慟哭
彼女が残した日記は、ちょうど学院入学の日から始まっていた。
入学を機に新調したのだと、一ページ目には学院生活への期待に溢れる言葉と、そして婚約者となったシュバルツ公爵令息ミハエルに対する気持ちが書かれていた。
『今までは頻繁に会えなかったミハエル様と三年間も過ごせるなんて嬉しい!』
幼いころから縁があり、見目も良く優しいミハエルの事をユリーナは好きだったらしい。
学院入学を前に正式に婚約した時の喜びは三ページにも及んでいた。
『それにしても、どうしてお母様は彼との婚約に反対したのかしら?』
彼女の母とシュバルツ公爵夫人は仲の良い従姉妹同士だった。
それ故に整った縁談に、ケルビット伯爵は大喜びだったと言う。
けれど喜ぶ家族の中でただ一人、母親であるクリスティーナだけが反対した。
血が近いのがダメだというのが理由だったが、又従兄弟であるならば問題ないとケルビット伯爵が押し切ったそうだ。
その後、失意のままクリスティーナ夫人は流行病で亡くなってしまう。
病床の中でさえ、夫人は最後まで反対していたようだ。
そんな夫人の最後の言葉。
それは、タウンハウスにある手紙を見て欲しいというものだったらしい。
ユリーナだけに告げられたそれは、実に奇妙なものだった。
『お父様にも誰にも知られず、必ず一人で見るように…』
そのお陰で、ユリーナは中々時間が取れずに次第にその事を忘れることになる。
この時すぐに思い出していれば、悲劇は生まれなかったかもしれない。
だが、日記からも分かるように、彼女は学院生活が楽しくて仕方ない様子だった。
『今日、天使のような方に会ったわ!あ~、これから毎日あの方に会えるのね!楽しみだわ!』
入学した日から日記に登場したダリヤ。
その日から、彼女の日記はダリヤと婚約者のミハエルの事で埋められていく。
平日は学院で見かけたダリヤの動向が事細かく書かれており、休日には婚約者であるミハエルとの逢瀬について書かれている事が多かった。
だが、学年が上がるに連れ、シュバルツ公爵ミハエルとの関係に悩んでいる描写が増えていく。
『何か悩まれているようだけれど、ミハエル様は何も話してくれない。どうしたら彼の力になれるかしら…』
『ダイヤ様とミハエル様が仲良く話をされていた。……あんな楽しそうなミハエル様の顔、私は見たことがない』
『ミハエル様はいつも優しくして下さる。でも、もしかしたら彼には好いた方がいるのではないかしら……』
最終学年が近づくにつれ、彼女の不安は増して行った。
この頃になるとダリヤの名前は余り出て来ず、終始ミハエルとの関係について悩む描写ばかりになる。
『どうしてミハエル様は私を見てくれないの?!私が彼の婚約者なのに!』
『彼のエスコートでパーティーに行った。けれどミハエル様は直ぐに友人達の方へと行ってしまった。友人の中にはダイヤ様も居るので私もご挨拶をしたいと言えば、遠慮して欲しいと言われた。悲しい…』
『もしかしてミハエル様はダイヤ様に嫉妬しているのだろうか?だったらダイヤ様よりもミハエル様が好きだとちゃんと伝えなければ…』
『勇気を出して好きだと伝えた。彼も好きだと言ってくれた。………でも私には分かった。彼は嘘を吐いている……』
『彼は私がダイヤ様を褒めても全く怒らない。それどころか、妙に嬉しそうにしている。理解がある婚約者でいいとアリューシャ達は言っていたが、違う…、あれはそういうものじゃない………、違う……』
