おなら ◎
「君はそんなに芋が好きだったか」
大学時代からの友人が意外そうに尋ねた。
「随分たくさん食べるんだな」
「あまり好きではなかったな。最近はよく食べるが」
文学部名誉教授の男性はポテトサラダをのみ込むと、ナプキンで口元をふいた。
「慣れると結構おいしいものだぞ。そもそも、この店は芋料理が定額で食べ放題と言うから来たんだ」
今度はフライドポテトをナイフとフォークで半分にし、ケチャップを付けて口に運んでいく。
「何が食べたいと聞いたら君が芋と答えたからな」
友人は呆れた様子だった。
「俺たちはもう八十を越えた。炭水化物ばかりは体によくないぞ。血糖値が気にならないのか。他のも芋ばかりじゃないか」
元教授の前には皿が五枚あり、うち二枚にはスイートポテトと焼き芋がのっている。
「ちゃんと健康も考えているさ。まだ死ねないからな」
最後の一枚は十種類以上の野菜を使った彩り豊かなサラダが山盛りになっていた。
「それにしても、そんなに食べると……」
友人は言い淀み、声を低くした。
「あれが、出るんじゃないか」
「おならか? ああ、出るよ」
いうなり、元教授は腰をちょっと横にずらして、大きなおならをした。
「おい、聞こえるぞ」
友人が辺りを見回した。隣の席は高校生くらいの女の子三人で、目を丸くしてこちらを見ている。
「そんなにおならが気になるか? 芋ばかりだから臭くないぞ」
「そういう問題じゃない。大勢がいるレストランで……」
頭髪が真っ白の友人は言いかけて諦めた。
「まあいい。そんな尾籠な話はやめよう。話題を変える」
少し考えて、また口を開いた。
「最近はどんな本を読んでいるんだ」
「本はあまり読まなくなった。時間がないんだ」
元教授は答えた。
「妻と一緒にテレビや動画を見ることが多いな」
「へえ、どんな内容のものだ?」
友人は興味を引かれたらしい。
「洗面器でどつき合う『内風呂君と露天さん』とか、大福の着ぐるみの『餡子はみ出し隊』とかだな。今は『スカンクの臭太郎』がお気に入りだ」
「なんだって!」
友人は思わず大きな声を出し、慌てて口を押さえた。
「どれも体を張ったくだらないお笑い芸人じゃないか。互いの浴衣を脱がせようとしながらちょうどいい湯加減について水かけ論を繰り広げる連中と、味噌あんと白あんとうぐいすあんが押しくらまんじゅうをしながら粒あんとこしあんの悪口を言うやつだろう。滑稽な身振りでずっこけたり、素っ頓狂なことを言ってポーズをつけたりするやからだ。スカンクの彼は一度テレビで見たが、お尻を突き出して大きなおならの音を口で出すのが売りだったはずだ。どうして君がそんな低俗なものを……」
「まあ、そうだな。下品だし、低俗だ。くだらないと俺も思うよ」
「では、なぜだ。俺には信じられない。君はフランス文学科の元教授で、他の国の文学にも造詣が深いじゃないか。この間、勲章までもらっている。その君が、なぜそんな風になってしまったんだ」
スイートポテトを食べ終えた元教授は、紅茶を一口飲むと、嘆く友人に視線を向けた。
「君はああいうのが嫌いなんだな。気持ちは分かる。正直に言えば、俺もあまり好きではない。でも、人間がおならをする生き物だったことに、俺はとても感謝しているんだ」
怪訝な様子になった友人に、元教授は焼き芋を食べながら語り始めた。
「俺の妻は認知症なんだ」
友人は絶句したが、元教授はただの事実だという顔つきだった。
「君も知っていると思うが、俺たちは高校の文芸部で出会った。本好き同士で意気投合し、放課後は校舎の屋上へ出る手前の階段に座って、小説や詩の話をいつまでもしていたものだ。それまで俺は日本文学が好きだったが、同じ本の話がしたくて彼女がよく読んでいたフランス文学に手を出した。卒業前に告白して、大学は彼女と一緒にフランス文学科に進んだんだ」
文学少女だったころの妻を思い出したのか、元教授はかすかに微笑んでいた。
