47話 信長と義元の決意と覚悟
【尾張国/那古野城 織田家】
松平広忠が暗殺されて数か月。
表向きは織田も今川も波風立たない静かな、しかし、水面下では戦に向けて準備が進められていた。
まもなく稲刈りが終わろうかと言う時期、信長と帰蝶は改革中の稲の成果を確認しつつ、今川との決戦について話していた。
《殿、前世での歴史で今川を桶狭間で破った時は、確か5月19日(旧暦。西暦6月12日)だったと記憶しておりますが、今回は米の収穫後になりそうですね》
《そうじゃな。以前の織田は貧弱故に、今川も万全の体勢にする必要が無かったのじゃろう。農繁期であろうと十分勝てると踏んだ。結果は勝てなかった訳じゃが、あれは本当に今川の運が悪かっただけじゃ。ワシの奇襲が成功した事、それに合わせて豪雨になった事、今川が取った戦略も何も間違っておらんかったのに、全て最悪の方向に向いただけじゃ。しかし今回はこちらも今川に匹敵する戦力も整えられるから、相手は万全な状態で攻めるハズ。じゃから兵が揃えられる刈り入れ後が一番危険と言える》
《なるほどー。じゃあ、今回は豪雨や奇襲と言った運が絡む事は期待できませんねー》
ファラージャも会話に交じって転生後の最初の難局について、起こりうる可能性を考える。
《今回は今川の真の力を受け止める覚悟をせねばならん。無論、無策で迎え撃つつもりは無い。以前は見捨てるしか無かった味方も、今回は可能な限り救う手立てを取る》
史実の桶狭間戦では信長は、砦の幾つかを見捨てる非情とも取れる手段を取った。
回せる兵が無かったのもある、回したら余計に戦局が悪化するのもある、そんな訳で苦渋の決断をするしかなかった。
通常ならば、砦や城は攻められたら救援するのが基本路線である。
何故なら、主君が助けてくれないと判断されたら、誰も命を懸けて拠点を守ってくれないので、その観点で言えば信長の取った手段は最悪である。
ただ、その時点では現状維持の最悪に転ぶか、拠点を守る為に少ない兵を割いて滅亡に転ぶかの究極の2択とも言えた。
しかし今川側からの視点から見ると、味方の拠点を助けない噂通りの『うつけ』と油断する要素が生まれた。
これが全ての要因では無いが、信長の拠点を見捨てる決断が、豪雨と奇襲成功と今川の油断という極細の勝利の糸を手繰り寄せた。
よく『諦めない限り可能性はゼロじゃない!』と恰好良いセリフを吐く漫画やドラマ、ゲームの登場人物がいるが、現実世界でそれを成し遂げたのが信長であり桶狭間の戦いであった。
《丸根、鷲津の両砦も以前の歴史よりも強化してありますし、そう簡単には陥落しないでしょうが、以前は我らが弱小故の戦術を今川が取りましたが、今回はどうなるでしょうね?》
帰蝶が今回の今川家との戦いの展望を信長に聞いた。
帰蝶もファラージャも、ここが第一のターニングポイントになる事を理解しているので、真剣な表情で信長に尋ねる。
《最初から野戦になるじゃろう。今川が砦攻略に取り掛かれば、その分兵が割かれて儲け物じゃから、念の為の砦強化は施してあるが、その可能性は低いじゃろう。遭遇した場所が一大決戦場となるが、それは半ば狙って居るが桶狭間近辺になるじゃろう。本気の今川軍を相手にするのに、地形の利を活用しない訳にはいかぬ。その為にも周辺地域は念入りに調べさせておる》
信長は帰蝶とファラージャに作戦を言い聞かせた。
その言い方は、まるで自分にも言い聞かせるかのような、慎重で緊張感溢れる言葉であった。
【駿河国/駿府城 今川家】
一方今川家では、日に日に織田家討伐への動きと機運が高まって行った。
特に三河衆が強硬な態度で織田家討伐を叫び、駿河衆も、松平の怒りを利用した討伐に考えが傾き始めていた。
とは言え、そこは絶対君主の義元が首を縦に振らなければ、どんなに強硬派が叫んでも軍が動く事は無い。
その義元は松平広忠が暗殺された時から、戸田一族の裏側に居る人物の動きを待っていた。
そんな中、遂に動きがあったが、予想外の黒幕に義元は面食らった。
「和尚……。広忠暗殺の、戸田一族を操った者から密書が届いた」
そう言って密書を雪斎に手渡す義元の顔は、苦虫を噛み潰したかの様である。
「密書? 我等に害を成しておきながら一体何を……? まぁ、まずは拝見します]
最後まで密書を読んだ雪斎の顔色が、みるみる変わっていく。