この頃から、ユリーナの日記には狂気が見え隠れし始めた。
『ミハエル様の好きな人を絶対に突き止めてやる』
『同じクラスの子が慣れ慣れしく彼に話し掛けていた。許せない』
『……髪型もお化粧も彼の好みにしたというのに、どうして彼は私を見てくれないの?!』
『明日、タウンハウスへ行こう。確か、お母様の残してくれた宝石があったはずだ。それで着飾った私をミハエル様に見て欲しい』
そんな時、彼女は不意に母親の遺言を思い出した。
気付けば、母親であるクリスティーナ夫人が亡くなって既に四年近い年月が経っていた。
『お母様ごめんなさい…。すっかり忘れていたわ。明日タウンハウスに戻って確認するから許して…』
誰にも見られてはいけないという遺言。
それ故に、ずっと見られることのなかった手紙。
悩んだ末に、ユリーナは深夜にこっそりと庭に出ることに決めたようだった。
そして日記は、その日を最後にピタリと終わっていた。
「ユリーナがまさかミハエル様との関係をここまで悩んでいたなんて…」
アリューシャが覚えている限り、ユリーナとミハエルは仲の良い婚約者同士だったらしい。アリューシャの当時の婚約者とは違い、ミハエルが誰かと浮名を流した事もなく、ユリーナは誰から見ても幸せそうに見えたと言う。
「だからユリーナ嬢は相談出来なかったんじゃねぇか?」
アリューシャを含め、周りはみんな政略結婚ばかりだ。
特にアリューシャはその最たる例で、とてもじゃないがそんなアリューシャに婚約者から愛されたいなんて相談は出来なかったのだろう。
「それにしても…」
日記を読む限り、彼女は想像よりも苛烈な性格だったように思う。
いや、穏やかだった性格が、目に見えぬ恋敵の存在を知り、変質していったのだろう。
「どちらにせよ、真相はやはりこの手紙が関係しているようだな…」
「そのようね」
だが、日記を閉じようとしていたアリューシャの指が不意に止まった。
延々と続いた空白の後、日記の最終ページにメッセージが書かれていたからだ。
『これを読んでいる方へ
これを見つけたのはお兄様かしら?
……いいえ、もしかしたらアリューシャ?
それとも全く見知らぬ誰かかしら?
誰でもいいわ。
ただ私は、ほんの少しだけ最後に愚痴が書きたかっただけだから。
本来なら、この日記も本も、そして母からの手紙も、決して残してはならない物となるでしょう。
ですので、どうかお読みになった後は焼却して頂けるようお願い致しますわ。
では何故、危険を冒してまでこれらを残す事にしたのか…
ただ誰かに知っておいて欲しい。
そう思ったからに他なりません。
最初に書いたように、ただの愚痴なのですわ。
いえ、もしかしたら愚かな私を止めてくれる人が欲しかっただけなのかもしれません。
けれどそれは未来永劫叶わないでしょう。
だって私は今日、好きな方と一緒に闇へと堕ちて行く事にしたのですから…
狂愛の呪い
これを読んでいる方は、この恐ろしくも狂おしい呪いをご存知かしら?
愛する人と闇に堕ちていく呪いなのですって。
私がこの呪いを知ったのは偶然でした。
だって、愛しい方が何をされようとしているのか、知りたかっただけなのですもの。
でもね……
ミハエル様が一緒に死にたいと思う相手は私ではなかったのです。
やはり彼には他に想う相手がいたのです。
……だからね、私がその相手になる事に致しました。
素敵ですわよね?
未来永劫、ずっと共にいる事が出来るのですって…
魔女の沈む深遠の闇とは一体どういう所なのでしょうか?
