大切 ◎
「ありがとうございました」
弁当屋のお姉さんがお腹の前で手をそろえてお辞儀をした。
「こちらこそ、ありがとうございました!」
サンドウィッチを受け取った上野君も九十度に頭を下げた。私は慌ててそれにならった。
「あ、ありがとうございます」
歩き出してちらりと振り返ると、お姉さんが目を丸くして見送っていた。今頃になって恥ずかしくなってくる。
(絵は遥彼方さん作。「イラストから物語企画」)
「じゃあ、動物園に向かおう」
「う、うん」
私の都合で待ち合わせがお昼ごろになったので、園内で食べようと上野君は提案した。サンドウィッチにしたのは、軽めにしておいて途中で買い食いをするつもりだから。
「下田さんはどの動物が好き?」
上野君の声が上ずっている。目も合わせない。緊張しているらしい。
「ペンギンかな」
適当に知っている動物を挙げると、返答まで少し間があった。
「いたっけ?」
水族館ではなかったことに気が付いた。
「じゃあ、コアラとか?」
「いないかも……」
「じゃ、じゃあ、パンダ……もいないよね。ごめん」
緊張しているのは私も同じだ。デートをするのは生まれて初めてだもの。
「レッサーパンダならいるかも。レッサーもいいぞ、きっと。パンダの仲間なんだから」
「仲間じゃなかったと思うよ」
「そうなんだ……」
言葉が続かなくなった。動物園の大きな門へ伸びる道を、上野君はあらぬ方を見ながら歩いていた。
「よろしくお願いします」
チケットを買い、入る時、上野君は改札係の人にも深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
もぎってくれたチケットを受け取るとまた一礼。私は迷ったが、知らないふりをして先に通り過ぎた。周囲の注目を浴びて顔が赤くなるのを感じた。
「やっぱり来るんじゃなかったかな」
聞こえぬように、私はつぶやいた。
「断ればよかった」
数日前、同じクラスの中山さんに頼まれたのだ。自分の幼馴染とデートしてくれないかと。
「あいつ、あんたのこと好きみたい。すごく思いつめちゃっててさ。見てらんないんだ。今週末会ってやってくれない? 悪いやつじゃないからさ」
「中山さんが付き合えばいいんじゃない?」
「あいつは家が近所で姉弟みたいなもんだから、そういう気持ちにならないんだよね。あたし、彼氏いるし。でも、あいつには幸せになってほしいんだ。だから、お願い! 一度きりでいいからさ。それで振られたら諦めがつくと思うんだよ」
私は根負けした。デートというものがしてみたかったのもあった。半年前に高校生になったのだし、恋愛をそろそろ小説以外で体験したかった。でも、上野君は変な人だった。
「じゃあ、道なりに行こうか」
「うん」
最初に見たのはキリンだった。象もいた。羊に餌もやった。目の前に生き物がいると話題に困らない。上野君は熱心に観察して写真をたくさん撮っていた。
「動物園って初めて来たけど、結構楽しいな」
「そうだね。動物、かわいいね」
答えて、私は小さく溜め息を吐いた。
「でも、落ち着かないよ」
上野君はまた飼育員に頭を下げている。動物園の職員とすれ違うたびに挨拶するし、羊の餌をもらった時も大声でお礼を言っていた。大人たちはうれしそうにお辞儀を返してくれるけど、周囲の若い人たちはびっくりした顔をする。小学生が彼を指さして「あの人、何してるの?」と言った時は逃げ出したくなった。
「はあ。上野君の方がよっぽど珍しい動物だよ」
疲れ果てた顔をしていたのか、ようやくまっすぐ私を見るようになった上野君は、心配そうに声をかけてくれた。
「少し休もうか」
動物園の奥は小高い丘になっていて、小さな神社と展望台がある。階段を上がって鳥居をくぐり、ベンチに座り込むと、上野君が売店でアイスクリームを買ってきてくれた。
「ふう、生き返るなあ」
すっかり秋めいてきたとはいえ、まだ晴れると暑い。冷たさがのどに心地よかった。
「元気出た?」
「うん。おいしいね」
遠くの空が赤くなっている。平野に広がる住宅地の灯りが昼より目立ち始め、動物園のお客さんも子供連れは出口の方へ流れている。
「お参りしてくる」
上野君は本殿に行ってお賽銭を入れ、また何度も深く頭を下げて真剣に祈っていた。
「お待たせ」
満足した顔で戻ってきた上野君が隣に座ると、私はとうとう我慢できなくなった。
「ねえ、どうしてそんなにお辞儀をするの?」
どう切り出そうか迷って、軽い口調で尋ねてみた。
「さっき、鳥居の前でも頭を下げたよね」
上野君は笑みを収めた。
「変、かな?」
「え、ううん。変ではないけど……」
誤魔化し笑いを浮かべて、しまったと思った。全然さりげなくない。でも、いまさらあとには引けないので、思い切って疑問をぶつけた。
「私はあんまりそんな風にしないから。何か理由があるの?」
「あるよ」
上野君は頷き、少しためらって問い返した。
「知りたい?」
