才能 ◎
(絵は遥彼方さん作。「イラストから物語企画」)
「また、落選か。名前がない」
文学賞の三次選考通過者のリストを見て、俺は大きな溜め息を吐いた。
「今度の小説は行けると思ったんだが」
これまで二十回ほど様々な賞に応募して、今回初めて二次選考を突破した。自信作だったので受賞して出版もあり得るかと期待していたが、悔しい結果に終わった。
「俺には才能がないのかな」
パソコンの電源を切って椅子から立ち上がり、ベッドに横たわって天井を見つめた。
「作家になるのは諦めるしかないのか」
子供の頃から本が好きで、小説家に憧れてきた。中学時代から創作を始め、絶対に大傑作を書いてやると就職もせずに小説に没頭し、来月には三十になる。
「俺の小説、結構面白いと思うんだけどな。審査する連中は見る目がないぜ。そんなやつらに選考させる出版社にも大いに問題がある」
口では文句を言ってみたが、分かっていた。俺の作品には何かが足りないのだ。プロの作家たちの作品とは決定的にどこかが違う。以前から薄々感じていたが、認めたくなかった。だが、最近二次選考で落ちた作品にもらった審査者の講評に、はっきり書かれていた。
「『とてもよくできていますが、どこか既視感があり、オリジナリティーに欠けます』、か。そうだよ。その通りだよ」
もう何度も読み返して暗記していたが、声に出してみると胸に突き刺さった。
「俺の作品には希少な宝石のような輝きがない。読者を感嘆させずにおかないひらめきや、他のどの作家とも違う唯一無二の個性が欠けているんだ」
涙が浮かんで、両腕で目を隠した。
「俺には才能がない。作家にはなれないんだ。小説なんて書いても無駄なんだ!」
書き始めた時から、心の中にどうしても表現したい何かがあると感じていた。まだぼんやりしていてうまくつかめないが、それを小説にすることさえできれば傑作になるはずだった。だが、自分にしか書けないものなんて本当は存在しないのかも知れない。才能があると信じたくて創り出した幻にすぎないように思えてきた。
「せめて一つは傑作を書いて後世に名を残したかったが、不可能なのだろうか」
もれそうになる嗚咽をこらえていると、背筋がぞっとする不気味な声がした。
「才能を差し上げましょうか」
驚いて上半身を起こすと、ベッドの脇に悪魔がいた。
「私はあなたの想像通りの者ですよ」
悪魔は紳士のようにお辞儀をした。
「小説家の才能が欲しいのでしょう。私と契約すれば手に入ります」
悪魔は清潔な背広に身を包んだ中肉中背の男の姿をしていた。容姿は平凡で目立った特徴はなかったが、それでも人間ではないとはっきりと分かった。本能がこいつは危険だと叫んで肌が粟立っている。彼はただそこにいるだけなのに竜巻のようなすさまじい威圧感で、気を抜くとあの世に吹き飛ばされてしまいそうだった。
「才能をくれると言うが、具体的にはどういうことだ」
全身が凍りそうなほどの恐怖に襲われながらも、なぜか頭は回り、会話することができた。動揺と冷静さが共存するのは不思議な感覚だった。
「俺を小説家にしてくれるのか」
こいつは本物の悪魔だ。だからこそ、その言葉は本当だと信じられた。
「先程つぶやいていましたね。あなたの小説には欠けているものがあると。それをあなたは手に入れることができます。あなたの小説は下手の横好きから、本当の傑作に変わります」
悪魔は丁寧な口調で答えて笑みを浮かべた。あなたの気持ちは全てお見通しですよと言わんばかりに。だから、俺も今更隠そうとはしなかった。
「俺は才能が欲しい。のどから手が出るほどにな。だが、代償は何だ」
悪魔と言えば人をだまして魂を奪っていくものと相場が決まっている。
「本物の作家が持っているひらめきと引き換えに、何を奪うつもりだ。魂か。俺を地獄に落とすつもりか」
「いいえ、何も頂きません」
