有能
「俺の後任か」
第一営業課長の脇野は自分の机に座って一枚の紙をにらんでいた。
「原か、瀬中だな。売り上げ一位をいつも競っている。どちらの名を書くか」
部長への昇進を内示され、次の課長を誰にするか人事課から意見を求められていた。最終決定権は社長にあるが、前任者の判断も重視される。直接の上司として彼等を見てきたし、昇進後も部下として監督することになるからだ。
「一番有能な者を推薦してほしいと言っていたが」
ふう、と深い息を吐いてその紙を伏せると、茶を飲もうとした。と、茶碗に伸ばした手がパソコンの横にあった書類の束にぶつかった。
「もう一つ、頭の痛い問題があったな」
世の中が不景気で受注が減っている。部下を叱咤して売り込みを強化しているが、今期の売上目標に三十万円足りていない。
「最後に目標を達成できずに終わりたくない。あと少しなんだ。何か手がないものか」
脇野は腕組みをして考え、二人に声をかけた。
「原、瀬中、席にいるな。ちょっと来てくれ」
「何かご用ですか」
二人は立ち上がって課長席に近付いてきた。
「意見を聞きたくてな」
脇野は書類の束を二人に見せた。
「今期の目標が達成できなさそうなんだ。どうしたらいいか、相談したい」
二人は顔を見合わせた。先に口を開いたのは原だった。
「みんなでもう一度得意先を回りましょう。もっと注文を取れないか、新しいところを紹介してもらえないか、お願いして回るんです」
「おいおい、今からか。あまり日数がないぞ」
瀬中は呆れたように言った。
「この時期はどこの会社も決算が近い。追加の注文を取るのは相当難しいぜ。新しい取引先を紹介してもらうと言ったって、そんなうまい話がそこらに転がっているもんか。骨折り損に終わると思うぞ」
「じゃあ、どうするんだよ」
二人は同期入社なので遠慮のない口調だった。
「お前には手があるのか」
「あるぜ」
瀬中は自信ありげに頷いた。
「課長、俺が担当しているあの会社ですが、先日品物を納めて、近々請求書を持っていく予定でした。その時に、三十万追加でお願いできないか、頼んでみます」
「そんなこと、できるのか」
原は信じられないという顔だ。
「三十万だぞ。そう簡単にひねり出せる額じゃない」
営業成績一位を争う彼等だからこそ、その金額の難しさがよく分かっていた。
「大丈夫だ。あの会社には貸しがあるんだ」
瀬中はにやりとした。
「三年前、あの会社の取引相手が倒産して製品の売り先がなくなったことがあった。その時、俺は引き受けてくれるところを紹介してやった。だから、俺が直談判すれば承知するさ」
「そんなにうまく行くか」
「あの取引にはちょっと裏があってな。俺はそれを知っている。弱みを握っているわけだ。だから断れないさ」
「脅すって言うのか」
原は顔色を変えた。
「そういうことはやめろ。取引先とは信頼関係を築き、互いに利のあるいい付き合いをするべきだ」
「お前はそういうやつだな。知ってるよ」
瀬中は同い年のライバルに言った。
「こまめに取引先に顔を出し、一緒に飲みに行って親しくなり、信頼されて注文を取ってくる。家庭より仕事を優先して、休みもゴルフに付き合ったりしている。それはすごいと思うぜ」
瀬中の口調は感心よりからかいに近かった。
「だがな、世の中それだけじゃ回らないんだ。きれいな話だけですまないこともあるんだよ。あの時はあの会社が後ろ暗いことをやった。今度は俺がそれを利用して無理を聞いてもらう。それだけだ」
脇野課長は少し考え、瀬中に尋ねた。
「確実に注文を取れるんだな。まずいことにはならないな」
「お任せください。会社や課長に迷惑をかけるようなことは決してしません」
「よし。では、瀬中に任せよう」
脇野は決断した。
「悪いが、すぐにできるか。期日が迫っている」
「でしたら、これから行ってきます。直接会って話さないと駄目な案件ですので」
「頼む」
「片倉と宗木を連れていき、品物を相手の前に積み上げて、交渉にも立ち会わせます。あいつらはいずれ俺の後任になります。そろそろこういう経験もさせた方がいいと思いますので」
「そうだな。その弱みは今後も使えそうだ。二人が知っていることを先方に見せておいた方がいい」
「待ってください。俺は反対です!」
原は唖然としていたが、我慢できなかったらしい。
「取引先を脅すようなやり方は、長い目で見て我が社のためになりません。互いに支え合い、ともに発展していくのがお得意様とのよい付き合い方でしょう。これからも良好な関係を続けるためにも、恨みを買うようなやり方は避けるべきです。悪い手本を見せてずるい方法を覚えさせるのは若手のためになりません。彼等もそんな仕事はやりたくないはずです」
机に両手を突いて身を乗り出した。
「やはり、みんなで得意先を回って注文を取りましょう。厳しいとは思いますが、それが正しいやり方です。それで駄目なら、残念ですが、目標達成は諦めるしかありません」
瀬中は原の肩をたたいた。
「まあまあ、ここは俺に任せろよ。どこだってやっていることさ。どうせあの会社も下請けに無理な条件を突き付けて、嫌なら取引しないとか言って値引きさせているんだ。俺たちの会社だって、いつそういうことをされて我慢を強いられるか分からない。それがビジネスってもんじゃないか」
「しかし……」
怒りが収まらない様子の原の背を押して、瀬中は歩くように促した。
「課長、では、失礼します」
瀬中は原をなだめながら席に戻っていった。
「これで目標は達成できるな」
脇野はつぶやくと、伏せてあった人事課の書類を手に取った。
「原は信念があって人柄が高潔だ。後輩の面倒をよく見て慕われている。誠実で人から信頼されるが、融通が利かず、あくどいことはできない。あいつが俺の後に座ったら、会社の評判は上がるだろうが、業績は伸び悩むかも知れない。あいつはいいやつだから、比べて俺はひどい上司だったように部下には見えてしまうだろう」
まだ言い争っている二人へ目を向けた。
「一方、瀬中は恥もためらいもなく会社のために最大の利益を追求する。俺がやりたくない役目も進んで買って出て、必要なら鬼にも卑怯にもなれる。部下にも厳しく迫り、やりたがらないことを強制してやり遂げさせるに違いない」
ペンを握ってつぶやいた。
「どちらが我が社の役に立ち、また上に立つ者にとって使いやすいかは明白だ」
脇野課長は後任を推薦する書類に、瀬中の名を書き込んだ。