きっと恐ろしい場所に違いないでしょう。
けれど…、それでも…、愛しいミハエル様と一緒なら、そこは私にとっての楽園に違いないのです。
だからどうか、全てを諦めることの出来なかった私の業をお笑い下さい。
馬鹿な女が居たと笑って、そして忘れて頂けることを望みます。
そして、ずるいずるい愚かなお母様。
私は決して貴方を許しはしない。
死が喜びになろうと、何度輪廻を繰り返そうと、ずっと貴女が堕ちて来るのを深遠にて私は待っている。
ユリーナ・ケルビット』
ミハエルへの苦しい程の愛。
そして、母クリスティーナへの凄まじい恨み。
それが、日記の最後にびっしりと書かれていた。
一体何が彼女をそうさせたのか、想像するだけで背筋が凍るような感覚に陥る。
「ユリーナ嬢が呪った相手はミハエルだったのか……」
では何故その呪いがダリヤへ向かってしまったのだろうか。
「どういう事だ?……いや、一体どうして彼女はそれほどまでに絶望していたんだ?」
死んだ母にすら恨みを抱かせる手紙。
テーブルに置かれた酷く薄汚れたそれを手にする勇気がエルグランドにはなかった。
「アリューシャ、どうする?」
読まないのも選択肢の一つだと告げると、アリューシャは首を小さく振った。
「……読むわ」
手紙にはアリューシャと彼女の兄の名前があった。
つまりユリーナは、二人に止めて欲しいと心の底で思っていたに違いない。
「ユリーナ……」
小さな呟きと共に、アリューシャが封筒から手紙を取り出した。
出て来たのは色褪せた三枚の便箋。
そこには、母から娘への謝罪の言葉が書かれていた。
『ユリーナ…、貴女がこれを読んでいるという事は、私は亡くなったのでしょう。
この手紙は保険のつもりで書いた物です。
私が不慮の事故や急な病で命を絶たれた時の為に用意した物です。
願わくば、これが貴女の目に触れぬまま、自分で処分出来る日を祈りたいものです。
では、本題に入ります。
ユリーナ、貴女はケルビット伯爵の子どもではありません。
シュバルツ公爵の血を引く子で、ミハエル様とは血の繋がった兄妹となります。
また、この事を公爵様は御存知ありません。
全ては私の愚かな出来心の所為です。』
手紙には、とある夜会で酒に酔ったシュバルツ公爵と関係を持ってしまったと明かされていた。
クリスティーナ伯爵夫人とシュバルツ公爵夫人は従姉妹同士で良く似ていた。
故に、シュバルツ公爵は自分の妻だと思っており、真実を知らないと言う。
『公爵様を愛していたの。
だから彼が間違っていると分かっていても身を任せてしまった。
ごめんなさい、ユリーナ』
だが、何も知らない周りは、ユリーナとミハエルを婚約させようとしている。
その事に焦りを感じた夫人は、今必死で回避に向けて動いている最中だと手紙には書かれていた。
この手紙は彼女の言葉通り、本当にもしもの時の為に用意された物であるようだ。
『貴女がミハエル様のことを好きなのは知っています。
けれど諦めて下さい。
やむを得ず結婚をする事になっても、どうか子どもは諦めて下さい。
ごめんなさいユリーナ。
本当にごめんなさい……』
「なんてことなの……」
言葉を無くしたアリューシャ同様、エルグランドも何も言えなかった。
母から娘への身勝手な願い。
けれど、それがどれだけ娘であるユリーナを絶望に落とすことになるのか、クリスティーナ夫人は想像しなかったのだろうか。
「………黙っていれば分からなかったかもしれないのに…」
そう思わないでもないが、血族結婚で生まれた子どもには多大な障害が見つかる事も多い。それに相手は公爵家だ。それが原因で離婚も考えられるとなれば、クリスティーナ夫人が必死で回避しようとしたのも頷ける。
「ユリーナ……」
死ななくてもいいように思えるのは、他人だから言える傲慢なのかもしれない。
それに、彼女が死を選んだ直接の原因はこれではないだろう。
ミハエルがユリーナを愛していたのなら、二人は励まし合いながら乗り越えられたかもしれない。
だがミハエルには想い人が居た。
それも、狂愛の呪いを考える程に死ぬほど愛している相手が…。
その現実が、ユリーナにとっては残酷な止めになったように思う。
「ダリヤ様は知っているのかしら…」
「何を?」
「ミハエル様の想い人よ」
彼はダリヤの結婚式でルビーに一目惚れしたと言ったらしい。
だが本当にそうなのだろうか。
仮にも、無理心中しようと思うほど好きな相手が居た男だ。
そんな男が本当にルビーに一目惚れしたというのか?
「アニキに相談した方がいいかも…」
「そうね…。彼はミハエル様と仲が良かったし、何か知っているかもしれないわ」
それにまだどうして呪いがミハエルではなくダリヤに掛かってしまったのかが分かっていなかった。
本当は見なかったことにして焼却するのがいいのだろうが、ダリヤが間違って呪われてしまった原因だけはどうしても突き止めたかった。