「そんな彼女が、もう本を読めない。書斎は小説でいっぱいだが、もう何年も開いていないんだ。漢字が読めないし、小難しい哲学や文学なんてとても無理だ。それでも捨てようとはしないから、大切なものだという思いは残っているのだろうな」
元教授は左手の結婚指輪に目を落とした。
「少し前のことさえ憶えていないのだから、テレビのドラマもストーリーが追えない。週一回や毎日放送のものは論外だ。外国映画は字幕が読めない。それでも、彼女はいつもテレビの前に座って画面を眺めている。どうしてか分かるかい」
「いや」
「他にすることがないのが大きな理由だが、彼女にも理解できるものがあるんだ。君の言う低俗なものさ。大道芸、落語番組の大喜利、漫才や声帯模写や物まね、そういったものは笑えるし楽しめるんだ。歌や音楽も、好きだったクラシックではなく、子供のころに憶えた童謡ならうれしそうに一緒に歌っている。ドラマは、筋は分かっていないらしいが、俳優が笑ったり叫んだり泣いたりすると感情を揺さぶられるらしく、にこにこしたり涙をこぼしたりする。だから、まじめで深刻なドラマよりも、滑稽で大袈裟な演技のものの方がいい」
「あの彼女がそんなものを喜ぶのか」
「そうだ。そういうものに、俺と妻は救われている」
元教授は苦笑した。
「俺はずっと、文豪の書いた名作が最も価値があると思っていた。人を心から感動させ感嘆させる作品はまさに芸術で、人にはこんなすごいものを創り上げる力があるのだと、人間に生まれたことを誇りに思う気持ちでいつも胸がいっぱいになった。くり返し読んですみずみまで知っている作品でも、読むたびに新しい発見がある。一生をささげて研究するに値するものだった」
教授のかばんから、フランス文学の大きな本が少し頭をのぞかせていた。
「だが、ああいうものは人を選ぶんだ。どんなに素晴らしい作品でも、理解できない人を喜ばせ、感動させることはできない。しかし、ばかばかしいお笑いなら、より多くの人が笑える。読解力の乏しい人も楽しむことができる」
元教授はまじめな口調だった。
「最近の彼女のお気に入りはおならをするスカンクの芸人だ。あの芸をテレビで見ている時に俺が横でおならをしたら大笑いした。おならをすると彼女が笑うと分かったので、こうして芋をたくさん食べて、たくさんおならをしているんだ。毎日十回は大きなおならをしているな」
友人は我慢しきれなくなったように口を挟んだ。
「しかし、文学部名誉教授の君がそんなことをしなくたって……」
「その肩書は彼女の前では何の役にも立たない。芋を食べておならをする方が彼女を楽しませ、笑顔にさせることができる」
友人は口をつぐんだ。
「認知症の人の寿命は長くない。彼女はあと数年で死ぬだろう。それまでただぼうっと理解できないテレビを眺めて過ごさせたくはない。笑って泣くのは人間の根源的な喜びだし、とても人間らしいことだ。最後まで彼女には笑っていてほしいんだ。だから俺は、たくさんおならをする。最初は恥ずかしかったが、最近は人前でも平気でできるようになったよ」
元教授はまたお尻を上げて大きな音を立てた。
「見ろ。あっちの席の高校生が笑いをこらえている」
元教授はおだやかな顔で言った。
「今でも高尚な文学はとても素晴らしいと思う。笑わせ泣かせる方法は型や定番があり、まねすることが可能だが、人生についての深い思索はその作者の頭の中から生まれたもので、他人には似たものを生み出すことはできないからね。二つと同じものがない貴重な宝石のようなものなんだ。それでも、時にはおならのようなくだらないものの方が人を幸せにできる。そのことに、この年になってようやく気が付いたよ」
教授はもう一回大きなおならをすると立ち上がり、とうとう噴き出した女の子たちに帽子をとって軽く会釈した。
「おかわりをもらってくるよ」
元教授は八十過ぎとは思えないしっかりした足取りで、テーブルの間を抜けてポテトサラダのコーナーへ歩いていった。
(絵は遥彼方さん作。「イラストから物語企画」)




