67話 横山城決戦開幕
【近江国/横山城 朝倉、浅井軍】
横山城の櫓に登っている朝倉宗滴と雨森清貞が、眼下に展開する斎藤軍を睥睨するかの様に睨んでいる。
すると、まるで呼吸を合わせたかの様なタイミングで、米粒のような斎藤軍の武将が馬に乗ったまま長物を振っているのを確認できた。
周囲にはやたらと派手な桃色の旗指物が見える。
まるで、自分の存在を横山城の人間に見せつけるかの様な行動であった。
「あの武将は……何でしょうか? 宗滴殿の策ですか? 内応等の?」
意図が見えない眼前の光景に、清貞が宗滴に一応の確認を取る。
「いや、少なくともワシは存じません。まぁ挑発の類と見るべきですかな。打って出てこいと……む!」
そんな会話をしていると、その長物を振った不審な武将が一軍を率いて北へ向かった。
「これは宗滴殿!? あの一軍は北の、恐らくは小谷城に向かう模様! これで逆に挟撃する条件が整いましたな!」
興奮気味に話す清貞とは裏腹に、宗滴は自分の予測が的中したのに渋い顔である。
「うむ……。しかし此度の戦は、何もかもが思い通りに行かない厄介な戦。この後も、いつも以上に臨機応変を求められる戦になるやもしれぬ。十分警戒して事に当たりましょうぞ」
「承知しました」
「では、あたかも慌てふためいた様に出撃するとしますか」
そう言った宗滴が清貞と共に櫓を降りて、自分の指揮する部隊に戻っていくのであった。
「聞け! これより出撃の準備にかかる。しかし急ぐ必要は無い。ゆるゆると確実に動く事を心がけよ!」
【近江国/姉川砦 斎藤義龍軍】
「帰蝶が小谷城に向かったか。さて横山城の奴らはどうでるか……」
義龍はそう言ってみたが、どうにもこうにも不安感が払拭できずにいた。
(あの朝倉宗滴を果たして出し抜く事ができるのか?)
今更ながら今回の侵攻作戦に、重大な見落としがあるのではないかと不安になる。
(……義弟は今川対策に、それこそ何年も時間を掛けて丁寧に対処しておった。対してワシはこの近江侵攻に何か対策を立てたか? 自分や斎藤家、織田家のあるべき姿は把握していても、敵を知る事を怠ったのではないか?)
中国の兵法書である『孫子』に『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』という言葉がある。
相手も己も熟知すれば何度戦っても負けることはない、との意味である。
義龍は信長の野望を理解し、斎藤家のあるべき姿を明確に思い浮かべ、最適解にたどり着いたつもりであった。
しかし、人生をやり直した経験豊富な信長に比べて敵に対する調査が甘かったのは否めないが、そもそも、3度目の人生である信長と比較するのが間違いで、信長も前々世では他ならぬ義龍との戦いで手痛い敗北を喫している。
信長と言えど、若かりし頃から万能だった訳では無いのである。
ただ、それを知らない他の者達からすれば神懸かって見えるだけである。
斎藤義龍24歳。
今まさに、そんな信長と比較して自分の未熟さを痛切に自覚すると同時に、美濃を出立する前に、父の道三が発した言葉を思い出す。
信長の発想力や忍耐力、戦略眼を褒め称え『化け物』と評した信長の事を。
『そんな婿殿とその能力を知った上で争う? そんな恐ろしい事はワシなら絶対に選択しない。今川治部も恐らくその思いで臣従しておるのじゃろう。今では帰蝶の提案に乗って婚姻同盟をして大正解じゃったと思うわ』
義龍は、天下に轟く美濃のマムシに、そこまで言わせる信長の姿を真に理解した。
「帰蝶の婿に信長を後押しした事、我ながら良き判断だった……。そういう事か。だが、それにしても朝倉宗滴! やはり噂にたがわぬ恐ろしき相手よ!」
若干の記憶の改竄をしつつ、侵略された側の、しかも浅井の援軍に過ぎない朝倉宗滴の手腕に舌を巻く。
「奴は準備万端で我等を迎え打っておる訳ではない。なのにも関わらずここまで対応するその手腕。……学ぶ相手として申し分無い! 伝令! 各部隊の将に伝えよ! 敵は我らの釣り出し作戦を見抜いている可能性がある! そのつもりで臨機応変に備える様に伝えよ!」
(朝倉宗滴! ここからはお主の一挙手一投足見逃さぬぞ!)
