同行の説明が既にされていたのか、騎士達が小さく頭を下げてくれる。
「では、これよりステラ王女の保護に向かう。潜伏先である狩猟小屋へはカンザナイト商会から案内人を頼んだ」
殿下の声にサフィリアとクルーガが小さく手を挙げた。
「更に、特級遮断空壁を扱えるルビー嬢が協力を申し出てくれた。サザルアでこれほど心強いことはない。みな、彼女から一定距離を離れないように心掛けよ。この度の任務はあくまでステラ王女の保護とエリック・セーチェックの確保。それを最優先とする」
魔獣の討伐は最低限で済ますように言った殿下に騎士達が頷いた。
「出発!」
掛け声と共に、騎士達の馬が一斉に森の方へと駆け出す。それに遅れないよう、ルビーも必死で後を追った。正直、ルビーの乗馬技術では付いていくのがやっとだ。
騎士達に遅れないように必死で馬を走らせると、ようやくサザルアの森の入り口に到着した。
すると、後方のルビー達の下へと馬が数騎駆けてくる。
「……カンザナイト殿」
現れたのはステフィアーノの弟、スチュアートだ。
「殿下からの言伝です。ルビー殿にはこれより騎士団を囲むように遮断空壁をお願いしたいということです」
「了解致しました」
言葉と共に意識を集中し、遮断空壁を展開する。
それと同時に、スチュアートがルビーの後ろに回った。
「ルビー殿の警護は私達が担当します。今後はこの位置で遮断空壁の維持をして頂き、サフィリア殿達は先頭にて道案内をお願い致します」
「分かりました。……ルビー、決して無茶はしないこと、いいね?」
「ええ」
もう一度だけ念を押し、サフィリアとクルーガは先頭へと馬を走らせた。
先頭を行く殿下の傍へと駆けていく二人を見送り、ルビーは小さく息を吐く。
自分がかなり強引に付いてきた自覚はある。
けれど、やはりあの場でジッとしているのは無理だった。
それに、一度森に入ってみたいと思っていたのはルビーも同じだ。
あの凄惨な事件があった時、ルビーはまだ七歳だった。
父や祖父が真っ青な顔でサフィリアを連れて帰ってきたのは今でも鮮明に覚えている。
表情も無く、食事さえまともに出来なくなったサフィリアをずっと兄達と共に励ました。
今でも、夜中に泣き叫んでいたサフィリアのことを覚えている。
慟哭と呼ぶに相応しい泣き声だった。
しかしそんな泣き声も直ぐにしなくなった。
叔母の亡骸を見たサフィリアはそれ以降、決して泣く事はせず、ひたすら叔父の無事を祈るようになったからだ。
だが十二年経った今も、遺品の一つさえ見つかっていない。
「少しでも何かが残っていれば…」
最優先は王女殿下の保護だが、こんな事でもなければ森の奥に踏み込める機会は当分来ないだろう。
しかも今回は騎士団の精鋭と共に入ることが許された。
今の森がどうなっているのか、それが分かるだけでも良かった。
「でもまずは王女とエリックさんの保護ね。それから……」
こんな馬鹿げた騒動にダリヤの名前を出したことを、ちゃんと説明させるつもりだ。
下らない理由だったら絶対に許さない。
グッと気合を入れるように手綱を握り締め、ルビーは前方に広がる森を見据えた。