悪魔は首を振った。
「私たちは人間の負の感情を糧にしています。人が苦しむ時に発する波動が好物なのです。今、あなたはとても大きな負の波動を起こしていました。私はそれをおいしく食べました。また、プロの作家になれば様々な苦労があります。あなたが悩んだり迷ったり苦しんだりする時にも波動が出るでしょう。それを頂くつもりです」
「つまり、魂を取られたり、地獄に連れて行かれたりはしないんだな」
「はい。それはお約束します。私は悪魔ですが、うそはつきません。信用は商売に不可欠ですからね」
悪魔は商人のような接客用の笑みを顔に張り付けていた。
「俺が失うものはないのか。話がうますぎる。とても怪しいな」
「本当のことしか話しておりません。信じられないとおっしゃるのなら、才能は諦めますか」
俺は迷った。頭をかきむしり、歯ぎしりし、唸った。だが、誘惑に抗えなかった。
「分かった。契約しよう」
恐ろしさと期待半々で答えると、悪魔は深々とお辞儀をしてにんまりと笑った。
「では、契約成立ですね。たった今からあなたには天才作家の才能が付与されます。ご活躍をお祈りしていますよ」
悪魔の姿は次第にかすれていき、やがて見えなくなった。
俺はすぐに机に向かってパソコンを起動した。
「あいつの言葉がうそでないか、確かめてやる」
そうして執筆に取りかかった。
結論を言えば、悪魔の言葉は本当だった。その日から、俺には大変な才能が生まれたのだ。
「すごい。斬新なアイデアがどんどん浮かんでくる」
何か書こうと思うと、びっくりするような着想をたちどころに思い付く。今まで読んだことのないストーリーがあっという間にできあがる。確実に知らなかったはずの知識や経験が頭の中に泉のように湧き出てくる。
「これなら文学賞は確実にとれる!」
俺は夢中になって執筆した。書く内容はいくらでもあふれてくるので手が止まることがない。たった三日で次の賞に応募する長編小説を書き上げた。
読み返してみて感動した。面白い。しかも深い。文学的なテーマがありながら、楽しく読めて、どきどきわくわくする。まさに名作だった。
「こんな小説が俺に書けるなんて。もうこれだけで死んでもいい気分だ」
心底そう思い、ぬぐいきれないほどの涙を流した。だが、アイデアはまだたくさんある。その作品の推敲もそこそこに、次の小説に取りかかった。今度はエンターテイメント系の賞を目標にして、そこに合った作風にする。ぴったりのアイデアがすぐに浮かび、一分でストーリーを組み立てて、再び執筆に集中した。
そうして、一年後には、俺は七つの文学賞で大賞に輝いていた。その事実がマスコミに注目され、出版されるとどれもベストセラーになった。急に忙しくなったが、書く内容に困ることはない。次々に小説を書き上げ、その全てが素晴らしい傑作だった。
やがて国内に俺のペンネームを知らない人はいないほどの売れっ子作家になった。主要な文学賞を総なめし、ノーベル賞も遠くないと噂されている。
奇跡の作家。俺はそう呼ばれた。俺自身もその称号を当然のように受け止めていた。なにしろ、他の作家が一生に一つ書けるかどうかという傑作をもう二十作以上も書き上げている。それでもアイデアは枯れることがない。
恋愛小説を書こうとすれば、魅力的な登場人物と奇抜なストーリーがすぐさま頭に浮かぶ。戦記物なら驚愕確実の奇策を、ミステリーなら奇想天外なトリックを、風刺小説なら読者をうならせるような気のきいた名言や警句をいくらでも思い付く。歴史小説に取り組めば、主人公や周囲の人物の詳細な情報がまるで自分がその人だったかのように頭に湧いてくる。詩や短歌や俳句に挑戦すれば、一度聞いたら忘れられなくなる素晴らしい文句がとっさに口をついて出る。文体も自由自在で作品ごとに大きく変えるので、魔術師のようだと評された。
