青い夏 ※
「ええと、青の列の三十一だっけ」
俺はカタログの会場案内図を見ながら、目当てのサークルのブースを探した。
「こんなに広いなんて思わなかった。人が多すぎるし」
漫画の同人誌即売会に来たのは初めてで、売り手買い手双方の熱気に圧倒されていた。あちこちに設置されている大型冷風機の前で涼みたいくらいだった。とはいえ、俺はもう二十六歳だ。この程度の混雑で尻込みすることはない。
「あった。ここだ。へえ、何冊も出してるんだな」
長い机の上に、サッカー漫画の主人公と親友が向き合って描かれた冊子が積んであった。売り子の若い女性二人はキャラクターたちが所属するサッカー部のユニフォームを着ていた。自作したらしい。
「どうぞ見ていって下さい」
見本を渡され、ぱらぱらと数ページ眺めてそれを購入した。新作でない冊子も三つ手に入れた。
「二千円、ちょうど頂きます。ありがとうございました」
とてもうれしそうに頭を下げられて照れ臭い気分になり、背を向けて去ろうとして、すぐ後ろにいた若い女性の肩にぶつかった。
「あっ、すみません」
振り返って謝ると、相手の女性は俺を見て目を見開いた。
「もしかして、千葉君?」
「えっ?」
名前を呼ばれて相手の顔をよく眺め、高校時代の面影を発見した。
「まさか、石川さん?」
「うん」
俺も目を丸くしていたと思う。こんな場所で再会するなんて。彼女は俺にとって忘れられない人だった。生まれて初めてのデートの相手だったのだ。
彼女は絶句している俺をじっと見つめ、視線を手にしている冊子に向けた。
「同人誌に興味あったの?」
とても意外そうに言われた。
「サッカー漫画だから」
答えると、彼女は納得した様子になった。
「そうだよね。部活のエースだったもんね」
「友達に薦められてはまったんだ。このサークルの本が面白いとネットで見てね」
ちょっとためらって、尋ねた。
「そっちこそ、昔はチアリーダー部のキャプテンだったのに」
「私も同じような理由かな。親友がこういうの好きなのよ。今日はあの子のかわりに買いに来たんだけど……」
言いながら視線が俺を一周して、何かを理解したようなおかしそうな表情になった。
「何?」
「ううん、何でもない。ちょっと待っててくれる?」
彼女はブースの机から新作の冊子を二つ手に取って、俺たちに興味津々という顔つきの売り子の女性に渡した。
「これ下さい」
お金を払うと、彼女は俺に近付いてきた。
「一緒にお茶でも飲まない? ここじゃ話しにくいし」
「いいよ」
もう十年近く会っていなかったが、断る理由はなかった。
「こっちよ」
喫茶店にでも行くのかと思ったら、廊下のはしにある自動販売機コーナーだった。彼女はペットボトルの緑茶を、俺は冷えた缶コーヒーを買い、空いていた長椅子に並んで座った。ガラス張りの壁から彼女の白いサンダルの足元まで強い光が差し込んでいる。正面は大きな広場で、ビルの多い都会では珍しいくらい青い空と白い雲が広がっていた。
それぞれふたを開け、会場の熱気と空調のせいで乾いていたのどを潤すと、彼女は俺に目を向けた。
「あの漫画、面白いよね」
彼女は買った冊子を入れたバッグを膝に置いていた。
「そうだな。サッカー漫画では一番好きだ。結構リアルだし」
「経験者から見てもそうなんだ」
「ああ、いろいろ思い出すよ。全巻持ってる」
「アニメは見た? 去年放送されたけど」
「見たよ。やっぱり絵が動いて声が付いてると違うな。スタジアムの雰囲気とかうまく再現してた」
「どのキャラが好き?」
「特にこいつがってのはいないが、まあ、主人公に感情移入するかな」
「なるほど」
何やら頷いている。どうやら俺のオタクの程度がどのくらいか判断するための質問だったらしい。ならばとこちらも尋ねた。
「石川さんはどうしてこの漫画が好きなんだ? サッカーに興味あるのか」
彼女は横目で俺をちらりと見て答えた。
「ええと、私はそういうのじゃなくて、キャラクターが好きなの。かっこいい男の子同士の友情っていいよね」
「そんなもんか。よく分からんな」
