50話 桶狭間序盤戦開幕
【尾張国/桶狭間 信長本陣】
物見の伝令が息を切らせて信長本陣に飛び込んできた。
「報告します! 沓掛城に向かって今川別働隊が向かっております! その数およそ10000! 大将は……」
「太原雪斎じゃな?」
「は、はい!」
何故かは分からないが、信長は沓掛城には義元は向かわず雪斎が行くであろう、と感じていた。
この期に及んで自分と義元が戦わない筈が無い、と言う自信、あるいは確信なのか―――
戦略上の読みも勿論ある。
ただ、仮に沓掛城に自分が居たら、やはり義元が自ら軍を率いてくるであろう、そんな予感がしてならない。
どうあがいても、雌雄を決するのが運命であるかの様な考えに気が付いて、信長は心中で笑ってしまった。
「よし! 6000で10000を釣ったか! これで数の上では我等は互角! 兄上と義父上(斎藤道三)が居れば、沓掛城は問題無かろう」
報告に対しそう判断した信長は、眼下に広がる自軍と遠くに見える今川軍をみる。
敵は鶴翼陣と思われる配置をしているので、柴田勝家ら突撃隊は、獲物を待ち構える猛獣の口に自ら飛び込まなければならない。
突撃特化と迎撃特化。
どちらが勝つかと言えば、兵の練度と指揮する将の度胸と覚悟とある種の嗅覚である。
石がハサミに勝って、ハサミが紙に勝って、紙が石に勝つ。
そんな単純な三すくみ的な相性の問題ではない。
自軍の損傷は激しくなるだろうが、突破に優れる5人の武将と魚鱗陣ならば、口の奥に潜む猛獣の心臓、すなわち今川義元に届くと信じている。
今日この日の為だけ、と言っても過言ではない程に『うつけ』を演じ『専門兵士』を育てて来たのだから。
「陣貝吹けぃ! 始めるぞ!」
信長の号令の元、陣貝が吹き鳴らされ戦場に響き渡る。
その瞬間、織田軍がビクリと震えた様に見えたのは気のせいだろうか?
ゆっくりとスローモーションで動く映像の様に、先陣の柴田勝家隊が動き出し、順に北畠具教、森可成、塙直政、織田信秀が動き出した。
先陣達の進軍を見届けた後、信長は遠くに見える今川本陣をふと見ると、義元と目が合った―――様な気がしたのだった。
【桶狭間 今川義元本陣】
「報告します! 織田軍に動きがありました! 先鋒の柴田勝家が我が軍に向かっていおります!」
「よし! はじめるぞ! 太鼓鳴らせ! 先鋒の突撃部隊を抑えつつ織田を叩く!」
指示を飛ばしつつ義元は、桶狭間の山に居るであろう信長を見た。
その時、絶対にありえないはずなのだが、信長と視線が合った様な気がした。
最初に信長の存在を感じた時からの因縁を思い起こし苦笑する義元。
「ククク! いかんな。楽しみにし過ぎたか。気分が高揚してありえない事を信じかけたわ」
「え? ……何か?」
伝令が妙な事を呟いた義元を目を見開いて驚いていた。
「ゴホン! 何でもない。さぁて、戦況を見守るとするか」
そう言って義元は陣地に築いた櫓に上り、油断なく戦場を見渡すのであった。
遠い彼方には柴田隊が、モゾモゾと蠢く芋虫の様な速度で進軍するのが目に見えた。
もちろん本当に芋虫の速度ではないが、その一糸乱れぬ行軍は、迂闊に触れると弾き飛ばされそうな力強さを感じた。
「柴田勝家か。尾張内乱の時には捕縛したが、どうやら良き将に成長したようだな! 伝令!」
義元は伝令を呼び指示をだす。
決して劇的な効果があるわけではないが、着実な損傷を与えるべく弓と盾を用意させるのであった。
(この一戦、どちらの援軍が桶狭間に到着するかが勝敗を分けるであろう。頼むぞ和尚!)
