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短編集『花まかせ』  作者: 花和郁
第二集
16/32

他人の表現

「どうしてこの子の絵だけ、壁からはずすんですか!」

 担任の女性教師は抗議した。

「授業参観に合わせて学年全員の絵を廊下に展示して、保護者の方々に見てもらいます。そういう企画なんです!」

「この絵は間違っている。だから展示しない。それが()いた生徒のためだ」

 男性の生物教師は平板な口調で言い、絵を持って振り返った。

「今回、中学一年生が動物園に行って好きな動物の絵を描いてきた。リス・キリン・ゴリラ・ライオン・パンダ、様々だ。うまい下手はあるが、それぞれよく描けていると思う」

「そうでしょう。一ヶ月以上も使って仕上げ、授業中に終わらなかった子は居残りまでして完成させたんです。力作ぞろいです」

「そうだな。理科の授業でも選んだ動物のことを調べさせ、レポートを書かせた。だから、みんなその動物の特徴をよくとらえている」

 生物教師は壁に並ぶたくさんの絵を眺めた。

「しかし、この絵だけ違う。こんなゾウはいない」

 はずした絵を担任に向けて広げた。

「このゾウには二枚の白い羽がある。天使のようにな。四本の足には黄色い長靴を履き、耳にはピアスのような輪っかがいくつも付いている。全身は桃色で、空色や紫や緑の水玉模様が大小いくつもちりばめられている。しっぽには赤いリボンが結んである」

 生物教師は眉をひそめた。

「美術の課題は写生だったはずだ。理科の学習でもあると伝え、よく特徴を観察して描くように言ってある。なのに、この生徒はこんなふざけた絵を描いた。展示されないのは仕方がない」

「この子はこういう子なんです」

 担任は言った。

「いつも、他の子とちょっと違うことをします。発言の内容も変わっています。この子らしい絵だと思います」

「だが、これは写実的とは言えない。空想がたくさん入っている」

 生物教師は不愉快そうだった。

「絶対にこの絵は目立ってしまう。学年全体を見渡しても、これ一枚だけ浮いている。展示しない方が本人のためだ」

「この子にはゾウがこう見えたんです。美術の先生は許可したんですよ。それを勝手にはずすなんて」

「下書きを見た段階で描き直させるべきだった。繰り返すが、この絵は間違っている。展示にふさわしくない」

 生物教師は絵を担任に差し出した。

「どうしても展示するなら、他の絵と同じように、空想要素を排したものに描き直させるべきだ。まだ数日ある。間に合うだろう」

 女性教師は首を振った。

「それはできません。このまま展示するべきです」

 生物教師は理解できないという顔をした。

「なぜあなたはこんな絵を擁護(ようご)するんだ。この絵は明らかにおかしいじゃないか。理由を教えて欲しい」

「理由ですか……」

 担任はうつむいて少し考えると、絵を受け取り、かわりに手に持っていた十枚ほどの紙束を渡した。

「これを読んでみて下さい」

「何かの作文のようだが」

 生物教師は戸惑った表情になった。

「小説です。私が顧問をしている文芸部の生徒が書いたものです」

「どうしてそんなものを」

「あとで説明します」

 生物教師は気が進まない様子だったが、受け取って目を通した。

「どうでしたか」

 顔を上げた生物教師に、担任は尋ねた。

「素人らしい下手な小説だな。まず、内容に矛盾がある」

 生物教師は原稿用紙の束をめくった。

「始めは中学生の初恋の話だったのに、途中で友情の話に変わっている。恋の成就よりも、同じ相手を好きになった親友との喧嘩と仲直りが中心に語られて、結局恋が実ったのかどうか分からずに終わっている」

「私もそう思いました。言葉の表現はどうですか」

「それもおかしいところが多かった。例えばここだ」

 生物教師は一枚を取り出して指さした。

「『クラスで一番美人の親友が同じ人を好きだと知って』に続けて、作者は『急に涙があふれてきた』と書いた。ここは『衝撃を受け、ひどく焦った』とでもするべきだ」

「そうですね」

「いきなり泣くだろうか。まず、びっくりするはずだ。それから、親友と争いたくない、美人だから勝てないかも知れないと思って、焦るはずだろう」

「その方が自然な流れだと私も思います」

「ここもよくない。『親友のつややかな黒髪は春の風を受けて』の次だ」

 原稿用紙には『ばたばたとはね回った』と書かれている。

「少女の美しさを強調したい場面だ。『ふんわりとたなびいた』とでも直した方がいい」

 女性教師は頷いた。

「国語科の私も同意見です。ですが、私はそう書きませんでした」

「どうしてだ。どちらも赤線が引いてあるじゃないか。直せという意味だろう」

「いいえ、違います」

 女性教師は穏やかな口調で否定した。

「疑問を持ったよという印です。直すかどうかは本人次第です」

「なぜ直せと指示しないんだ。こう直せと具体的な表現を示してやった方がいい」

「それはしてはいけません」

「なぜだ」

「今、先生が口にされたのは、先生ご自身の表現です。あの子の表現ではありません」

 首を傾げる相手に、担任は問いかけた。

「小説とは何だと思いますか」

 返答を待たずに続けた。

「言葉によって何かを表現したものです」

 担任は「表現」を強調した。

「何を表現するか、どのように表現するかは書く人の自由です。その権利を他人が(おか)してはいけません。干渉してもいけません」

 担任は断言した。

「明らかな誤字や言葉の誤用は指摘します。内容の矛盾やひっかかった表現も伝えます。けれど、こう変えなさい、とは言いません。こんな内容や表現は認めないとも言いません。ましてや、勝手に変えてはいけません。他人の意見や表現を、自分の考えに合わせて変えさせようとしてはいけないのです」

 担任は絵に視線を落とした。

「この絵は独特です。他の生徒の絵と大きく違っています。でも、これがこの子の表現なんです。この子にはゾウがこう見えたのです。そう見る自由がこの子にはあります。自分の目に見えたものを自分らしく表現するのもこの子の自由です」

 絵の中のゾウは、白い羽を広げて(おり)の外の世界へ飛び立とうとしている。

「他人の表現は尊重するべきです。どんなに下手でも、おかしく感じられてもです。表現とは、その人の個性と趣味と生きている世界が現れるものです。たとえ矛盾していても、よくするためだとしても、他人の表現を否定して、無理に変えさせてはいけません。表現はできる限り自由であるべきです」

 生物教師は目を見開いた。

「美術科はこの絵を認めたのです。ならば、違反ではありません。誰かを傷付けるような絵でもありません。そういうものを、私たちの個人的な基準でよくないと決め付けて、排除してはいけません」

 長い沈黙の後、生物教師は原稿用紙を担任に返した。

「あなたの言う通りだ。生徒の自由な発想や個性的な表現を否定してはいけない。この子だけ仲間外れにするのもよくない。一人一人の違いを受け止め、よいところを伸ばすのが教育だろう」

「ありがとうございます」

 担任が頭を下げると、生物教師は微笑み、背を向けて去っていった。

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