51話 桶狭間攻防戦 織田の先陣部隊
桶狭間の信長と義元の攻防は、一進一退の様相を呈していた。
柴田勝家が今川軍の深くまで進軍し血路を切り開けば、今川軍の鶴翼陣左右の翼が閉じて勝家を押しつぶそうとするが、織田軍の北畠具教や森可成がそうはさせじと押し留める。
それならばと、今川軍の豊富な両翼が更に外側から囲みこもうとするのを、塙直政と織田信秀が阻止する。
お互いが、どうにかして相手を一歩上回ろうと必死に戦っていた。
【織田軍/柴田勝家隊】
「槍隊! 構えぃ! 腕が千切れようとも振り続けろ!」
勝家の号令で隊の槍兵が一斉に槍を振り下ろし、今川軍の木盾や槍兵を強かに打ち据えるが、しかし当然、今川軍の先鋒三浦義就隊も負けじと槍を振って応戦する。
両陣営とも一糸乱れぬ統率で穂先を合わせて、お互いを何とか突き崩そうと必死である。
槍合わせは言わば根比べ。
崩れた陣営は、まるで崩れる土砂の様に潰走する事になるが、それは両者陣営とも良く解っているので、懸命に崩れそうな箇所をフォローしながら立て直し相手の隙を伺う。
(親衛隊は流石じゃ。これほど息の揃った槍合わせは見たことが無い! ……なのにだ! 今川の頑強さは何なのじゃ!? こいつら本当に農兵か!?)
勝家は、絶対の強さを誇る親衛隊と互角を誇る今川の農兵を、信じられない思いで見ていた。
今まで親衛隊の利点を追求し、快進撃を続けた織田軍の共通認識は、『農兵は使わない方がマシ』と答えを導き出していた。
農兵を使っていた頃には気にも留めなかったが、親衛隊を指揮するようになってからは、戦が凄く楽になったと感じていたのにである。
『専門兵士が強いのは、年中戦えて訓練も出来るから強くて当たり前』
これは果たして事実なのだろうか?
半分正解で半分間違いとも言える。
尾張兵は他国に比べて『裕福』で『食糧難』では無いので弱い、と言うのは以前にも述べている。
奪わなくては飢える他国と違って、豊かな尾張では戦で執念を燃やして頑張る必要があまり無い。
その足りない執念を、練度と経験で補うのが『専門兵士の計』すなわち『傭兵』である。
だが『傭兵』にも弱点がある。
それは、『故郷で腹を空かして待っている家族や仲間が居ない』と言う事だ。
全部が全部ではないが、仮に負けて死にそうになれば、その身一つで逃亡できるフットワークの軽い『傭兵』には、『農兵』に比べて著しく粘りが無い。
土地に根付いた『農兵』には帰りを待つ者が殆どの上、自分が原因で隊が壊滅しようものなら、故郷の家族にまで類が及ぶので、死ねないし、ミス出来ないし、負けられない理由がある。
極端な事を言えば『傭兵』は死ねないが、負けてもいいと考える生き物である。
それを防ぐために信長は衣食住と報酬を保証しているが、それでも基本的には勝ち戦に強いのが『傭兵』で、劣勢になれば途端に『農兵』以下になるのも『傭兵』の特徴と言え、さらに輪を掛けて弱いのが『尾張農兵』と言えた。
その弱い尾張の対極に位置するのが、尾張に比べ格段に貧しい甲斐の武田兵で、それ故に戦国最強になり得たのである。
信長はそれを知り尽くしているからこそ、敵が動きにくい農繁期に動くのであって、それ故に勝つのは当然であり、農閑期には必要最低限しか動かないのである。
これは農閑期にまともに戦えば勝てない、との裏返しとも言える。
これが専門兵士である『傭兵』と半農兵士である『農兵』の差であり長所と短所である。
従って、今川軍と互角に争う織田軍は、過去の織田軍からすれば本当は比較にならない程に強いのであるが、それはやっと全国平均に追いついただけとも言える。
そんな訳で、勝家は若干の思い違いをしつつ、今川軍の攻撃を凌いで何とか一歩でも踏み出せる機を伺うのであった。
一方、勝家隊に配属された佐々成政が、懸命に槍を振るって暴れている。
今川の槍の使い手と思しき者と一進一退の、いや、若干成政が押し始めた。