そう心の中でつぶやいた義元は、沓掛城で相対する師匠の雪斎を思い浮かべるのであった。
【沓掛城 雪斎本陣】
信長や義元がいる桶狭間で軍が動き出す数刻前の話である。
雪斎の陣には諸将が揃っており、沓掛城攻略の為の作戦が伝えられていた。
そこに偵察に出ていた物見が帰還し報告をしていた。
「報告します! 敵方は場外に展開しております! 旗印から平手、佐久間、城には織田家の旗と……」
「……ん? ……どうした?」
言い篭る伝令に雪斎が先を促すと、伝令が重い口を開く。
「はっ……斎藤家の旗印が見えたのですが……」
「織田と斎藤は同盟を結んで居るからな。この戦場にいても不思議ではない。しかし……そんな事はお主等も先刻承知よな。……っ! まさか斎藤の当主か?」
この決戦に、斎藤家が居ても何ら不自然ではないのに伝令が戸惑う姿から、雪斎は美濃の大名、斎藤利政の名を思い出した。
「はっ。仰る通り、斎藤利政と思われる旗印がありました」
今川陣営には、斎藤家当主が義龍に代わって利政が道三と名乗った事を知らない。
知らないが、そんな事はどうでも良く、それよりも『あの美濃のマムシ』が居る事に雪斎と諸将は衝撃を受けた。
斎藤利政改め斎藤道三。
武田晴信、北条氏康、今川義元に匹敵する名前であるが、土地を支配する一族出身の彼らと違い、道三は氏素性もよく分からない身分から土岐氏の家臣となり、さらに家中で成り上がり遂には美濃を乗っ取った稀代の梟雄である。
下克上の悪質さでは、父を追放した晴信や、兄を討ち取った義元、あるいは史実で主家を追い落とした信長の遥か上を行く、乱世の申し子の様な人物である。
「斎藤利政か。それは面倒だな……。まぁ良い。斎藤の件は置いておく。他に沓掛城はどうであった?」
「はっ! 織田信広、信行兄弟が防衛にあたっている模様! また城の周囲には多数の畝や柵を確認しました」
「信広、それに……そうか、信行が来ておるのか。謹慎が解けて従軍すると聞いていたが真であったか」
かつて雪斎は尾張内乱の時に信行を捕らえた上に、洗脳に近い説得を行い、取り込む事に成功していた。
当時、父信秀や兄信長に似ず、正義感に溢れ人間として素晴らしい少年は、ある意味未熟だった故に容易に今川の正義を信じ、主家を蔑ろにする父を嘆き織田を裏切ってしまった。(17話、20話参照)
結局は信長に負けて、そのまま謹慎処分となったが、今は復帰し兄の信広に従っていた。
「さて、どうしたものか……?」
雪斎は顎に手を当て、暫く思案した後に伝令に告げる。
「よし。お主は桶狭間の殿の元へ行け。『例の策は雪斎が使う』と伝えよ」
「はっ」
雪斎は集まった諸将に、沓掛城攻略の作戦を話し始める。
「では、沓掛城にはこれ以上近づかず相対する。貴殿らも迂闊に手を出さないようにお願いしたい」
「それは、持久戦に持ち込む、と言う事ですかな?」
武田家からの援軍の将である馬場信春が雪斎に尋ねた。
今川の戦法に馴染みが無い故の質問であるが、どうやら今川の将も一気呵成に攻め立てると思っていただけに、信春に同意し疑念の眼差しを雪斎に向ける。
「持久戦、とは少々違いますが、今は時期を待ちます。攻める時は短時間で撃破を目指す故に、今しばらくは沓掛城に対し睨みを利かせて頂きたい」
「成程? それは先程の策とやらに関係しておるのですな?」
信春が何かを察した様にニヤリと笑って雪斎に確認を取る。
「そうです。沓掛城の軍には内応者がいます。その内応者と連携し絶好の機会を作ります。その寝返りと機会さえ作ってしまったら、可能な限り素早く沓掛城を落とします。まずは―――」
雪斎は作戦と策の詳細を話し始め、諸将は沓掛城攻防戦の勝利を確信したのである。
(やはり太原雪斎恐るべし! 御屋形様(武田晴信)が恐れる訳よ!)
