もどかしい会話 ☆
「暑い……」
駅前の繁華街を歩きながら、俺は今日数十回目の言葉をつぶやいた。
「ここにするか」
中華料理店の前で立ち止まり、ギラギラと照り付ける真夏の太陽から逃げるように暖簾をくぐった。
昼時で、ガラス張りの明るい店内は客でいっぱいだった。近くで働いている人たちなのか、若い女性や背広姿の男性が多かった。
カウンター席に座り、冷やし中華を頼むと、コップの水を一気に半分飲んだ。
「ふう、生き返るぜ」
冷たいお絞りで手と顔をふいた。本当はワイシャツの内側もぬぐいたかったが、さすがにやめておいた。
「ここに入ったのは初めてだな」
店内を見回して、生ビールのポスターを見付けた。
「飲みたい。でも、仕事中だからな」
思わずのどが動いたが、大きな息を吐いて、底に残った氷をがりがりと噛み砕いた。
「しんどいなあ」
いつもの得意先回りも、こう暑いとやる気がなくなる。さぼって家に帰りたい。シャワーを浴び、キンキンに冷えた酒を飲んで寝てしまいたい。
「いかんいかん」
落ちそうになったまぶたをぱちぱちしていたら料理が来た。
「うまそうだ。いただきます」
早速はしを割ってすすり込み、もぐもぐやっていると、隣の会話が耳に入ってきた。
「彼がね、かわいいって言ってくれたのよ。あの彼が!」
すぐ横のカウンター席に若い女性が二人座っていた。長い髪とショートヘア、どちらも涼しげなブラウスにスカートで、同じ会社の同僚らしい。
「彼が髪型を変えたのよ。でね、私、ほめたの。今度のも似合ってる、もとがいいからどんな髪でもかっこいいって」
ショートヘアの方が話している。
「そしたらね、君もきれいだよ、前から思ってたって彼が言ったの!」
「あのいつもむっつりしてて無口な人が?」
「そう。顔を赤くして、俺はアリクイだからって」
髪の長い方が不思議そうに聞き返した。
「南米の珍獣? 顔が長いから?」
「違う違う。ええと、漆喰?」
「白い壁がどうしたの?」
「じゃあ、入れ食い?」
「釣り堀か!」
「焼け棒杭だったかな?」
「それに火が付くって、元彼女と寄りを戻したとかって場合だよ!」
「なんだっけ……」
ショートヘアの女性は首を傾げ、ぱちんと手を叩いた。
「あっ、面食い!」
「ああ、それかあ」
あははは、と二人は笑い崩れた。
「ていうか、自慢? のろけ?」
「そうなる?」
「なるなる」
「じゃあ、のろけで」
また大笑いした。
二人は運ばれてきた中華丼と麻婆豆腐定食を口に運び始めたが、すぐに髪の長い方が言い出した。
「そういう話なら、うちの彼氏の方がすごいよ」
「なになに? 何があったの?」
ショートヘアが食い付いた。
「この間、花火を見に行ったのよ」
「ふむふむ」
「出店でたこ焼きとか買って、河原で寄り添って座って眺めてたの」
「おおっ、いい雰囲気だね」
「そしたらさあ、俺達一緒に住まないか、だって!」
「もう付き合って長いよね。承知したの?」
「うん。すごくまじめな顔で提案されたから。俺さあ、お前に……、なんだっけ?」
「おいおい、覚えてないの?」
ショートヘアはがくっと脱力した。
「ここまで出かかってるんだけど……。お前に何とかこん、って言われた」
「えっ、結婚?」
「違うの。残念だけど」
「じゃあ、蓮根?」
「泥にどっぷりつかってる感じ?」
「大根?」
「野菜から離れて」
「怨恨?」
「この恨み晴らさでおくべきかあ、って、あだ討ちでもされるの?」
「合コン!」
「私たち付き合ってるって」
「じゃあ、何?」
「ええとねえ……」
長い髪の女性はレンゲを持ったまま眉を寄せ、大きく頷いた。
「ああ、ぞっこん」
「なるほど!」
ショートヘアが破顔した。