成政は攻め所と判断し、大上段に構えて槍を振り下ろし、敵も危機を察知し槍の柄で受け止める為に構え衝撃に備える。
「ッ!? 勝機! ぬおおりゃあ!」
成政は相手の防御箇所に槍を叩きつけると共に、地面を蹴り上げて土を飛ばし目潰しを仕掛けた。
「ぬっ!? ぐくっ!! 卑劣……な……ッ……!」
それ以上の言葉を発する事ができずに、今川兵は崩れ落ちた。
成政の槍が、相手の喉を貫いたからである。
「フッ。『卑劣』と言う言葉はな。裏を返せば『自分は馬鹿なので、その攻撃に対応できません』と、自分で自分を未熟だと宣言するのと同じなのだよ!」
槍に付着した血を振り払いながら、今川兵に勝ち誇る様に言った。
帰蝶の特訓により、まずまず柔軟な発想が出きるようになってきた成政は、相手しか見えていなかった以前より、周囲の状況も把握出来るようになっていた。
それだけ帰蝶との対決100連敗だけは避けたいと必死なのであるが、そんな成政を見て、親衛隊の同僚である池田恒興が槍を振るいながら話しかける。
「内蔵助! どこかで聞いた台詞よなぁっ!?」
「ッ!? やかましいッ!」
実は先程の台詞は、成政が帰蝶に言われた事をそっくりそのまま言っただけだった。
いつか『卑劣』と言われた時に言い返してやろうと心に決めていた、正に決め台詞であったのだ。
「早く濃姫様から一本取れよ!」
「ふぐぅ!」
真っ赤な顔になりつつ、成政は次の獲物を見定めて槍を振るうのであった。
【織田軍/北畠具教隊】
(ワシは一体何をやっておるのじゃ?)
北畠家は信長によって瞬く間に伊勢での勢力を失い、苦渋の決断とも言える織田に臣従する道を選んだ。
その後の信長の命令は苛烈で、かつての半分以下になった所領で戦力を整え、土地を開発し、いつか目に物を見せてやろうと暗い感情の元、表面上は従いつつ失墜した北畠を立て直そうと懸命に働いた。
ところが、親衛隊を何とか結成し、街道を整備し、織田の政策を受け入れた結果、兵数はともかく、領地は活性化し、人の往来によって銭も流れて以前よりも発展しそうな勢いを見せ始めていた。
「何なのだコレは?」
率直な感想であった。
時折、人質同然の父よりもたらされる情報は伊勢でも効果的面で、頑張れば頑張るほど信長との差を思い知らされる一方であった。
自分より年下で格下で身分も下賎で、何もかもが自分より劣るハズなのに、何もかも負けている気がしてならない。
具教は官位は授かっているのに、無位無官の信長がどうしても格上に感じてしまうのが口惜しくて堪らない。
自分の価値観が否定されて壊されていく感覚に、自分の人生さえ疑問に感じてしまう事があった。
「何なのだコレは?」
折に触れては何度も呟いた言葉だ。
今に至っては、信長に命じられるまま戦場に赴いている。
その相手はよりにもよって今川義元である。
家格も血筋も何もかもが北畠と同格で、遠く離れた伊勢にも轟く『海道一の弓取り』と戦う自分が居る。
自分の意志ではないが、それでも挑戦できる興奮はあった。
しかし、その義元は自分に目もくれず、自分の頭を飛び越えて、どこの馬の骨とも知れぬ信長を好敵手として認めて争っている。
伊勢の雄たる自分が歯牙にも掛けられていない。
「何なのだコレは?」
何度目かの同じ言葉を呟いた。
その時、不意に具教のいる位置まで矢が飛び込んできた。
具教は無造作に刀を一閃し矢を叩き落す。
今は今川の鶴翼陣に突入し、柴田勝家を援護しつつ側面の敵を相手している真っ最中である。
ともすれば、具教はボンヤリしているかの様な立ち振る舞いであったが、考え事はしていても、最低限の注意は忘れていなかった。
(クソッ! 何もかも信長のせいじゃ! ワシがこの地位にいるのも、この場に居るのも、ワシの頭上で織田と今川が決戦を行っているのも、父が何か楽しそうなのも奴のせいじゃ!)
