疑惑
「私の作ったマグカップ、床に落ちてる!」
美術室に足を踏み入れて、相模が悲鳴を上げた。
「ひどい! 大きなひびが入ってる!」
彼女はしゃがんで拾い上げ、一緒に部活に来た安芸と和泉に見せた。
「ふちが欠けてるね」
「取っ手もとれちゃってる」
床には細かな欠片が散らばっていた。
「ボンドでくっつくかな」
「難しいかも。破片が足りないし、くっつけたら絶対に変になるよ」
「そうだね。もう駄目だとあたしも思う」
「そんなあ。どうしよう……」
相模はあからさまに落ち込んだ。
「陸奥先輩にあげようと思ってたのに。マグカップ欲しがってたから」
安芸と和泉は同情する顔になった。
「彼氏へのプレゼントが壊れて落ち込むのは分かるけど、これはもう諦めた方がいいよ。今日の部活で作り直そうよ」
「そうだね。割れちゃったのよりもっといいのを焼こうよ」
「でも、先輩の誕生日は明後日だよ。もう間に合わないよ」
相模は泣きそうな顔だった。
「十八歳の誕生日は高校最後だし、成人する日でしょ。特別だから記念に残るものが欲しいって言われて、手作りを贈ろうと思ったのに」
友人たちは顔を見合わせた。
「明後日は無理だね」
「そうだね。他のものにするしかないね」
陶芸の窯は先生に操作してもらわないといけない。個人的な事情で使わせてはくれないだろう。
「どうしよう。せっかく先輩と私のイニシャルを書いたのに」
白いマグカップにはアルファベットの他に、十八という算用数字と、ハートや星のマークがちりばめてあった。
「今日、帰りに他のプレゼントを買いに行こうよ。選ぶの手伝うからさ」
「手作りは無理だけど、イニシャルを入れられるものは他にもあるよ。買ったものにちょっと手を加えてみたら」
「ありがとう。そうする。仕方ないもんね」
相模は目をぬぐい、マグカップを見つめた。
「でも、誰が壊したんだろう。ひどいよね」
「許せないね。犯人探そうよ」
「絶対、謝らせよう」
安芸と和泉は怒った声で言い、推理を始めた。
「部員かなあ」
「分かんない。掃除の班の人かも」
「まさか、先生とか」
「さすがにそれはないと思うけど」
「そもそも、普通は他の人が作ったものに触らないよね」
「もしかして、わざとってこと?」
「かも知れないよ」
「でも、そんなことする人いるかな」
その時、美術室の扉が開いた。
「あっ、あいつじゃない?」
安芸が叫んだ。
「えっ、何?」
指さされて、三年の東山はびっくりした様子で立ち止まった。が、すぐに美術準備室へ入っていった。
相模たち二年の三人は顔を見合わせた。
「東山先輩、ちょっといいですか」
戻ってきて机に絵の具セットを広げ始めた東山の前に、三人は立った。
「これ壊したの、先輩ですよね」
安芸が言って促すと、相模はマグカップを両手で東山の目の前に突き出した。
「どういうこと?」
東山はマグカップを見て数回瞬きした。
「もしかして、欠けたのが私のせいだと思ってる?」
「そうです」
「先輩が床に落としたんですね」
「割るなんてひどいです」
大人しい相模にまで言われて、東山は首を傾げた。
「そのマグカップ、誰のなの?」
「私です」
相模が答えた。
「そう。それは残念だったね。でも、私知らないよ」
「しらばっくれないで下さい!」
安芸が言った。
「あなたがやったんですよね。陸奥先輩へのプレゼントだったから」
「ええっ?」
「この子のだって知ってたんでしょう。部活中に作ってましたし、他の子にも見せてました。知らないなんて言わせません」
「本当に知らなかったのよ。何か作っているのは見えたけど、マグカップとは思わなかった。私は絵を描いてるから、陶芸のことは分からないの」
机の上には書きかけの水彩画がある。
相模はがっかりした様子になった。
「本当に知らないんですか。じゃあ、誰が……」
悲しげに言った相模を、安芸がさえぎった。
「だまされちゃ駄目だよ。この人に決まってるじゃん」
「そうだよ。こんなことするの、他にいないって」
「私たちより先に来て割ったんだよ」
「相模の悲しむ様子を見にきたんだよ、きっと」
和泉も言った。にらまれて、東山は困惑した顔をした。
「本当に私じゃないのよ」
「いいえ、あなたです」
「間違いないです」
東山はさすがにむっとした様子になった。
「どうしてそう思うの? 理由を教えてよ」
安芸は意地悪い顔になった。
「東山先輩、陸奥先輩のことを好きですよね」
「そんなこと……」
東山はびくっとした。
「誤魔化しても無駄です。みんな知ってますよ。陸奥先輩も知ってました」
「ちょっと、やめてよ」
焦る東山に和泉が追い討ちをかけた。
「付き合い出してから相模が聞いたんです。東山先輩のことをどう思うかって。そしたら、あいつの気持ちには気付いてるけど、俺が好きなのは相模だからって言われたそうです」
「そんな……」
東山は平静に受け流そうとしたが、動揺は隠せなかった。
「ほらやっぱり。好きなんじゃないですか」
「陸奥先輩と付き合い出してから、相模に冷たかったですよね」
「そんなことないよ」
東山は否定した。
「陸奥君が選んだ人に文句は言わない。私にそんな資格はないし」
「でも、恨んでましたよね」
「それで、こんな嫌がらせをしたんでしょう」
東山は深い溜め息を吐いた。
