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短編集『花まかせ』  作者: 花和郁
第四集
30/32

やさしさの連鎖

「よかった。間に合ったみたい」

 古い住宅街の角を曲がると我が家が見えてきた。小走りだった足をゆるめ、門をくぐって玄関前で深呼吸。荒い息を静めると、鍵を開けて中に入った。

 居間でマフラーをはずした時、呼び鈴が鳴った。私はまた靴を履き、ドアのすぐ前の門まで戻った。

「ほら、娘さんがお迎えに出ていますよ」

 手を支えられながら、母がデイサービスの送迎車からゆっくりと降りてくる。

「お母さん、お帰りなさい」

 腕を伸ばしたが拒まれた。苦笑し、やさしく声をかける。

「今日はごちそうだよ。七十五歳の誕生日だからね」

「まあ、よかったですね」

 二十代と思われる介護士の女性が微笑んだ。

「特に変わりはありませんでした。食事も活動もいつも通りなさいましたよ」

「ありがとうございます」

 頭を下げ、車が去るのを見送ると、母を(うなが)して家に入った。一月下旬、五時を過ぎたばかりなのに空はもう暗かった。

「寒かったでしょう。すぐにご飯にするね」

 母を食卓兼用のテーブルに連れて行って椅子に座らせ、テレビと暖房をつけて台所に入った。勤務先の近くの店で買ってきたひき肉をこね、ハンバーグを作る。歯が悪い母のためにかなりゆるく握り、トマト風味のソースで煮込んだ。

「誕生日くらいは違う料理でもいいよね」

 母は最近認知症が進み、変化を嫌うようになった。ぼろぼろになった古いパジャマに執着(しゅうちゃく)するし、テレビはいつも同じチャンネルの同じ番組。食事もなじみのないものは嫌がり、毎日薄味の野菜の煮物や煮魚ばかりだ。私も嫌いではないが、たまには他のものが食べたいので、誕生日にかこつけて母の好みを広げようという試みだ。

「お待たせ」

 煮込みハンバーグの横に買ってきた煮豆と漬物を並べる。ご飯と味噌汁がないと納得しないので、それも用意した。小さなケーキは食後のお楽しみでまだ冷蔵庫の中だ。自分の分も運んで、母の隣に座った。

「さあ、いただきましょう」

 声をかけると、ぼうっとテレビを眺めていた母はハンバーグに視線を落とした。

「おいしいよ」

 今日のためにレシピを調べて材料を買ってきたのだ。おかげで母の帰宅に間に合うように走る羽目になった。

「これは何?」

 母は嫌そうにつぶやき、ハンバーグを(はし)で数回つつくと、皿を前に押しやった。

「いらない」

 駄目だったか。がっかりしたが、捨てるのはもったいない。

「食べてみて。口に合わなかったら変えるから」

 皿を母の前に戻すと、また押しやられる。

「お願い。せめて一口だけ。ねっ、せっかく作ったから」

 母はむすっとしている。

「ほら、口開けて」

 私は箸を伸ばしてひとかけらを切り取り、母の口元へ運んだ。

「はい、どうぞ」

「いらないって言ってるでしょ!」

 母は顔を背け、手で箸を払いのけた。ハンバーグがテーブルの上に転がった。

「何するの!」

 私は思わず叫んだ。叱られたと思ったのか、母は怒りの形相(ぎょうそう)になった。

「こんなもの食べないから!」

 母はハンバーグを左手でつかむと床に投げようとした。

「やめて!」

 私が腕を握って止めようとすると、苛立った母は(うな)り声をあげ、箸を持った手で私の(ほお)を殴った。

「痛っ!」

 箸が目のそばをひっかき、顔をかばった腕にハンバーグが当たって鼻にソースが飛んできた。

「ご飯で遊ばないで!」

 私は頭に血が上り、思わず母の頬をたたいていた。

「あっ……」

 なんてことを。

 すぐに我に返り、謝った。

「ごめんなさい」

 母は衝撃と憤怒(ふんぬ)を顔にみなぎらせ、ハンバーグの皿を手に取って床に投げた。箸を遠くへ放り、味噌汁の椀とご飯の茶碗も床に落とす。ばりんと割れる音が響き、木の床に赤いソースと味噌汁が飛び散った。テレビにまで米粒がくっついている。

