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短編集『花まかせ』  作者: 花和郁
第一集
4/32

桜色の魔法

「もう最悪! 来なければよかった!」

 川沿いの満開の桜並木の下を、私は早足で歩いていた。

「風で髪は乱れるし! 急な雨には降られるし! 靴は泥だらけだし!」

「待てよ。せめてゆっくり花を見よう」

 彼は困った顔で後ろからついてくる。

「せっかく桜の名所に来たんだ。雨もやんだし」

「とてもそんな気分じゃないわ。全部、あなたがお店の予約を間違えたせいなのよ!」

 年が明けてから二人とも忙しく、しばらく会えていなかった。今日は久しぶりのデートで、化粧と服に気合を入れて新しい靴を用意したのに、昼食をとるはずのレストランに入れなかったのだ。

「すまなかった。まさか予約が一名様になっているなんて思わなくて」

 彼の声も疲れている。分かっているのだ。珍しく彼の服がパリッとしていることも、和食が好きなのに私のためにフレンチの高級店を探してくれたことも。駅から向かう間には、出てくる予定の料理やお酒のことをいろいろ話してくれた。

 でも、別な店を探して歩き回ってもう一時間以上。花見客でどの店もいっぱいで、途中、通り雨にまで降られた。期待が高かったので、がっかりも大きかったのだ。

「もう帰りたい! 駅はまだなの!」

 何より、いらいらを抑えられない自分が嫌だった。

「あと少しだよ。その靴だと歩きにくいだろう。もっとのんびり行こうよ」

 溜め息を吐いた彼に、そばの出店の老人が声をかけた。

「そこのお若い方。これが役に立つじゃろう」

 机一つにガスコンロと大きな鍋がのっていて、木の看板が立ててあった。

「幸せの甘酒?」

 彼が立ち止まった。

「春の魔法がかかっておる。二杯で三百円じゃ」

 私は歩き続けたが、やや速度を落としてつぶやいた。

「何が魔法よ。そんな飲み物なんかで誤魔化されないんだから」

 彼は少し迷って金を払うと、すぐに走って追いかけてきた。

「これを飲もうよ」

 彼は前に回り込んで私の足を止めさせた。

「桜色の甘酒だってさ。なになに、飲む前にこの言葉を一緒に唱えましょう……?」

 紙コップに貼られた説明を読み上げようとして、彼は目を丸くした。

「そんなのいらない! そこをどいて!」

 叫ぶ私の前で彼は考え込み、急に真顔になると、深く息を吸って、大きな声で言った。

「あなたと一緒に桜を見られて幸せです!」

「えっ?」

 ぽかんとする私をじっと見つめて、付け加えた。

「あなたのことが大好きです! ずっと会えなくて、とっても寂しかったです!」

「いきなり何を……、こんなところで」

 行きかう人々の注目を浴びて慌てる私に、彼は紙コップを一つ押し付けた。

「君も言って」

「でも……」

「ほら、これを持って」

 私は拒もうとしたが、彼の真剣なまなざしに逆らえず、無理矢理握らされた。

「さあ、大きな声で」

 恥ずかしさにうつむいて、左右に目を走らせながら、私はためらって、小声で言った。

「……あなたと一緒に桜を見られて幸せです」 

「続きも言って」

「そんなことまで書いてない!」

「いいから言って。……言えない、なんてことはないよね」

 彼の声はわずかに緊張していた。私は彼の顔を見て、誤魔化しは通じないと悟った。私を信じてくれる彼に、口先だけの言葉は返せない。

「……あなたのことが大好きです」

 声が震えてしまった。この三ヶ月の思いがあふれてきた。

「ずっと会えなくて、とっても寂しかったです」

 こらえきれず、目から涙がこぼれ落ちた。

「ありがとう。よく言えたね」

 やさしい声だった。離れていた間、彼も私と同じ気持ちだったと胸に沁みて分かった。

 目をぬぐって顔を上げた私に彼はにっこり笑うと、桜色の酒を一息に飲み干した。

「結構うまいぞ、これ」

 私も恐る恐る一口すすり、ほっと吐息をもらした。

「本当、おいしい。あったかい……」

 甘いお酒は涙がまじって少しだけ塩味がした。

 彼はそばの大きな木を見上げた。

「桜、きれいだな」

「うん」

「ごめんな。散々で」

「ううん。いいの」

 私は紙コップを両手で包み込んで首を振った。

 彼はポケットから小さな箱を取り出した。

「レストランで渡すつもりだったけど」

 私の左手を取って、指輪を薬指にはめてくれた。

「桜のおかげで久しぶりに会えたり初めて出会ったりする人は、いっぱいいると思わないか」

 私は頷いて紙コップの文字を眺めた。彼も同じ言葉を思い浮かべたらしく、うれしそうに笑った。二人ともほっぺたが桜色になっていた。

「あっ、このにおい」

 彼が鼻をくんくんして道の先を見た。

「あそこに焼き肉の屋台があるみたいだ。行ってみないか」

 こちらへ歩いてくる数人が紙皿と割りばしを持っていた。

「おいしそうだね。お腹空いたもん」

「俺もペコペコだ。花を見ながら食べよう」

 私は残りの甘酒を飲み干すと、彼の腕に自分の腕を滑り込ませた。

 寄り添って歩き出した私たちの上に、桜色の雨がはらはらと降り注いでいた。

 秋月 忍さんのエッセイ『<続>ネタの細道』の第三十二回からお題を頂いています。


 銘尾 友朗さんの「春センチメンタル企画」参加作品。

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