「こ、これはっ! 何と言う事か!」
「……これも因果応報と言う奴かのう? 全く望んだ展開では無いが、責任は取らねばなるまい」
「そうですな……。この酷い内容……。これは我ら二人の責任でもありますな……」
溜息と共に2人は顔を見合わる。
「和尚……。彦五郎と竹千代には何と説明すべきかな……?」
「ありのまま説明しましょう。下手に隠し立てすれば今川家が、最悪の場合三河衆が割れる恐れがあります」
「そうか、やはりそうだな。ではワシは三河に行く。和尚は軍備を整えてから三河に入ってくれ」
「承りました。説明はお任せいたします」
「信長とは正々堂々、と夢見てしまった事もあるが、これが乱世よな。ワシもまだまだ青いわ」
義元がそうつぶやき部屋を出て行った。
雪斎も後に続き、家臣たちに陣触れを通達するのであった。
【三河国/岡崎城 今川家】
三河に到着した義元は氏真と竹千代を呼び、広忠暗殺の真相を話した。
「……ッ!!」
二人は絶句し言葉が出ない様であった。
「気持ちは判る。一人の父親として、人間として謝罪は出来る。だが、今川家当主としては謝罪は出来ぬし、この先に織田家を叩き潰す事は変わらぬ。その上で全てを心に仕舞い込んで協力を頼みたい。この密書は利用した上で、今川と松平を操ろうとした浅慮を悔いてもらう事にする!」
「これが、乱世なのですね。分かりました」
義元の決断に竹千代が呟いて同意した。
若干遠い目をしてるが、覚悟を決めたようである。
「父上、竹千代が良いのであれば、拙者が言う事は何もありませぬ。父に、今川に従います」
氏真も同意した。
思ったよりも気落ちをしては居ないと義元は感じたが、外見だけでは何とも言えない。
しかし、待つ事が許されないのも乱世である。
義元は心を鬼にして竹千代に告げる。
「今、駿河では和尚が軍を整えておる。織田と戦う為にな。その軍が岡崎に到着したら竹千代、お主の元服を行う。名は生前の広忠公より名付け親を頼まれておった。そこでお主の祖父である名将清康公から『康』と、ワシの『元』を取って『元康』とする」
「元康……。ありがたき幸せ!」
「最初は『元信』と考えたがな。しかし『信』の字が織田との関わりを疑われて、お主が要らん苦労をしても面倒じゃ。元服までは2ヶ月程じゃろう。それが終わったら織田を相手に初陣じゃ。覚悟を決めておくように」
「はっ!」
「とは言え、実際に三河衆を指揮するのは酒井と内藤となろう。お主は脇で見て学び、兵を叱咤激励すれば良い。彦五郎も同じじゃ。若い二人の懸命な姿が兵を奮い立たせるであろう」
義元は、雪斎が三河に到着擂るまでの間に三河衆をまとめあげ、織田への侵攻準備を整えた。
一方織田も今川の動きを察知し伊勢、伊賀、志摩から兵を集める。
ここに史実よりも10年早い織田と今川の全面衝突が起きようとしていた。
【尾張国/那古野城 織田家】
「殿! 伝令です! 駿河にて陣触があった模様!」
「来たか! 伊勢、志摩、伊賀にも通達! 動員可能な兵全て集める! 美濃にも援軍を請う! 父上、兄上にも通達! 信行にも伝えろ! 汚名返上の機会を与える! 北畠親子にも従軍命令を出せ!」
「はっ!」
「それから此度は農兵も使う! 無理な動員は必要無いが、戦える者は全て集めろ!」
現在、信長が動員できる親衛隊、つまり専門兵士は、尾張、伊勢、志摩合わせて16000揃える事が可能である。
史実の今川家は25000動員したので、互角にするには後9000足りない。
その不足分を美濃の援軍と農兵で賄うつもりである。
伝令は信長の命を伝える為に各所に散っていった。
「於濃! お主には計画通り策の為に動いてもらう!」
「はい!」
「よし! 何とか数の上では互角に持ち込めそうじゃ。後はワシと義元のどちらが上なのか……。果たしてワシは義元を超えておるのじゃろうか……?」
史実では信長率いる織田家は小粒な独立勢力から、浅井、朝倉、北畠と言った大名、武田、本願寺の様な、その時代での最強と呼ばれた勢力を倒してきた。
だが、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就、あるいは今回の今川義元にしても、戦国時代ベスト10に入るようなビッグネームとガチンコで直接戦い、勝利した事は少ない。