 それを見つめて私は立ち尽くした。大失敗だった。

「誕生日なのに」

 深い深い溜め息が出た。

 だが、(ほう)けていても仕方がない。私は(きびす)を返し、雑巾を取りに行った。ばらばらになったハンバーグを拾い、味噌汁の豆腐とわかめを集めて台所へ持って行き、床を丁寧にぬぐったあとさらに乾拭(からぶ)きし、掃除機をかける。母は怒った顔でテレビをにらんでいた。

「しかたない。いつものを作るか」

 念のため、母の好きなアジは買ってある。(わた)と骨を全て取り、鍋を出して煮る。新しいご飯茶碗を用意してお椀を洗い、また白米と味噌汁を出せるようにする。雑巾はゆすいで大きな汚れを取り、胸元にべったりソースが付いたブラウスも洗濯機に放り込んだ。

 はあ、と溜め息が何度も口を吐いて出た。母に手を挙げたのは初めてだった。それだけはしないでいようと思っていたのに。認知症の人は一つ一つの事件は忘れてしまうが、自分がひどいことをされたという印象はずっと心に残る。病気の進行にともなって段々言うことを聞いてくれなくなっていたが、今後はますます扱いにくくなるかも知れない。

「昔はやさしい人だったのにな」

 父は早く亡くなったので、女手一つで私を育ててくれた。四十を過ぎて離婚して戻ってきた時も何も言わずに受け入れてくれて、以来十年以上二人で暮らしてきた。食べ物を粗末にすることを何より嫌う人だったはずだが。

「喜ばせようと頑張ったつもりで、私の思いを押し付けちゃったのかな」

 誕生日だからと言い訳して、母の気持ちを考えないやり方をしてしまった。

「お母さんは悪くない。怒った私がいけなかったんだ」

 分かってはいても、溜め息が止まらなかった。

「とにかく、ご飯を食べさせないと。ケーキは出せそうなら出そう」

 よし、と気持ちを立て直し、煮魚をよそった皿を二つ持って居間に行くと、テーブルに母の姿がなかった。

「トイレかな」

 料理を置いて廊下に出て、扉を開けてのぞいてみる。いない。母のベッドのある部屋にもいない。

 まさか。

 慌てて私の部屋や風呂場まで見て回ったが、どこにもいなかった。玄関に行くと、鍵が開いている。いつもは勝手に出ていかないようにチェーン(じょう)をかけているのに。母の靴が見当たらなかった。

「料理で頭がいっぱいで忘れたんだ」

 顔から血の気が引いた。サンダルをつっかけて外に出る。門を出て左右を見回すが、見える範囲に人影はなかった。慌てて右の四つ角へ走り、引き返して左の角へ向かう。

「どこへ行ったんだろう」

 もうすっかり暗く、星が広がっていた。一月の寒さに体が震えた。母はコートを着ていない。デイサービスから帰ってきた時脱がせたのだ。

「急いで連れ戻して体を温めないと」

 いったん家に帰って火の元を確認し、コートを羽織ると母の上着を手に施錠して外へ出た。

「まだ近くにいるはず」

 出ていってから五分はたっていない。見付かってほしいと願いつつ、母のいつもの散歩コースを一周した。誰にも出会わなかった。真冬のこんな時間に出歩く人はいないのだ。見かけたか尋ねることすらできなかった。

「この寒さの中、行き倒れでもしたら」

 寒さや暑さの感覚が鈍くなっているようだし、昼と夜の区別もついていない。疲れるまでどこまでも歩いていくだろう。走り回って浮かんだ汗が急速に冷えて背筋を流れた。

「とにかく、探す範囲を広げよう」

 思い出されるのは数ヶ月前、警察に保護された時のことだ。いつもの散歩に行ったと思っていたら一時間以上帰ってこず、探し回った末警察に連絡したら、親切な人が車で交番まで連れて行ってくれていたのだ。