「分かった。陸奥君を好きなことは認める。でも、恨んではいないよ。もともと私とは釣り合わないと思ってたし、陸奥君が私に関心がないのも知ってたから。マグカップを壊したのは私じゃない。信じて欲しいの」
「信じられません」
「先輩以外に考えられません」
東山は腹を立てたらしかった。
「本当に私じゃないよ。勝手に犯人と決め付けないで」
「じゃあ、誰なんですか。教えて下さい」
「誰がやったか知ってるんですか」
「それは知らないけど……」
「じゃあ、先輩の疑いは晴れないですよ」
「一番怪しいのが先輩なんです」
「私じゃないって言ってるでしょう。根拠もなく人を疑わないで。私だって怒るよ。もっとちゃんと調べてよ。他の人が来たら聞いてみようよ」
東山は語気を強めたが、安芸と和泉は問題にしなかった。
「根拠はあります。今、陸奥先輩を好きだって白状したじゃないですか」
「それでやってないなんて、誰も信じませんよ。大体、相模の前で、この子の彼氏を好きだとか、よく言えますね。開き直るなんて、本当に図々しいですよ」
「そうです。相模に謝って下さい」
「それから、弁償もして下さいね」
「弁償?」
東山は驚いた。
「マグカップを壊した慰謝料と、別なプレゼントを買うお金です。人のものを壊したんだから当然でしょう」
東山は呆れたようだった。
「お金なんて払わないよ。謝りもしない。私はやってないんだから」
「往生際が悪いですよ」
「観念して下さい。他人に損害を与えて弁償しないなんてありえません。相模も言いなよ、謝れって」
「そうだよ。もっと怒っていいんだよ」
相模は二人と東山を見比べて、思い切ったふうに言い出した。
「遠山先輩、謝って下さい。お金も払って下さい」
ちょっとためらって、続けた。
「先輩が陸奥先輩のことを好きなのは分かってました。かなわないかなって、正直恐かったです。でも、付き合い出して、もうこれで不安はないって思ってました。なのに、プレゼントを壊すなんて、ひどすぎます。先輩には失望しました。同じ人を好きでも喧嘩しないですむかもって思ってましたけど、もう遠慮はしません。許せないです!」
東山は相模を見つめてしばらく黙り込んだ。二年生三人は東山の発言を待っていたが、何も言わないので一層怒った。
「なんで謝らないんですか! 卑怯ですよ! 罪を認めて下さい!」
「どうしてそんなに落ち着いてるんですか! 平然とうそを言って心が痛まないんですか!」
安芸は東山の絵を指さした。
「先輩の絵も破りますよ」
「そうですよ。やり返されても文句は言えないですよ」
「ちょっと、あなたたち、言うことが滅茶苦茶よ!」
東山は叱ったが、相模が言い返した。
「どうしても私に謝りたくないんですか。先輩がそんな人だとは思いませんでした」
東山は大きな溜め息を吐き、三人の顔を見回して口を開こうとした時、美術室の扉ががらりと開いた。
「あっ、来てたんだ」
陸奥だった。
「相模」
恋人の名を呼んで近付き、頭を勢いよく下げた。
「ごめん!」
「どうしたんですか」
呆気にとられた相模に、陸奥は言った。
「マグカップ割っちゃった。本当にごめん!」
「ええっ!」
三人が大声を上げた。
「陸奥先輩が割ったんですか」
「本当に?」
安芸と和泉が問い返すと、陸奥は頭をかいた。
「さっき部活に来たら誰もいなくてさ。相模の作ってるマグカップを手に取って眺めてたんだ」
「どうしてそんなことを?」
「誕生日にもらえるのは分かってたけど、どんなものか知りたくて。描いてある文字を読んでたら手が滑って床に落ちちゃった。片付けようと思ったけど、作った人に伝えないで破片を捨てるわけにはいかないと思って、相模の教室に呼びに行ってたんだ」
「なんだあ」
安芸が気の抜けた声を出した。和泉は陸奥とマグカップを見比べた。
「そうだったんだ。ばっかみたい」
「そういうわけだから、相模、ごめん、プレゼントは別なものにしてくれる?」
「う、うん……」
相模は頷いて東山へ視線を移した。
「私たち、ひどい勘違いをしてたんだね……」
安芸と和泉は顔を見合わせて気まずそうな様子になった。陸奥は不思議そうに首を傾げたが、掃除用具入れの方へ向かった。
「片付けようぜ。部活始まるし」
「そ、そうだね。箒を持ってくる」
安芸が後を追い、和泉も続いた。
「あたし、ちりとりやります」
相模は三人が離れていくと、黙っている東山の前でマグカップを持ったまま少し迷い、目を合わせずに言った。
「こ、これ、捨ててきます」
そうして、逃げるように友人たちの方に駆けて行き、追い付いた。
「ねえ、謝らなくていいの」
二人は東山の方をちらりと見た。
「いいよ。私たち、うそは言ってないし」
「陸奥先輩を好きなのは認めたじゃん。疑われて当然だよ」
「大体さあ、やってないならもっときっぱり否定すればいいじゃん。私なら激怒するよ、絶対」
「そうそう。怒らなかったのは、内心では壊したかったからだよ。だから強く否定できないんだよ。割れてざまあみろと思ってるに決まってるし」
「それ、もう半分やったのと同じだよね」
「あんたは被害者なのよ。謝る必要なんて全くないよ」
こそこそ話すと、二年生三人は掃除道具を手に陸奥の方へ行った。
笑顔の陸奥とそれを見上げる相模を東山はじっと見つめて大きな溜め息を吐くと、自分の絵を眺め、パレットに絵の具を出して色を作り始めた。