時代や勢力の場所が違いすぎたり、戦ってもそれぞれの家臣同士だったり、秀吉や家康の様に味方だったり、あるいは今川義元の様に運よく倒せてしまったりで、実力者とがっぷり四つで組み合って戦った事自体が少ない。
これは別に信長が弱いと言う訳ではなく、力対力を可能な限り避けて準備段階で敵を圧倒したり、外交努力で矛を逸らしたりする政治力が信長の基本戦略。
それ故に力しか無い大名が信長を倒せない理由でもあった。
言うなれば、信長と他の大名では噛み合わせが悪いのである。
しかし今回は違う。
3回繰り返した信長の人生でも、類を見ない程の名将今川義元と力で初めて勝負する事になる。
信長は不安とも、期待とも、何とも表現し難い感覚で身震いする。
「これが……本当の武者震いと言う奴か? やれる事は全てやった……。後は……」
その先の言葉を信長は言わなかった。
言えば何かが抜けてしまうと感じたのだった。
迷信を信じない信長が、思わずそんな行動を取るほど、信長は全神経を今川に向けていたのであった。
【駿河国/駿府城 今川家】
「馬場殿、北条殿。此度の力添え誠にありがとう御座います。主は三河にて準備をしておりますれば、拙僧が代わりに三河までの道を案内させて頂きます」
雪斎はそう言って頭を下げた。
義元が三河に出立して1ヶ月。
武田と北条の援軍が駿府に到着した
甲斐武田から馬場信春。
相模北条から北条綱成。
「なんの。三国同盟での約束に従ったまで。我等も微力ながら尾張平定に力を貸す所存」
北条綱成が丁寧な挨拶をする。
史実にて『地黄八幡』の異名を持つ闘将である。
「ハッハッハ! そうですぞ。天下に名高き今川の軍略、学ぶ機会が得られる事、光栄この上なし!」
馬場信春もそう答えて陽気に笑う。
史実にて『不死身の鬼美濃』の異名を持つ第二期武田四天王の一角である。
現時点では二人ともまだ晩年の武将として完成した姿では無いが、成長途中で働き盛りの武将である。
それぞれの当主から、今川への援軍として1000ずつを表の目的としつつ、裏の目的は今川と織田の偵察と西側の情報収集を兼ねている。
かつて雪斎が駆け回って成立させた三国同盟(42話参照)で武田晴信が提案した、追加の条件が『街道の接続』と今回の『援軍派遣』である。
今川絶対有利の同盟故に晴信がねじ込んだ『援軍派遣』に、出来れば他国に駿河を通過させたくない雪斎は、この条件に渋い顔をしたのであるが、他に手段も無いので承諾したのである。
ただ、今川家としても裏の事情はお見通しであるので、必要最低限の情報しか与えずに、尚且つ今川の強さを見せ付けて、それぞれの主君に報告してもらう腹積もりである。
「ありがたきお言葉。それでは参りましょうか」
雪斎は二人にそう告げて、全軍出立の号令を出した。
こうして合計22000の軍勢が駿河を発った。
秋が終わりかけ肌寒さが増してきた中で雪斎は思う。
(これが、今川家にとって、天下万民にとって最良の戦とならん事を)
【三河国/岡崎城 今川家】
雪斎率いる駿河軍が岡崎に到着すると、早速竹千代の元服が行われた。
10にも満たない幼子であるが、体力はともかく、観察眼は大人顔負けの眼力を誇る。
「これからは、松平次郎三郎元康と名乗るがよい」
「はっ! 松平の名を汚さぬよう、今川の御家の為、粉骨砕身働きまする!」
元康の元気な宣言に、松平の家臣が涙を流して立派な姿の主君に歓声を挙げた。
これから織田家討伐に向かうにあたり、最高の士気を見せている。
そんな中、義元が口を開いた。
「聞け! これにて元康は松平を束ね今川の将として働いてもらう! その初陣として織田を討伐し広忠公へ捧げる! 良いな!」
岡崎城の広間からは大歓声が上がっていた。
義元は雪斎と氏真、元康に目配せし、三人も頷き返す。
今回の戦いは勝つのは勿論、広忠暗殺黒幕を引きずり出し、尾張を制圧し、援軍には好きにさせないと言う厄介な戦いである。
とは言え全てを同時達成しようとは考えていない。
あくまで優先順位は勝つ事である。
(さぁ信長よ! 望んだ形とは少々違うが、それでも雌雄を決する時が来た! 今川の力、ワシの采配を存分に堪能させてやろう!)
義元はそう心の中で呟き、尾張で待ち構える信長の勇ましい顔を思い浮かべるのであった。