信長に劣ると自覚しても『仕方ない』と親世代と違って、老け込む年齢でもない義龍は、朝倉宗滴を餌にして自身の成長に繋げるべく決意を新たにするのであった。
【近江国/小谷城 浅井久政】
斎藤軍に察知される事なく小谷城に入った浅井軍は、間もなくやってくる可能性のある斎藤軍に対する備えを行っていたが、そこに伝令が飛び込んできた。
「報告します! 斎藤軍が二手に分かれて、一方がこの小谷城方面に向かっているとの事です!」
「宗滴殿の読みが当たったか。よし、善右衛門(海北綱親)、孫三郎(赤尾清綱)よ。以前申した通り軍の全権を預ける。不甲斐ないワシの代わりに浅井軍を頼む」
浅井久政は最早、自分が軍にいる事が一切プラスに働く事が無いのを自覚し、全軍を家臣に預ける思い切った英断を下した。
「最早ワシに遠慮する事は何も無い。お主等の力と知恵を存分に発揮してまいれ! その全ての結果に対する責任だけをワシが背負う!」
「はっ! お任せを! 必ずや近江から斎藤軍を叩き出してご覧にいれましょう!」
非常に遅ればせながらであるが、浅井久政はようやく地域を支配する武士としての資格を得たのであった。
「頼むぞ!」
血気盛んに出撃した小谷城浅井軍は急いで南下をする。
しかし、もういい加減に斎藤軍に接触しても良い場所に到達しても、一向に軍勢が見えない事に不安を覚える。
「どうした事じゃ? まさか小谷城では無い別の場所に向かっておるのか!?」
海北綱親がそう疑問を発し、並んでいた赤尾清綱が答える。
「可能性はある。今回の戦は色んな所で敵と策が噛み合っておらぬ。臨機応変に動かねば取り返しの付かぬ事になり兼ねんな……」
「よし……物見を送ろう。行方不明の斎藤軍を見つけねばな」
浅井久政であれば、不安を感じた時点で直ぐに小谷城に閉じこもってしまう所であったかもしれない。
しかし、軍を指揮する海北綱親、赤尾清綱は経験を積んだ武将である。
冷静に判断をして迂闊に動くような真似はしなかった。
だが、放った伝令が、斎藤軍が引き返し横山城に戻ったと驚愕の報告を持って来る。
「横山城に引き返した!? 無人の小谷城を攻める算段ではなかったのか!?」
「そうか! 善右衛門マズイぞ! 恐らく我らを横山城から引きはがして、城の兵力を減らす作戦じゃったか! 宗滴殿と弥兵衛が危険じゃ!」
本当は彼らの解釈は半分間違っている。
斎藤軍は単に野戦に持ち込む為に、横山城を素通りするフリをしただけである事を。
色々噛み合っていない結果、宗滴は策を読みすぎてしまった形になったのだが、そこは名将たる朝倉宗滴の策。
多少のアクシデントは、どうとでも修正可能である事に二人は気づく。
「じゃが、これは千載一遇の好機かもしれぬ! 斎藤軍は横山城から兵を釣り出したかったのじゃ。横山城に全軍籠っていると勘違いして! 今我らが横山城に駆け付ければ宗滴殿と挟撃を仕掛ける事ができる!」
「よし! 全軍急いで横山城に向かう! 一刻を争うぞ!」
浅井軍は早朝に到着した小谷城からとんぼ返りをする強行軍となり、帰蝶隊の背後から襲い掛かる事となる。
【近江国/織田軍 斎藤帰蝶隊】
朝倉宗滴が長物を振る不審な武者に気が付いた頃の話である。
横山城をしっかりと見上げる位置に辿り着いた帰蝶率いる3000は、計画通り小谷城に向かう準備をしていた。
「さて、兄上の作戦が上手く行くなら、この行動は浅井軍にとって最も悪い展開のハズ。小谷城を奪われたくなければ討って出てくるしかない。……ふわぁぁ……」
はしたなく大あくびをした帰蝶は、薙刀を大きく振った。
横山城からの監視にしっかりと見せつける為に。
「さぁ、ここからはゆっくりと時間をかけて小谷城に向かうわよ。横山城から敵が討って出てきたら即座に反転! 第一陣は佐々隊、第二陣は丹羽隊、第三陣に私が付きます。では全軍出発!」
帰蝶率いる織田援軍は、横山城からの釣りだし作戦を決行するために進軍を開始した。
「ところで内蔵助ちゃん、五郎左衛門ちゃん」
「……はい」
「ウグッ……はい」