ここで無様に潰走しよう物なら、ますます織田家中での北畠の立場が危うくなるが、それよりも主役になれない今の状況に我慢が出来ない具教であった。
「右翼! 押されておるぞ! 槍衾構え! 突き崩されるな! 中央! 敵が怯んだぞ畳み掛けろ!」
怒りの力も相まって次々と指示を飛ばす。
長野城撤退戦で何かを掴んだのか、はたまた静かな怒りが幸いしてか、暴走を孕んだ勢いではなく、覚醒したかの様な振る舞いであった。
「左翼弓隊! 指揮官が棒立ちになっておる! 狙え!」
自暴自棄、とまでは行かないが、それでも憤懣遣る方無い具教の織田家での扱いは如何なものなのだろうか?
具教は気付いていないが、じつはあの北畠の当主として、織田では一目おかれた存在として受け入れられている。
特に当主自ら敢行した長野城攻防戦での撤退殿戦は織田家では語り草になっていたのだ。
その上、今回は織田の決戦の地に、突撃隊として激戦区に配属されたのに、その実力を発揮して今川を押し留める勇姿が織田の諸将を勇気付けている。
その尊敬の眼差しには気付いていない具教は、的確な指示と、神掛かった先読みで今川の攻勢を逸らしていくのであった。
【織田軍/森可成隊】
北伊勢を制圧して一旦引き返していた可成は、不満を募らせていた。
北畠決戦に参加出来ないのも気に入らないが、それは信長の理由を聞いて一応の納得をしていたので、帰還したあとでは呼ばれるのを待ちつつ、親衛隊の訓練と野盗狩りに精をだした。
しかし待てど暮らせど呼ばれない。
『忘れられとりゃせんか……?』
呼んでくれれば何時でも駆けつけると言ったのに、全く呼ばれなかったのにも憤慨していた。
なのでその不満の捌け口として、時間の取れる時は内政を行って生産を上げる努力をしたり、野盗の住処を奪うべく、無秩序に乱立する森を林と呼べる規模に整備したりしてお茶を濁した。
この森の手入れが思わぬ副産物を生むのは別の話であるが、とにかくフラストレーションの溜まる尾張待機であった。
だが、とうとう今川との一大決戦についに呼ばれた。
しかも先鋒第三陣である。
攻撃も補助もかく乱も得意とする可成は、喜び勇んで槍を新調し、この戦に望んでいる。
「中央槍隊! 我に続け! 押し返すぞ!」
新調した槍が唸りを挙げて今川兵を的確に仕留めていく。
「三左衛門様!? お待ちを!」
可成の部隊に配属された犬千代(前田利家)が慌てて追従する。
その時、次々と敵を突き倒していく可成の絶技に犬千代が気がついた。
可成は時々顔を向けていない敵、つまり視認していない敵を倒しているのだ。
もちろん雲霞の如く押し寄せる敵数なので、適当に突いたとしても当たるには当たる。
しかし、可成の槍はそれを考慮しても的確過ぎるのである。
犬千代は必死で可成の姿を網膜に焼き付ける。
史実では『槍の又左』と呼ばれる犬千代も、今はまだ小童である。
可成の槍捌きには足下にも及ばないのも無理は無い。
その間違いない才能を知る信長によって、可成隊に預けられて槍使いとしての技を盗ませようとの心配りであった。
そんな犬千代と可成の十文字槍が突いて、引っ掛け、切り払い、巻き上げ手足の如く暴れまわる。
その時、可成の死角から槍が突き出される。