馬場信春が雪斎の説明を聞きながら、心中で主君の雪斎に対する感想を思い出すのであった。
【尾張国/沓掛城 織田家 大広間】
沓掛城の大広間には織田信広、織田信行、佐久間信盛、平手政秀、斎藤道三が集っていた。
今川軍の別働隊が向かっているのは随分前に察知していたので対策、と言うよりは最終確認である。
「物見より報告があり、今川軍が二手に分かれ、一方がこの沓掛城に向かっている」
沓掛城防衛責任者である信広が集まった諸将に告げた。
「沓掛城の重要性は今更説明するまでも無い。その上でここに向かう今川軍を釘付けにして、桶狭間に合流させない事が肝要である」
「一つ良いかのう?」
そう言って手を挙げたのは斎藤道三であった。
「何でしょう山城守殿?」
天下に名を轟かす斎藤道三の意見である。
皆が自然と聞く体勢になる。
「この沓掛城での勝利条件は、一つ、沓掛城を奪われない事、二つ、今川別働隊を桶狭間に合流させない事、ここまでは良い」
「……? 何か疑念がおありか?」
信秀の代から織田に仕える佐久間信盛が、道三が何に疑問を持っているのか分からず聞き返した。
道三とは何度も戦った間柄なので、信盛としては頼もしい反面、複雑な面持ちで聞き返した。
「佐久間殿。この沓掛城ではなく、桶狭間側、あるいは織田全体としての勝利条件を考えた場合、沓掛城の勝利条件を達成するだけでは足りぬとワシは思う」
「何を……」
信盛が異論を唱えようとすると―――
「……それは、今川義元の確実な撃破、でしょうか? つまり討ち取る事では?」
信行が恐々としながら考えを述べる。
尾張内乱時には打ち首モノの失態をやらかしているだけに、萎縮してしまっているかの様である。
ただ、道三からすれば己の経歴から考えても、信行の行動は嫌いではないどころか好ましくもあった。
婿である信長の弟として、自分が導いてやっても良いとさえ思っていた。
「さすがじゃな、勘十郎殿。そう。仮に追い払うだけでは織田と今川はこの先、泥沼の戦いを何年にも渡って繰り広げる事になる。そうなると甲斐の武田や越後の長尾、あるいは越前朝倉、近江六角に付け入る隙を与えかねん。それは婿殿も避けたいハズじゃ。先程、三郎五郎殿(信広)が言ったであろう? 『今川別働隊を桶狭間に合流させない事』と。逆に言えば、沓掛城に向かう今川軍が一番嫌な事は我等が桶狭間に向かう事ではないかな?」
平手政秀が、道三が何を言いたいのか気が付き続きを語りだす。
「なる程。恐らく桶狭間側では互角の戦力同士で殿が戦うはず。そこに沓掛城の戦いを制した軍が桶狭間の今川軍背後を突けば! 我ら沓掛城の三つ目の勝利条件は『沓掛城を防衛後、桶狭間に駆けつける』と言う事ですかな。ワシらが援軍に駆けつければ義元を討ち取る可能性もより高まりましょう!」
「その通り! そう言う事じゃ」
「確かに。弟の為を思えば、この一戦で今川を再起不能にまで叩き潰さねばなりませぬな」
信広と道三が政秀に同意した所で、信盛が異論を唱える。
「しかし三郎五郎様。山城守殿や中務丞殿が言う事も分かりますが、三郎様が何も言わなかったのは、我等が沓掛城防衛に専念する為と某は思うのですが?」
道三はこの織田軍全体を見ても、最上級に身分も実績も格上の武将である。
信広や信行は主君の血縁者で、平手政秀は信長を育て上げた辣腕者。
対して特に目立つ功績が無い信盛が、真っ向から異を唱える思惑は何なのか?
(焦りでもあるのか?)