 あの時は熱中症を心配したが、今回は食事もとらずに薄着なのだ。

「駅の方へ行ったのかも」

 長年通った道だし、これまでも何度かあったことだ。母の名を大声で呼びながら早足でそちらに向かった。旧姓の名前も叫んでみるが、答える声はなかった。

 住宅街を抜け、大通りへ出た。これに沿って進むと駅前商店街があり、鉄道の駅に出る。さすがに人通りが多く、バスやトラックがびゅんびゅん横を過ぎていく。

「もし赤信号で止まらなかったら」

 二ヶ月ほど前から信号を無視して渡るようになり、散歩に行く時は必ず付き添っていた。最悪の想像をして不安が膨らむ。あたりを見回して母の名を呼びながら走った。

「本当にいない。どうしよう」

 商店街のアーケードの前まで来てしまった。ここまで普通に歩いて十五分はかかる。もし他の方向に行ったのならもう追い付けないだろう。夕食時の商店街は人通りが多く、探すのは大変そうだ。

「お母さん、どこへ行っちゃったの……」

 立ち止まったらへたり込みそうになった。息が荒くのどが熱いが、休んではいられない。商店街に駆け込もうとした時だった。

「そこの方」

 背中に声がかかった。振り向くと七十を越えていそうな品のよいおばあさんだった。

「助けをお求めですか」

 遠慮がちに話しかけてきた。

「お母様を探していらっしゃるのかしら。随分と焦っているご様子ですけど」

 声を少し落として続けた。

「失礼ですが、もしかして、ご病気をお持ちの方なのでしょうか」

 私は相手を上から下まで眺め、一瞬口ごもった。だが、ためらっている場合ではなかった。

「実は、母がいなくなってしまって。七十五歳で認知症なんです」

 そこまで言うと、止まらなくなった。

「目を離した隙に家を出ていって、探したけれど、どこにもいないんです。コートを着てなくて、ご飯も食べてなくて、交通事故も怖いし……」

 おばあさんは少し目を見開いた。

「それは心配ね。こんなに寒いもの」

「そうなんです。一体どこに行ったのか」

 目が(うる)みそうになった。表情に出たのだろう、おばあさんがいたわる顔つきになった。

「事情は分かったわ。探すのを手伝いましょう」

「本当ですか!」

「ええ。ここの商店街の会長さんとは親しいの。この中は任せてちょうだい。他の知り合いにも連絡して探してもらうわ」

「あ、ありがとうございます!」

 そう叫んで、頭を思い切り下げると、とうとう涙があふれ出た。私は気が付いた。この言葉を言ってくれる誰かを求めていたことを。心が助けを切実に欲していたのだ。両手で顔を覆うと、おばあさんは私の肩をやさしくたたいてくれた。

「電話番号を教えてもらえるかしら。見付かったらすぐに連絡するわ。あなたはおうちに戻りなさい。家に帰ってくるかも知れないでしょう」

 私は涙をぬぐい、いなくなった時の状況を説明し、母の名前と着ている服などの特徴を伝えた。

「もし私たちが探しても見付からなかったら警察に届けましょう。この寒さは命にかかわるわ」

 私は頷き、もう一度深く頭を下げて道を引き返した。母はまだ見付かっていないが、気持ちは少し楽になっていた。

 あたりを見回しながら家に戻り、母が帰っていないことを確認し、近所を探して歩いた。電話はかかってきたらすぐに出られるように手に握っていた。散歩コースをもう一度回り、母が立ち寄りそうな公園や知り合いの家をのぞいていった。

 随分長い時間が過ぎたと思った頃、電話が鳴った。

「商店街にいたわ」

「本当ですか!」

 道の上で大声を上げてしまった。

「今、会長さんが保護しています。コートを着ずにセーター姿で歩いていたから、薬局の方が心配して声をかけたんですって。魚屋に行きたかったみたいね。服に名前が書いてあったから間違いないと思うけど、確認しに来てくださいな」