「確かにそうだよね。あんたのこと大好きなの見てて分かるもん。結婚の準備のつもりじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ。間違いないよ」
「だといいなあ」
一緒に大声で笑っている。
「あっ、冷めちゃう」
「そうだね。早く食べよう」
しばらく料理に集中していたが、ショートヘアの女性が急に思い出し笑いをした。
「そう言えばさあ、人事課のあの背の高い人、彼女ができたんだって」
長い髪の方もすぐに応じた。
「かっこいいもんね。当然じゃない?」
「でも、全然女に興味なさそうだったじゃん。奥手そうだし。それが、すっごくかわいくてうぶな子に真剣に告白されて付き合い始めたんだって。でもね、なかなか進展しなくて、付き合って三ヶ月でまだキスもしてないらしいよ。同じ部署の人たちがどうすればいいかいろいろ教えてあげてるのを聞いちゃったのよ」
「なんか想像できるね」
長い髪の女性は微笑んだ。
「でね、傑作なのが、その彼女の名前なの」
「名前?」
「うん。あの彼にぴったりだって、人事課で話題なんだって」
「変わった名前なの?」
「ううん、普通の名前だけど、聞くと笑っちゃう」
「へえ、何ていうの?」
ショートヘアの女性は首を傾げた。
「あれ、何だっけ。忘れちゃった」
「また?」
長い髪の方はおかしそうな顔をした。
「下の名前はゆいだったと思う。唯一の」
「じゃあ、名字が面白いんだ」
「そうそう」
「ふうん……」
髪の長い女性はレンゲを動かす手をしばらく止めた。
「大川さんじゃない? おお、かわゆい、みたいな」
「違うの。私も思い付いたけど、それじゃない」
「おもは、ゆい?」
「おもはって名字ある?」
「こそば、ゆい?」
「わんこ蕎麦か!」
「まば、ゆい」
「間庭はいそうだよね。私の知り合いにはいないけど」
「私もいない。……もしかして、むずか、ゆい?」
「もっとシンプルだよ」
「かみ、ゆい、とか」
「美容師さんじゃないよ。看護師さんなんだって」
「じゃあ、何?」
今度はなかなか出てこないようで、二人は食べながら考え込んでいる。
俺は空になった皿にはしをのせ、横に代金を置いた。
「ごちそうさん」
店主が目で硬貨を確認して威勢のよい声を上げた。
「へい、ちょうど頂きます。ありがとうございました!」
俺は立ち上がり、二人の女性の後ろを通り過ぎながら言った。
「羽賀さんだろ。はがゆい」
「えっ?」
女性二人はびっくりして俺を見送り、顔を見合わせて噴き出した。
「それだ!」
大きな笑い声を背中に聞きながら、俺は店を出た。
「あの二人の会話こそ歯がゆいな」
がらがらと扉を閉めると、むっとする熱気が体を包んだ。
「さて、また仕事だ」
厳しい日差しに、手を額にかざした。
「最初に行くのは、……あれ、どんな会社だっけ」
数歩進んで立ち止まった。
「ええと、何だったかな。食べ物を扱うところだったはずだ。さっき聞いた会話に関係あったような」
かばんに資料が入っているが、路上で開けたくない。
「そうだ、ぞっこんに近い言葉だ。別な言い方だと、メロメロ、デレデレ、くらくら……」
なかなか思い出せない。
「違うな。体に関係していた」
再び肌が熱を帯び始めている。
「骨抜き……じゃないな。漁協と取引はない。血道を上げる……でもないな。精肉店の知り合いはいない。身を焦がす……でもなかったはずだ。パン屋は絶対違うしな」
しばらく考えて、のどに手を当てた。
「ああ、そうだ、首ったけだ。きのこの会社だった」
再び歩き出しながら、俺は呆れた。
「人のことは言えないな」
にやりとして、真っ青な空を見上げた。飛行機雲が一本伸びていく。
「よし、午後も頑張るか!」
暑さは一層増していたが、足取りは少しだけ軽くなっていた。