相変わらず帰蝶に勝てていない佐々成政が観念した様に返事をし、『ちゃん』呼ばわりに慣れていない丹羽長秀が、心を抉られたかの様に返事をした。
親衛隊在籍期間で言えば丹羽長秀は帰蝶の先輩にあたるのだが、比較的早期に美濃へ派遣された為、帰蝶と戦う機会が無かった。
それ故に佐々成政の惨めな連戦連敗に信じられず、帰蝶に戦いを挑んで速攻で敗れた。
その現場を見ていて、かつ、帰蝶の実力を良く知る斎藤利三などは、普段いがみ合う間柄の長秀を、本気で心配して止めたが無駄であった上に、利三までに帰蝶の暴威が飛び火して仲良く敗れていた。
そんな訳で、長秀と利三は目出度く成政の仲間入りを果たし『ちゃん』呼ばわりとなっていたのであった。
「今回の戦だけど……なんかこう、思い通りにいかない、いえ、思い通りに行く戦なんて無いのでしょうけど、それにしてもイヤな感覚が払拭できないわ」
「そうですね。上手くはぐらされている感が否めません」
「やはり朝倉宗滴恐るべし、と言う事なのでしょうな」
二人は帰蝶の考えに同意した。
まさに『暖簾に腕押し』とでも言うべき浅井、朝倉連合軍の戦略に後手後手に回っている感が否めず三人は歯噛みした。
とは言え、それは浅井、朝倉連合軍の内情を知らない故の考え。
浅井、朝倉連合軍も本当は困り果てた故の戦略であるのだが、伝説めいた朝倉宗滴の実績が良い具合に帰蝶隊から真実を覆い隠していた。
「私達は小谷城に向かっているけど、策が空振りになったり予期せぬ事が起きるかもしれない……いえ、もう絶対に何か起きると仮定しておきましょうか。とにかく臨機応変に動く事を想定しておいてね」
「はっ」
帰蝶の懸念は二人も感じており、改めて肝に銘じるのであった。
《帰蝶さん大丈夫ですか? ここまで完全に以前の歴史に無い事が進行中ですので、一切アドバンテージは活かせませんし、私も何を警告すべきか全く分かりません……》
《そうね。でもこれが人生の本来有るべき姿よね。今までは展開の予想の付く事を制御してきたけど、本当は何をやるにも初遭遇。2回目って事がそもそも異常。今までが反則みたいな出来事の連続。この程度の苦境を跳ね返せない様じゃ先は見えてるわ》
《おぉ! 頼もしい!》
帰蝶の予想外に逞しい覚悟に、ファラージャが驚く。
《い、いや、自信があるわけじゃ無いんだけどね。私も戦経験が豊富って訳じゃ無いから、この噛み合わない展開がどう転ぶか予測が付かないわ……。まぁ、最善を尽くすわ》
そんな事を話しながら小谷城に向けて進軍し姉川手前で待機していると、斎藤軍からの伝令が釣り出しに成功した事を報告してきた。
「よし! 策は成ったわ! 全軍、ここからは速度重視で戻るわよ!」
帰蝶の号令の元、全ての軍が臨機応変に動いた結果、横山城で斎藤軍とあたる朝倉軍に帰蝶隊が強襲を掛け優勢に戦いを進めた。
だが、小谷城から打って出て来て戦場に到着した浅井軍に、強襲を掛けられたのである。
「帰蝶様! 背後より浅井軍が迫っております!」
「もう! 嫌な予感はしっかり当たるモノなのね!」
完全に背後を取られ無防備な個所を襲撃された―――かの様に見せて、背後の備えもしていた帰蝶は前線は佐々成政と丹羽長秀に任せ背後から襲い来る浅井軍に対応していた。
「見たところ朝倉宗滴の旗印は見えないわね。と言う事は横山城で兄上が対峙しているのね……。ちょっと残念」
前世も今回も、決して色褪せる事の無い伝説を持つ朝倉宗滴と戦えない事を残念がりつつ、帰蝶は声を挙げて指揮を始めた。
「丹羽隊、佐々隊を左右に広げて鶴翼陣を敷く! 我等が敗れたら兄上の軍が壊滅する故に絶対に突破を許すな! 弱腰の浅井久政など速攻で追い払い兄上に加勢するわよ!」
素早く伝令を飛ばして鶴翼陣を敷く帰蝶隊は、今まで数々の激戦で威力を発揮してきた弓隊を準備する。
「弓隊構え! ……放て!!」
親衛隊自慢の弓隊が、豪雨の様な矢の雨を浅井軍に容赦無く浴びせかける。
横山城での戦いは、帰蝶の弓隊が戦端を開いて始まったのであった。