「あの悪魔め、失敗したな。俺は幸せの絶頂だ。負の感情なんて少しも湧かないじゃないか」
俺は悪魔を嘲笑し、やがて契約したことをあまり思い出さなくなっていった。
そうして富と名声を得て五年がたった頃、俺は友人の紹介で一人の女性と見合いをした。もう三十五だ。執筆に集中するためにも身を固めたかったのだ。
「大ファンなんです。お会いできただけで一生の思い出になります」
十歳下の彼女はなかなかの美人で、読書と同じくらい料理も好きだという。興奮気味に俺の作品の素晴らしさを称賛する言葉に快く酔いながら、この相手に引かれていく自分を感じていると、彼女が言った。
「とにかく、作品の幅がすごいです。文体も、テーマも、ジャンルも、文学から軽い娯楽まで、とても一人の人が書いているとは思えません。まさに天才ですね」
「正真正銘、書いているのは俺一人なんだけどね……」
笑いながら答えた俺は、ふと疑問に思った。
本当に俺一人が書いているのか。これは俺の才能なのか。
考えてみれば、これだけの量のアイデアがほとんど頭を悩ませることなく浮かぶなんておかしい。文体が一つ一つ違うのも、俺の意図的なものではなく、勝手にそうなってしまうのだ。
「才能をくれるというのは、もしかして……」
俺は激しい恐怖に襲われ、急に立ち上がった。驚く相手に飲み過ぎて気分が悪くなったと言い訳し、心配する彼女を振り切るようにタクシーに乗って、買ったばかりの豪華な自宅に戻った。
「まさか、そんな馬鹿なことは……」
俺は書斎に入ると最近出版した小説を数冊棚から取り出して読み始めた。夜を徹して読み続け、翌朝すっかり明るくなった頃、ようやく本から顔を上げた。
「そうだったのか」
ぼんやりとした違和感は以前からあったが、読み返してみてはっきりと分かった。それらの小説はどれも俺の作品らしくなかった。俺らしさが全くない作品もあった。
傑作が書けたのは俺の才能が伸びたから、発掘されたからではない。俺は才能を「もらった」のだ。顔も知らないどこかの誰かが書くはずだった小説が、俺の頭に浮かんでいる。俺はそれを代筆しているにすぎないのだ。
今まで読んだことがない作品なのは間違いないので、無名のまま死んだか、書く前に寿命が来たか、思い付いただけで書かなかったかだろう。いずれにしても、実質的な作者は他の誰かなのだ。
「俺はなんて愚かだったんだ。こんなもの俺の作品とは言えないじゃないか。ゴーストライターがいるみたいなもんだ」
俺は部屋の中を見回した。
「おい、悪魔! いるんだろ! 出てこいよ!」
呼びかけたが返事はなかった。
その後数日かけて、俺は契約以後の作品を全て読んだ。どれも傑作だった。ただし、明らかに他人が書いたものだ。契約以前の俺の作品も読み返してみて、その違いと下手さに愕然とした。
「つたない。はっきり言って凡作だ。だが、これらには俺の願いが籠められている。表現したかったもの、手を伸ばして必死でつかもうとしていたものの欠片が含まれている。悪魔に書かされたものはどれも名作だが、俺が書きたかったものではない」
徹底的に打ちのめされた。俺は一つも傑作を書いていないのだ。世の人々の称讃は俺ではなく無名の作者たちに向けられたものだ。俺には才能がないのだと、言い訳の余地なく思い知らされた。俺は本物の作家ではなかったのだ。
悪魔を喜ばせるだけだと分かっていても、絶望が胸をむしばみ、布団の上を転げ回って唸り、叫び、物に当たった。受賞記念の盾をなぎ倒し、自殺も考えた。だが、賞をとった本をごみ箱に投げ捨てようとして、俺は手を下ろし、泣き崩れた。俺は小説が好きなのだ。俺自身が書いたものではなくても、傑作と認める小説を絶版になどできない。
衝撃のあまり寝込んで悪夢にうなされるうちに原稿の締め切りが近付いてきて、俺は決断を迫られた。書きかけの作品を放り出してもう小説家をやめるか、書き続けるか。