「は、はい、すぐに行きます。ありがとうございます!」

 安堵(あんど)のあまり、全身から力が抜けた。そのまま座り込みたかったが、気合を入れ直し、駅の方へ歩き出した。足取りは二十歳も若返ったかと思うほど軽かった。

 商店街の会長の店は総菜屋だった。てんぷらやレバニラ炒めなどが数十種類ならぶ店の隅で母はどてらにくるまれて、熱いお茶を飲みながら総菜をつまんでいて、私を見ると顔をほころばせた。

「本当にありがとうございます」

 この言葉を二十回は言って、私は頭を下げた。料理の代金を払おうとしたが、会長さん夫婦は首を振り、「売れ残りだけど」と五種類も総菜を持たせてくれた。

 母と一緒に家に帰ってくると、アジと味噌汁を温め直し、頂いた総菜で夕食にした。念のため体温を測り、熱い生姜湯(しょうがゆ)を飲ませてから、布団に連れていった。歩き回って疲れたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。

 母が寝付くと、おばあさんに電話をした。見付かったと連絡を受けた時は急いでいたので、きちんとお礼を述べたかったのだ。

「本当に親切にしていただいて、感謝の言葉もありません」

 私が心から言うと、おばあさんが微笑む気配が伝わってきた。

「いいのよ。私も同じだったから」

 懐かしむような声音だった。

「ある方に助けてもらったの。『そこの方、助けをお求めですか』って」

「そうなんですか」

「私の母も認知症でね。介護に疲れてしまって、母を殺して自殺することすら考えていたのよ」

 一人公園でぼんやりと座り込んでいた時、相談に乗ってくれた人がいたのだという。

「その方もお父様の介護をしたのだけれど、その頃はまだ認知症が知られていなくてね。自分も周囲も分からないことばかりだったそうよ。してあげられなかったことも多くて、後悔がたくさんあるって。だから、困っている人がいたら助けようと思っていたっておっしゃっていたわ。私はその人に本当に救われたの。それ以来、私も困っている人を見かけたら声をかけるようにしているのよ」

 だから慌てていた私の説明ですぐに状況を理解してくれたのだ。

「介護は本当に大変で、つらいことが多いわね。でも、その経験は無駄じゃないわ」

 おばあさんの言葉には確信が感じられた。

「母がいたから、配慮や協力をしてくださる近所の方々とたくさん知り合いになれた。熱心なお医者様や看護師さん、素晴らしい介護士さんと出会うことができた。苦労したから、人のやさしさのありがたみがよく分かったし、あなたに声をかける勇気を得た。母のおかげであなたに親切と言ってもらえる人になれたのだと思うわ」

「私もそう思えるようになるでしょうか。今日、母をたたいてしまったんです」

 私は泣いて告白した。

「自分の醜さばかりが見えてくるようで」

「そんなことないわ。あなたは寒い中お母様を探して走り回ったのだもの。それもいつか思い出になって、あなたの財産になるわ」

 おばあさんは母のこれまでの経過や最近の状態を聞いていくつか具体的な助言をくれて、いつでも相談してちょうだいねと言って電話を切った。

 翌日、私は母をデイサービスに送ったあと、菓子折りを持っておばあさんと会長さんと薬局にお礼をしに行った。あまり利用しなかった商店街でよく買い物をするようになり、おばあさんとの交流も続いた。母は病気が進み、医者の指示で入院したあと、今は老人ホームにいる。面会にはできるだけ行っているが、時間に少し余裕ができ、介護を理由にはずしてもらっていた仕事にも取り組めるようになった。助けてくださった方々がいたからだと心底思う。

 だから、私は足を早めた。

 慌てた様子で周囲を見回しながら住宅街を走り、大声で親らしい人の名前を叫んでいる女性がいる。

 あれは一年前の自分だ。

 一回深呼吸し、「よしっ」と気合を入れると、私は近付いて声をかけた。

「そこの方、助けをお求めですか」

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