可成の後方に居た犬千代には把握できたので、その槍を叩き落そうとするが、後一歩届かない。
咄嗟に『三左衛門様危ない!』と言おうとしたが無駄だった。
犬千代が声を発する前に、その凶槍は可成の槍によって弾かれていた。
衝撃の光景に犬千代は言葉が出なかった。
「犬千代! ボンヤリ呆けておる暇は無いぞ! 戦を正面からではなく、空から眺めるのだ!」
可成が驚きの余り手が止まっている犬千代を見咎めて注意する。
あわてて犬千代は槍を振り、戦いながら口を動かす。
「三左衛門様! 先程のは見えていたのですか!?」
「見えても居らぬし殺気を感じた訳でもない! 上手くいえぬが直感じゃ! これが戦と言う事よ!」
別に可成は超常的な力を持っている訳ではない。
経験による直感と俯瞰的に戦場を感じる事で、今この瞬間死角から槍が来ると判断したのである。
具体的に説明するならば、可成の奮闘によって敵軍に空白が出来たのは可成も把握していた。
そこから目を切った後に敵兵によって空白地帯に敵が埋まったが、俯瞰で戦場を感じる可成には限定的ながら『戦の流れ』が見えており、『敵が空白を埋める勢いを利用して、攻撃をするなら今しかない』と無意識の考えに反応した結果であった。
戦の流れを見る。
それは大軍を指揮する者の必須項目とも言える。
目に見えない力の流れや、勝機を戦場全体から感じ取り差配するのが大将の仕事である。
今この戦場で、そんな大規模な判断を行えるのは信長や信秀と義元、あるいは沓掛城にいる斎藤道三や太原雪斎であるが、戦いの才能と、何度も死線を潜り抜けた経験が可成の才能を開花させようとしていた。
「犬千代! ここが踏ん張りどころぞ!」
可成はそう吠えて、今川の鶴翼陣を跳ね返し続けるのであった。
【織田軍/塙直政隊】
第一陣が奥深くまで進入し、二陣と三陣が鶴翼の根元で翼が閉じるのを防いでいる中、第四陣の塙直政は今川軍が回りこんで背後を突かないように、北畠具教隊の左後方に位置して戦っている。
その直政は信長の指令を思い出しつつ指揮を取っていた。
『お主は、具教の後方に位置する場所で常に戦ってもらう』
『それは……監視ですか?』
『有り体に言えばそうじゃ。奴はまだ織田に組み込まれたばかりじゃ。人質はとってあるが、だからと言って油断していい理由にはならない。だが、奴の力を遊ばせておける程余裕もない。しっかり背後から目を光らせつつ、潰走させない様に援護せよ』
それが信長の指令であったが、見ている限りでは全くその気配が無い所か、見事な指揮で敵を押している。
余りの奮闘振りに『南伊勢で北畠が徹底抗戦したらどうなっていたか?』と考えてしまう程であった。
(北畠殿はこの様子なら問題は無さそうじゃな。……それよりも問題は……こ奴じゃ)
塙直政の横では妹の塙直子が完全装備で横に控えている。
長野城防衛線で実績を残してしまった直子は、直政の願い空しくその後もあらゆる任務で親衛隊と共に参加していた。
困り果てた直政は『お願いだから最前線に出ないでくれ』と懇願した結果、思いの外アッサリと了承され直政の横にいる事を約束したのである。
あまりの聞き分けの良さに、直政はソレはソレで不安になる。
(何を企んでおるのじゃ?)
直子は何か思惑があるのか?