「よければ教えて」
「いいよ。中一の時のことだけど……」
上野君は組んだ膝に両手を重ねてゆっくりと語り始めた。
「俺の親父は人形を作る職人なんだ。木の体に布の服を着せたもので、壊れた人形の修理も請け負ってる。昼間は新しいのを作って、夜は遅くまで直す仕事をしてるんだ。四年前に母ちゃんが亡くなってからは服も親父が作ってる。忙しくなったのに、朝早く起きて食事の準備と家事をして、俺が帰るまでに夕食を用意して、それ以外の時間はずっと工房に籠もってるんだ」
上野君の靴に、鳥居の長い影がかぶさり始めていた。
「だから、俺はいつも一人で飯を食ってた。前は母ちゃんと一緒だったから、とても寂しかった。親父の料理はあんまり美味くないけど、それはいいんだ。でも、一人ぼっちは嫌だった。それで、工房に忍び込んで、捨てたんだ。修理を依頼された人形を」
上野君は苦笑いを浮かべたが、声は落ち着いていた。
「仕事が減ったから、今日は一緒に飯が食えるかなって、どきどきしながら食堂で待ってたら、親父が慌てた様子で走ってきた。『大変だ。預かった人形がない! お前、知らないか!』って叫ぶんだ。普段おだやかな親父がさ。俺は素知らぬ顔で、『さあ、知らないよ』と答えた。そしたら、親父は俺の顔をじっと見て、『お前がやったのか。どこにある』とぞっとするような声で尋ねた。近寄ってきて、『さっさと言え。すぐに持ってこい』って、襟をつかまれるかと思うくらいの剣幕だった。びっくりしたけど、平気なふりをして言ったんだ。『それよりご飯食べようよ。たまには一緒にさ』とね」
上野君は悲しそうな顔をした。
「『なんだと?』親父は目をむいた。俺は何か間違ったらしいと思ったけど、『たまには一緒に食べたいんだ。いつも疲れてるみたいだから、今日は夜の仕事を休んだら』と返した。親父は驚いたように少し黙り、抑えた声で言った。『とにかく場所を言え。それが先だ。』俺は品物を捨てた場所に連れて行った。焼却炉の中に放り込んでたんだ。親父はそれを見て絶句し、急に背を向けて家の中に戻ると、階段を上がっていった。『どこへ行くの?』追いかけると、親父は俺の部屋に入って、棚の上に飾ってあった古い布の人形を手に取った。『よく見ていろ。』いうなり、親父は腕を振り上げ、人形を床にたたき付けようとした。俺は慌てて飛び込み、親父を止めた。『何するんだ! それは母ちゃんが作ってくれたものだぞ!』『これが大切か!』『当たり前だろ! 俺の宝物だ!』すると、親父は叫んだ。『なら、なんで分からない! 人形の修理を依頼してくる人たちの気持ちが!』急に親父の体から力が抜けた。ずるずると床に座り込み、人形を放り出して、床をこぶしでがんがんたたいた。『情けない。本当に情けない。お前がそんなやつだったなんて。天国の母さんに申し訳が立たない。』親父はぼろぼろ涙をこぼしていた。『やさしい子に育ってほしいっていうのがあいつの口癖だった。それだけでいい、人に愛される子になってほしいってな。なのに、なぜ、他の人の大切なものを大切にできないんだ! この人形に籠められた思いを想像できないんだ! 俺はお前の教育に失敗したんだな! 母さん、すまない。俺はお前に顔向けできない。最後にこの子を頼むと言ったお前に、安心しろ、任せておけって約束したのに! 本当にすまない!』」
上野君は鼻をすすった。
「俺は叫んだ。『ごめん! 父ちゃん、ごめん! 本当にごめん!』俺も泣いた。母ちゃんの人形を抱いてわんわん泣いた。泣きながら親父と母ちゃんに謝った」
私が差し出したハンカチはすぐにびちょびちょになった。
「そのあと、親父と一緒に人形を洗った。幸い火はついてなかったから、大きく傷んだものはなくてほっとした。親父は時々俺と一緒に飯を食うようになったし、俺も親父の仕事を手伝うようになった」
上野君は濡れたハンカチを大切そうに両手で包んでいた。
「それから、心がけてるんだ。想像するように。これは誰かの思いが詰まった品物じゃないか、ここは誰かが大切にしてる場所じゃないか、この人は誰かにとって大切な人じゃないかって。そういう人たちの気持ちと努力に敬意を払おうって。だから、弁当屋や動物園で働いてる人たちに頭を下げたんだ。神社に入る時も、ここを愛してる人や守ってきた人たちに失礼のないようにお辞儀したんだ」
アイスクリームを食べ終わると、私たちは階段を降り、出口へ向かった。上野君は神社の宮司さんや動物園の改札の人に、また頭を下げていた。
駅前商店街の入口で、上野君が立ち止まった。
「また、誘ってもいいかな」
前を向いたままの顔は真っ赤だった。それをちらりと見上げて、私も駅の方を見たまま言った。
「いいよ」
大きな吐息が聞こえた。上野君は胸を張り直すと、かすれた声で尋ねた。
「どうして? 絶対振られると思った」
私は顔が熱くなるのを自覚しながら答えた。
「付き合うなら、やさしい人がいいなって思ってたから」