本心を言えばやめたかった。かつての俺には夢があった。書きたいものがあった。だが、それはもう決して形にできないと分かった。それでも小説を書くのか。誰かの代筆を続けるのか。
迷った末、俺は書き続けることを選んだ。悔しいが、悪魔が与えてくれた能力は確実に傑作を生み出す。いや、掘り起こすと言うべきか。面白いと分かっている小説を世に出さずに埋もれさせることは、俺にはできなかった。それに、自殺を思いとどまった以上、生活のためにお金を稼がなければならない。
それ以後も、俺は傑作を書き続けた。それが俺を苦しめた。明らかに俺の頭に浮かぶはずのないアイデアをどんどん思い付き、素晴らしい文章が勝手にできていく。まったく俺の趣味でないものがとても上手に書けてしまう。
大作家と呼ばれ、本が売れれば売れるほど苦悩は大きくなった。だが、出版社はもっと書けと煽り、今度はこういうものをと次々に企画を持ってくる。俺は見事にそれに応えて新たな傑作を生み出していった。
俺は小説が嫌いになった。自分が代筆した本は読む気にならない。他の作家の小説も楽しめなくなった。彼等が一生懸命理想を追求しているのが伝わってきてつらいのだ。俺は次第に小説を読まなくなった。
人々から尊敬され、才能をうらやまれながら、俺は孤独だった。結婚も諦め、酒の量が増えた。本や映画など物語が娯楽でなくなったので、かわりに金にあかせて贅沢な食事をとるようになった。
やがて俺は体を壊し、倒れて入院した。医者の表情で、もう死ぬのだと分かった。
正直ほっとした。やっと楽になれる。他人の考えをかわりに記して称讃されることに疲れ果てていた。
個室のベッドの中で一人目をつむっていると、小説のアイデアが浮かんだ。成功したくて悪魔に魂を売った男と、貧しいが自分の信じるものを貫いて生きた男の物語だった。きっと傑作になるだろうという不思議な確信があった。
珍しく構成に苦労し、数時間かけてようやくプロットがまとまったところへ、憶えのある気配がした。
「お前か」
悪魔は紳士のようにお辞儀をした。
「あなたは死にます。契約は終了です。約束通り、地獄には行きません」
「お前のせいで俺はどれだけ苦しんだことか! お前こそ地獄に落ちろ!」
俺は更に怒鳴ろうとして咳き込んだ。悪魔は全く表情を変えなかった。
「私は契約を忠実に履行しただけです。あなたにはたっぷりと楽しませていただきました。あなたも名声と大金を手に入れ、現世の欲をたくさん満たしたはずです」
「そんなものより、俺自身の傑作を書きたかったんだ!」
叫んで、俺はふと気になった。
「今、頭に傑作のアイデアが浮かんでいる。これは気に入っているから、最後にそれを書きたい。それまで生きていられるか」
悪魔がにやりとしたので、俺ははっとした。
「まさか、このアイデアは俺自身のものなのか」
「そうです。それは私の与えた才能が拾ってきたものではありません。ですが、あなたにはそれを書く時間は残されていません」
俺は絶望した。両目から涙がとめどなくあふれた。ひとしきりすすり泣いた後、目をぬぐいもせずに尋ねた。
「悪魔よ。俺には本当は才能があったのか。それともなかったのか」
悪魔は愉快そうに答えた。
「あなたには本物の才能がありました。自分を信じて書き続ければ、生涯にただ一作だけ、真によいものを書ける才能が。ただし、生前に世に認められることはなかったでしょう」
「死後は評価されたのか」
「かも知れませんね。では、さようなら」
悪魔はけたたましく哄笑しながら消えていった。
「悪魔め! お前を呪うぞ!」
俺はわめいた。
「俺はまだ書きたいものを書いていない! 俺の本当の小説は、まだ誰も読んでいないんだ! 俺は何のために小説家になったんだ!」
絶叫した瞬間、俺の意識は遠のいていった。