勿論ある。
それは兄直政の指揮を見て学ぶ事であった。
長野城攻防戦では何とか防衛は成功させたものの、城壁の入念な改修とベテラン副将や親衛隊の補助があったからで、単独の指揮では自分の受け持ちが突破され、長野城が落ちていた可能性があると直子は反省していた。
では、その不足する指揮の経験をどこで補って学べば良いか?
そう思い至った所で『兄がいるじゃない! 利用しない手はないわ!』と猫撫で声で直政に頼み込み、前線に出ないなら、と言う条件付きで帯同を許されたのであった。
その直子が兄の指揮を一挙手一投足見逃すまいと凝視している。
(凄く……やりにくい……。これなら前線に出てもらった方が……いやイカン!)
直政は頭を振って邪念を追い払い指揮を取り続ける。
「左翼! 敵が回り込もうとしておる! 進路を塞いで妨害せよ! 弓隊! 進軍する敵を狙え!」
「兄上! 更に回り込む敵が居るみたいです!」
「分かっておる! 叔父上! 500率いて敵を足止めしてくだされ! そのあと直ぐに更に側面にまわる部隊を差し向ける故、連携して殲滅を!」
「よし! 任せよ!」
直政がそう指令を出し、叔父の塙安弘が了承すると、自身に割り当てられた兵を率いて直政の元を離れていった。
その動きを見送った直政は、横に控える直子を横目でチラリと見た。
非常に期待に満ちた目をしている。
「……仕方ない。直子、お主にも500預ける。叔父上を援護し敵を退けてみせよ」
「はい! 兄上ありがとう御座います!」
直子が直政に飛び切りの笑顔で礼を述べ、直政は顔を背けた。
背けた先には成長著しい藤吉郎(羽柴秀吉)がいたので、恥ずかしさを誤魔化すかのように藤吉郎にも指令をだす。
「と、藤吉郎! 貴様が直子を補佐せよ!」
「へい! お任せを!」
打てば響く太鼓の様な返事をして、藤吉郎は兵を纏めるべく陣を離れた。
藤吉郎も長野城ではまずまずの指揮を見せたので、補佐には好都合であった。
「直子よ! 良く心に留めておけ! 将としての心構えは今はとやかく言わん! これだけ心に留め置け! 我が指示を果たすのが第一、次に自分の命、最後に部隊の兵士。今大事にするべき物の優先順位じゃ。それを考えながら敵をよく見て指揮してみせよ!」
直政は将たる者の最低限の心得を直子に聞かせる。
初めて兄から妹に対し教えられた事に対し、直子は笑顔で返事をする。
「はい! ありがとうございます兄上! では行って参ります! 吉報をお待ち下さい!」
そう言って直子も陣を離れていった。
それを渋い表情で見つめる直政は思った。
「はぁ……。何でこんな苦労をせねばならんのじゃ……。そうじゃ。殿が責任取って側室として貰ってくれんかのう……? そうすれば前線にもでないじゃろうし、きっとお似合いじゃと思うが……」
直政は、この場にはいないが、常ならば前線で活躍する帰蝶の存在を失念していた。
「えっ? 申し訳ありません! 何でしょうか!?」
側近の一人が、独り言にしては声の大きい直政の声を指令と勘違いし聞き返した。
「いや、何でも……違う! ワシらも少し前に出る! 気を引き締めて行け!」
直政はそう指示をだして、背後の桶狭間山の本陣と、遠くに離れる直子を交互に見るのであった。
【織田軍/織田信秀隊】
信秀は、塙直政とは逆側の森可成の背後に位置する場所に陣取り戦っていた。
任務は直政と同じで、可成の補助である。
ただ、この場所に陣取るには一波乱があった。
それは信長が長福寺会談から帰還した次の日の評定の場で、信秀が急に思い出したかのように言い放った。
『三郎、此度の戦ではワシは前線に出るぞ!』