そうした傾向の女性がいることは知っていたので深くは追及しなかった。それでも意外に思ったことは声に出てしまったらしい。
「私がこういう趣味でがっかりした?」
楽しそうに尋ねてきた。本当に面白がっているのか、幻滅されることを恐れているのかはよく分からなかったので、正直な考えを口にした。
「別にがっかりはしない。趣味なんて人それぞれだろ。他人に迷惑かけてないなら何を好きでもいいと思うぞ」
「ふうん」
彼女はそれしか言わなかったが安心したらしかった。お茶を手に少し考えて、コーヒーを飲んでいる俺にまた話しかけてきた。
「今何してるの」
普通は漫画の話よりその問いが先だよなと思いつつ答えた。
「会社員だよ。平凡な。堅実な会社の営業だ」
「へえ」
彼女はまた俺の全身にさりげなく目を走らせた。
「サッカーはまだやってるの。それで推薦とって大学行ったんでしょう」
「二年の時に足を怪我してやめた。後遺症が残ったわけじゃないが、レギュラーは無理だと分かったらやる気が失せてね」
「そう」
「足が動くようになった頃にはもう三年で、慌てて就職活動を始めたんだ。サッカーばかりでそういう準備は全然してなかったけど、スポーツに打ち込んでたっていうのはいいアピールになったよ。おかげで今の会社に滑り込めた。結構上下関係の厳しい職場なんだが、体育会系で育ってきたからうまく馴染めたよ」
「そうなんだ。じゃあ、そこそこ幸せなの?」
「まあ、そうだな。不幸ではないな。彼女はいないし、結婚の当てもないけどな」
最後のは余計な一言かと思ったが、彼女は表情を変えなかった。
「石川さんは何をしてるんだ」
尋ねると、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。
「私も会社員。入社以来ずっと経理よ。多分、この先も同じだと思う。悪い職場ではないけどね」
「チアリーダーはやめたのか」
「大学ではテニスサークルだった。高校の時は部活中心の生活だったから、普通の大学生になりたかったの。そのサークルも結局やめちゃったけど。もうずいぶん昔のことね」
美人で人気があったのにもったいないと思ったが、口には出さなかった。
「そうか。そっちもそこそこ幸せみたいだな」
「そうね。実感はないけどそうかも知れない。彼氏はいないし結婚の予定もないけど」
お互い悪くない人生を生きてきたらしい。それが分かってなんだかほっとした。感傷かも知れないが、彼女には幸せでいて欲しかった。
会話が途切れた。厳しい日差しとどこかの蝉の声が、建物のこんなすみっこまで暑さを運んでくる。
空になった缶を握ったまま広場にゆらぐ陽炎を眺めていると、思っていたことを彼女が言った。
「あの夏も暑かったよね」
ガラスの向こうに広がる青い空と白い雲を彼女はまぶしげに見上げていた。
「覚えてる? 高二の時のあのデート」
「よく覚えてるよ。こんな風にカンカン照りの日だったよな」
俺は頷いた。
「人生初のデートだったからな」
「私も初めてのデートだった。うまく行かなかったけど」
懐かしそうな口ぶりだった。
「一緒に映画を見たよね。恋愛物の、すごくエッチなやつ」
「ごめん。あれは俺が悪かった」
俺は謝った。ずっと言いたかったことだった。
「初めてのデートで何していいか分からなくて、映画なら黙って座ってればいいし、感想を話せるかなって思ったんだよ。でも、映画なんて普段見ないから、話題のやつを適当に選んだんだ。あんなに濡れ場があるなんて知らなくて」
彼女はくすくす笑った。
「あれはびっくりした。女の子ばっかりの部活でそういうのに免疫なかったからね。まさかこの後ああいうことをするつもりかしらってびくびくしちゃった」
「本当にごめん」
「あの時は驚いたけど、もういいの。私、千葉君に文句言う資格ないのよ。自分は女だから連れて行ってもらう立場だって思い込んでて、何も準備しなかったもの。サッカー部のエースとデートできることにただ舞い上がってた」
「俺も同じだ。野球部を応援した時に写真を撮られて、週刊誌の『今年の美人チアリーダー集』というコーナーにのっただろ。そんな有名人とデートできることに得意になってた」