快進撃を続ける織田家の中で家臣達が輝かしい実績を上げる中、特に目立った功績の無い信盛に対し諸将がそう感じ取るのも無理はなかった。
この理想的な作戦に異を唱える理由が他に見当たらない。
また、同じく以前の失態から焦りを感じている信行が口を開く。
「右衛門。お主の心配は分かるが、兄上の為、織田の為を思えば我等は何としても桶狭間に駆けつけねばならないと思う。ワシはかつて兄上の足を引っ張った。その償いもワシはしたいのじゃ」
「勘十郎様……!」
信盛は尚も不満があるのか反対意見を述べたが、場の雰囲気は桶狭間へ援軍に向かう事を最上の行動と決められていった。
(クソッ! 何たる事じゃ!)
信盛が心中で毒づいたが、かと言って多数派の意見には抗えなかった。
「では、どの様に沓掛城に向かう今川軍を迎え撃つが上策か考えよう。この沓掛城は弟が知恵を絞って防御に特化しておる故に、城に篭って場外の部隊と連携すれば釘付けるのは容易じゃが、それでは足りぬのは先程話した通り。しかし、現実的には兵数が劣っておる為、相手を殲滅するのは容易ではない」
「ワシに策があるぞ」
信広が現実問題に対する問題を思案すると、またも道三がアッサリと解決策があると言い出した。
「何と! 山城守殿! それは一体!?」
政秀が身を乗り出して訪ねる。
先程から渋い顔をしている信盛でさえ聞く体勢になる。
「なに、そう難しい話ではない。今川軍にとって一番困るのはワシらが桶狭間に到達する事じゃ。それを利用する。そこで、まずは城に篭って防戦一方に徹する。場外に居る平手殿と佐久間殿の部隊も敵をあしらうが徹底的に防御に徹する。そこで機を見て背後に控えるワシが桶狭間方面へ軍を動かす。今川軍としてはワシの行動は捨て置く事はできぬであろうから、軍を割って追撃部隊がくるじゃろう。奴らにとっても最も困る事をワシが行うわけじゃ。自分で言うのも何じゃが、ワシの名は囮には最適じゃろう」
「なる程! 分断してワシらが挟み込んで各個撃破するのですな!?」
政秀が膝を叩いて道三の意図を読み取った。
「うむ。この城の防御力を考慮すれば、敵を分断さえすれば短時間なら1000で守るのも可能じゃ。10000を丸ごと相手するのはキツイが、分断した上でワシが引き付けて平手殿や佐久間殿が背後から襲いかかる。分断した敵を撃破したら、この城に纏わりつく今川軍の背後から引き返してきた我らと城兵で挟撃する。言わば二重の挟撃策じゃな。挟み撃ちならば兵数が上回る相手も撃破は容易い。……どうじゃ? 希望が見えぬか?」
道三の策は兵の劣る沓掛城で敵を撃破しつつ、桶狭間に援軍に駆けつけられる余力を残せそうな理想的な策であった。
弟の為に道を切り開きたい信広の、汚名を晴らしたい信行の、長年に渡って信長を見守ってきた政秀の、更には積極策に不満がある信盛さえも思わず納得しそうな策であった。
「もちろん敵も必死じゃ。太原雪斎の名はワシも知る故に油断は禁物。しかし我等の奮闘が婿殿の助けとなる。ここが我等の存在意義の見せ所じゃろうて」
家督を譲ったとは言え、道三のその智謀には一点の陰りも見えない。
全員の希望を最大限叶え得る策であった。
「よし! 方針は決まった。では各々配置に付き今川軍を撃滅する!」
総大将の信広がそう宣言して、沓掛城攻防戦が静かに幕を開いた。
これが桶狭間側の戦いが始まる前の出来事である。
数刻後、お互いの軍の弓が射程距離内に入り、矢の応酬が始まった。
沓掛城攻防戦の最中に一人の武将が言葉を吐き捨てる。
「くそっ……何たる事じゃ!」
それは沓掛城攻防戦の結果を決定付ける、崩壊の始まりの言葉でもあった。