『は!? 何を言うのです父上! 家督を譲ったとは言え織田の前当主! 大人しくしていて下さい!』
『嫌じゃ!』
『何故!?』
『まぁ色々あるが。今川との戦、負ければ織田は無くなるじゃろう。ならば出し惜しみなど出来んはず。それに自分で言うのも何じゃが、ワシに匹敵する指揮官が他に居るか?』
『うぬっ!』
信秀の一言は確かに的を射ていた。
親衛隊の人材は育ちつつあるのだが、如何せん指揮官が足りないのも事実であるし、他の小豪族相手ならともかく、天下に轟く今川を相手にするには心許ないのも事実であった。
『それに、別に討ち死にした所で織田にはお主がおる。何も問題は無い!』
確かに問題は無いかもしれないが、かと言って『じゃあ死んでください』と言える筈も無い。
『それにな。これはワシの後始末でもある。ワシがもっと早期に尾張を手に入れていれば、今川との争いも他にやりようがあったはず。いわばケジメと言う奴よ』
信秀は口には出さないが、親衛隊と共に尾張を駆け回っている方が性に合う様で、引退後の方が活き活きとしていた。
そんな父をみて信長は気が付いた。
《そう言えば……前々世で親父殿は、この頃すでに病に冒されておったはず。今回は全くその兆候が見えぬな?》
《歴史が変わった効果なのでしょうねー。史実で何が原因で亡くなったのかは分かりませんが、確実に死の運命を回避したようです。この先どれだけ生きるのかは本人次第でしょうねー》
ファラージャが信長の気付きにお墨付きを与えた。
『そこまで言うなら分かりました。しかし流石に先鋒最先陣と言う訳には行きませぬが、父上の攻撃力が必要なのも確かな事実。そこで先鋒の第五陣に配置します故、先を行く者達を補佐してやって下され。これが参戦を許す条件です!』
『任せておけ! 義元には散々やられたからな! 借りを返してくれるわ! ハハハ!』
そんな経緯があって今この場にいるのである。
「さて可成め……少々出過ぎておるな。武芸が達者すぎる故の弊害か。よし! 信秀隊全軍前へ! 可成に取り付く今川を倒して敵を追い払う! 槍隊構え! 突撃!」
戦経験豊富な信秀は、可成が孤立しつつあるのを察知し、事前に手を打つ事にした。
手の施しようが無くなる前に、危機に陥る前に、不利を悟られる前に手を打つ。
コレこそが若い親衛隊には真似出来ない、信秀の真骨頂であり『器用の仁』と謳われた手腕である。
「小僧共に負けておられんし、まだまだ教える事は沢山ある!」
もはや織田家において自分の役割は、年寄りだからこそ出来る事を残すのみである。
それに面倒な家督も譲った事で体調も良くなったのか、『こんな事ならもっと早く家督を譲っておけばよかった』とは親衛隊での酒席で信秀の常套句であった。
槍を掲げた信秀が叫ぶ。
「槍衾踏ん張れ! 弓隊! 頭上から矢を射かけよ!」
史実ではとっくに病を発症し、2年後に病没する信秀は、実にハツラツとした生気溢れる顔で部隊を指揮するのであった。
【今川軍/今川義元本陣】
櫓から戦況を確認する義元は、芳しくない戦況に顔を顰める。
「チッ! 織田め、粘りおる。油断をした訳ではないが、それにしても先陣部隊が予想外に精強じゃ。伊勢を制圧したのも頷けるわ! 太鼓連打せよ! 巻き返すぞ!」
義元はそう指示を飛ばし、膠着を打開すべく動き始めるのであった。
桶狭間合戦が始まって数刻。
いまだ上空では勝利の女神が『どちらに舞い降りようか?』と思案しているかの様な、どうなるかわからない、と言う言葉が相応しい様相であった。
どちらが決定打を打ち込めるか?
まずは義元が動き出すのである。




