人間だから
「なかなか会えなくてすまないな。最近忙しくってさあ」
男は楽しげに話していた。婚約者とのデートにふさわしい服装で、夕刻の都会のレストランに溶け込んでいる。
「今担当している仕事が予定より遅れているんだ。資材が足りなくて半月も作業が止まったせいだ。俺が注文を頼まれていたのに、別な仕事で慌ただしくて忘れちゃったんだよ」
あははは、と男は笑った。
「仕方ないよな。人間だからさ。誰にだってうっかりはあるだろ。なのに、あの上司ときたら、いつになったら終わるんだって嫌味を言うんだぜ。気にしていたんなら声をかければいいじゃないか。つまりはあの上司のせいなんだよな」
女はうつむいて聞いていた。なぜか着ているものが全身真っ黒だった。
「その仕事のせいでしばらく君と会えていなかったろう。だから、この間の約束には絶対に行こうと思っていたんだ。けどさ、前日に後輩に悩みを聞いてほしいって居酒屋に誘われて飲みすぎちゃってさ。二日酔いで寝込んで、目が覚めたら夜だったんだよ。すまなかったと思っている。でも、許してくれよ。俺も人間だからさ、完璧じゃないんだ」
女はコーヒーしか頼まず、運ばれてきたカップに手も触れなかった。男は大きなハンバーグを切り分けては口に運んでいる。
「心配させたよな。大丈夫、もう二度とすっぽかさない。君との時間は確保するから。以前ほどは会えないけど、今日もこうして一緒に食事しているわけだし。君はこの店、好きだろ。二人でよく来たじゃないか」
女の暗い顔を見て、男はなだめるような口調になった。
「怒っているのか。ほっといて悪かったよ。でも、機嫌直してくれよ。もう二年も付き合っているんだから、お互いの事情は分かっているだろ」
女はゆっくりと顔を上げた。
「ええ、分かっているわ」
「じゃあ、笑ってくれないか。俺も笑うからさ」
ニッコリしてみせた男に、女は携帯電話の画面を見せた。
「これがあなたの事情ね」
男が若い女と腕を組んで歩いている写真が映っていた。
「ど、どうして彼女を!」
男は食べ物を噴き出しそうになり、急いでビールで流し込んで言い訳した。
「彼女はただの友人だ。誰がこの写真を撮ったか知らないが、誤解しないでくれ」
女は悲しげに首を振った。
「あなた、一度間違って彼女へのメールを私に送ったでしょう。おかしいと思って、知り合いに尾行してもらったの。あなたが二日酔いになった日、二人であなたのマンションに入っていって、翌朝出てきたそうよ。最近会えなかったのもそのせいだと確信した」
女は冷ややかに言った。
「婚約は解消するわ」
「ま、待ってくれ、悪かった。ほんの出来心なんだ」
男は視線をテーブルの上でさまよわせて言葉を探した。
「彼女とはただの遊びだ。向こうから惚れられて誘惑されて、ちょっとだけ付き合ったが、気持ちはずっと君にあったんだ。本当だ。信じてくれ!」
女は呆れ顔だった。
「出来心ですって? 私に式場選びもドレスの準備も全て押し付けて、他の女とほぼ毎日どちらかの家に泊まっていたのに、そんな言葉を誰が信じるというの!」
女は一枚の紙を男の前に置いた。
「これは慰謝料の請求書。相場の金額よ。式場とドレスのキャンセル料もあなたに請求するように伝えたから」
女が言い放つと、男は金額を見て目をむき、慌てて頭を下げた。
「謝る。この通りだ。だから婚約解消は思いとどまってくれないか。君は素晴らしい女性だ。料理が趣味で家事全般が得意。十分な収入があって、仕事と育児の両立もうまくやってのけるだろう。他に得がたい人だと思っている。あの女とは始めから比べさえしていない」
男はハンバーグの上に覆いかぶさった体勢から、首だけ上げて卑屈な笑みを浮かべた。
「ただ、俺も男だ。結婚前に最後に遊んでおきたくなったんだ。彼女が結婚は望まないって言うからほんの少しだけ心が動いた。でも、もうきっぱり縁を切る。だから許してくれ!」
「いやよ。会うのはこれで最後。もう顔も見たくないわ」