彼女はよく分かるという表情だった。
「そうよね。今だから言うけど、私は千葉君に恋してたわけじゃなかったの。ただ、デートというものがしてみたかった。校内の女子に大人気で誰と付き合うか注目されてる人を落としたって自慢したかったの。自分のことしか考えてなかったのよ。だから、どうしたら千葉君が楽しめるか、二人が気持ちよく過ごせるかなんて、頭に浮かばなかった」
「俺も石川さんの気持ちなんて考えなかった。かわいい女の子と付き合ってみたかっただけだ。君に興味はあったけど、真剣に好きだったわけじゃない。かわいい子なら誰でもよかったんだ」
数人の女子にどんな女の子が好みなのか聞かれて石川さんみたいな美人と答えたら、話が勝手に大きくなって、いつの間にかデートすることになっていた。彼女の方は本気で俺を好きなのだろうと当時は思っていたが、同じような事情だったようだ。
「デートすること自体が大イベントだったんだよな。緊張でガチガチだった」
「私も雑誌そっくりの服を着てお洒落することで頭がいっぱいだった。初めてしたお化粧が汗で流れる心配ばかりしてた」
両方がそんな状態だったので、会話も途切れがちだった。映画の後は一層気まずくなり、お腹が空いていたのでハンバーガーを食べると、暑さに背中を押されるように駅に向かい、解散した。
「俺はあの日、家に帰って情けなさに落ち込んだんだ」
「私も思い出したくなかった」
以後、彼女のことは避けるようになった。彼女も俺に話しかけてこなかった。
「お互い若かったよね」
彼女は膝の上のペットボトルに視線を落とした。
「付き合うってことが心の絆を築くことだって、分かってなかったのよ。背伸びして大人のまねをしたかっただけだったのね」
「そもそも相手のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった。そりゃあ、うまく行かないよな」
話すうちに忘れていた細かな記憶をいくつも思い出し、恥ずかしさに頭を抱えそうになった。彼女も照れくさそうな笑みを浮かべていた。
その横顔を見つめて少し迷い、俺は胸に手を当てた。心臓がどきどきしていた。
「よし」
気持ちを確かめると、勇気を振り絞った。
「石川さん」
彼女が顔をこちらに向けた。
「次の週末、デートしないか」
彼女は驚いた表情をした。
「この漫画の聖地に行こう。高校時代のリターンマッチをしたいんだ」
多分、俺は今、真っ赤な顔をしているだろうと思った。
「リターンマッチは言葉がおかしいかもな。やりなおしというか、再チャレンジというか。今度はちゃんと計画立ててさ」
彼女はまじまじと俺を見て、おかしそうな顔になった。
「うん、いいよ。行こうよ、リターンマッチ」
彼女の頬も赤かった。
「聖地巡礼はしてみたかったの。行きたい場所があるのよ」
「俺もある。そういう場所や近くの飲食店を紹介してるサイトがないかな」
「あるよ。登録してある」
彼女は携帯を取り出した。
「ええとね……、ほら、ここよ。聖地の数、結構あるみたいね。どこへ行きたい?」
「主役と親友が初めて出会った橋とか、いつも一緒に走ってた田舎道とかがいいな。試合の舞台になったスタジアムは行ったことがあるから案内できるよ」
共通の趣味の場所なら二人とも楽しめる。話題に困ることもない。このあと一緒に即売会を見て回ろうと誘うつもりだ。まだ欲しい本があるし、同じものを買えば感想を語り合うこともできる。
「漫画読んでてよかった」
つぶやくと、彼女が聞き返した。
「えっ、何?」
俺はガラスの外の景色へ目を向けて答えた。
「俺たちも大人になったなって」
「そうかも。もう二十六だし」
「でもさ」
俺はちょっとためらって白状した。
「今、あの初デートの時より緊張してる。あんまり進歩してないかも」
「実は私も」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
白い雲の浮かぶ真夏の青空は、あの頃と同じようで、少しだけ違っていた。