男は女をじっと見て深い溜め息を吐き、体を起こして椅子の背もたれに寄りかかった。
「じゃあ、婚約解消は仕方ない。確かに俺が悪いといえば悪いからな。式場とドレスの金も払うよ。だけど、慰謝料三百万は多すぎるだろ」
「あなたの給料ならそれほどの負担でもないでしょう」
「それにしたって、ボーナスだけじゃ足りないよ」
「拒むなら裁判を起こすわ。あなたの職場にも事情が知れ渡るでしょうね。資材の注文を忘れるくらいあなたが忙しかった理由を知ったら、どう思うかしら。私という婚約者がいたことは隠していないのでしょう。上司から言われる嫌味の種が増えるわね」
男は絶望的な顔になった。沈黙し、紙切れと女をちらちらと見比べていたが、急に身を乗り出した。
「浮気は悪かった。謝るよ。だけど、慰謝料は勘弁してくれないか。君とは長い付き合いだ。楽しいことだっていっぱいあったじゃないか。それを慰謝料だなんて」
男は信じがたいという表情で首を振った。
「それに、彼女は色っぽくて美人だ。もちろん君だって美人だが、彼女はまだ二十歳そこそこだ。そういう若い美女に誘われたら抵抗できないのは仕方ないじゃないか。俺だって人間だからさ、そういう気の迷いもあるんだよ。それを分かってくれよ」
女は黙っていたが、手は布ナプキンをぎゅっと握り締めていた。
「人間誰だってあやまちはある。目の前の欲望に負けてよくないことに手を出して火傷をしたりして、みんな大人になっていくんだ。それが人間ってものだ。人間だから、仕方ないんだよ。そこを分かり合えるのが大人じゃないか」
「勝手なことを言わないで!」
女はテーブルをこぶしで思い切り叩いた。大きな音に周囲の客が注目したが、女はかまわなかった。
「人間だから、ですって! そんな言葉をあなたが言う資格はないわ!」
女は椅子から立ち上がった。
「あなたがいいことをしようとして失敗しても、私は許すわ。私のためや困っている誰かのために一生懸命になってうまく行かなくても、怒ったりしない。うっかり忘れ物をしたり、大事なことに後で気が付いて悔やんだりというのも、ある程度仕方ないと思うわ。そういうことは人間誰しもあることだから」
女は肩を大きく動かして、必死で呼吸を抑えていた。
「でも、浮気はいいことでもうっかりでもない。あなたが自分の意思で、私を怒らせると分かった上でしたことよ! あなた個人の責任よ! 人間だから仕方ないことではなくて、ただ単に、あなた自身に品性と誠実さが欠けているだけなのよ!」
男は呆気に取られて女を見つめていた。
「人間だから、だまされ裏切られた人の痛みが分かるの。人間だから、人を愛して、やさしくできるの。人間だから、夢を語ったり、幸福を分かち合ったりできるの。人間だからは、免罪の言葉じゃない。人として生きる喜びと悲しみ、誇りを共有する言葉なのよ! 勝手に人間をみじめでつまらない存在にしないで! 私も人間だから、そんなあなたが許せないの!」
急に女の目から涙があふれ出した。
「人間だからじゃない。あなただから好きになったの。信じて結婚したいと思ったの。そして、あなたがそういう人間だから、愛想を尽かして別れたくなったのよ! あなたにとって都合のいい女だからじゃなくて、こんな私だから愛してほしかったのに、どうしてそれが分からないの!」
女は握り締めていた布ナプキンを男に投げ付けると、カンカンと大きな靴音を立ててレストランを出ていった。
男は呆然としてそれを見送り、周囲の視線に気付くとばつが悪そうにうつむいた。
「これだから女ってやつは……。人間にはいろいろいるし、いろいろある。要求が厳しすぎるんだよ」
グラスのビールを飲み干すと、ポケットから携帯電話を取り出した。
「今夜は彼女の家に行こう。別れたと告げれば喜ぶはずだ。きっとやさしく慰めてくれる。たった一回の浮気すら許せない心の狭いあんな女は、こっちから願い下げだよ」
男はメッセージを打ち込みながらつぶやいた。
「俺だって傷付いたんだ。人間だからな」




